普遍的な恋愛問題を抽象化した独自世界

このレビューは本文終盤への言及があるので、未読の方はぜひご一読の程を。

この物語は、「僕」と「彼女」の恋愛関係とともに、「死体遺棄」という共犯関係の成立を出発点とする。恋愛と共犯はどちらも、互いに互いを助け合いつつも、その関係性はほんの些細な外部からの影響で崩壊する恐れのある、いわばあやうき運命共同体である。そう言う意味では、(後述するが特にこの小説内では)恋愛と共犯関係は相似の関係にあると言える。また、体育館裏という匿名性の高いシチュエーションということも、二人の関係の秘匿さを演出し、この物語の中では恋愛と犯罪はスリリングなものとして描かれている。実際、この二人の関係が公になることはなく、死体を物質と解釈すれば、たった二人だけの閉じた関係として物語は進んでいく。
このような恋愛と共犯関係の取り合わせは、キリスト教における創世記に描かれる世界観とリンクする。
この物語において恋愛とは不確定性、すなわち「神」である「彼女」にとってもアンコントローラブルな概念であり、「完全なるもの」のコントロールから外れたものである。これは「禁断の果実を食べてはならない」という、神のコントロールに反いた原罪と重なる。加えて、原罪はアダムとイヴが二人で果実を食するという共犯関係によるものである。神の目を盗み掟を破るような「秘密の悪事」の緊張感として、冒頭の「恋愛」「共犯関係」が導入される。
そして、この物語の冒頭では「彼女」「僕」「死体」の異なる三つの位相が提示される。全知全能、そして不滅の存在である「彼女」。「彼女」には及ばないが、思考や罪の概念をもち(真っ先に死体を気に掛ける)、それでいて有限の命(年齢)を持つ存在である「僕」。そして思考がなく、物質的に滅びゆく肉体だけが残る存在である「死体」。この三項は、それぞれキリスト教における「神」「人間」「畜生」の序列、あるいは「完全無欠の精神」「不滅の精神と必滅の肉体の融合体」「滅びゆく有限の肉体」といったように、不滅と必滅、その中間体という関係が仕込まれている。
この三項関係において、完全無欠である彼女から完全性を奪うものこそが、先ほど提示した「恋愛」と「共犯」という2つの要素のうちの「恋愛」である。すなわち、完全な「彼女」を不完全な「僕」の側に引き寄せる唯一の要因は、「恋愛」なのである。「彼女」にとって「僕」がルシファーに見えたのも、ルシファーが禁断の果実をイブに食べさせようとしたことと、「恋愛」によって「彼女」を神の器から人間の位相に引き寄せた「僕」が重なるからであろう。
対して、「僕」と「死体」をつなぎとめるのは、「罪」の意識、すなわち物語で提示された「共犯関係」がその役割を担う。彼は罪悪感から遺体の処理を考えるはじめるからだ。
そのような相似した「恋愛」と「罪」という2つのネットワークで結ばれた三項関係は物語の終盤で大きくその意味合いを変える。
物語終盤では、「僕」は「彼女」と共に「死体」のいる世界をまるごと置き去りにし、高次元の世界へと移る。この行為の意味は、出発点である『原罪』に対して、『楽園への突入』であると私は解釈する。
「死体」を埋めるときに「彼女」と「僕」が歌う第九の歌詞では、楽園へと足を踏み入れていく男たちの話が描かれている。そして、歌中でその楽園の入り口に位置するケルビムの節で、彼らは埋葬を中断し、新たな世界の創造へと舵を切る。
これは、原罪を認めていながらでは原罪を乗り越えることは出来ないのだと彼らが気付いたからではないだろうか。共犯関係は罪を認めたところで罪を犯した事実自体が抹消するわけではないため、本質的な解決ではないと言える。
(追記:第九の解釈に記憶違いがありました。新たな世界に舵をきる「閃き」がケルビムの「魔法」である、と解釈したほうが自然かもしれません。)
そういう意味で二人の関係は『完全恋愛(犯罪)とはほど遠い』のだ(このようにタイトルからも、「恋愛」と「犯罪」が可換であることがうかがえる)。
彼らが取った手段は、世界そのものを「埋葬」するという新たな共犯関係の構築であり、新たな世界へたった二人で乗り込むという駆け落ちである。すなわち、物語の出発点であった原罪を、新しい行為で上書きすることによって乗り越え、二人の楽園へと向かっていくのである。償いではなく、罪が罪であるという事実自体に変更を加え、楽園へと入門する。
新たな世界で、彼らは「恋」という不確定性を認めた世界を創り出すという「共犯」を行う。しかし、それは元の世界で捉えられるような罪の関係ではなく、その世界の中では否定されない存在として再構成される。正確に言えば、完全性と不確定性というテーゼとアンチテーゼに対するアウフヘーベンとして、「完全か不完全か」などという二項対立は存在しない文字通り『高次の世界』に踏み出したのである。二人は会話の中で不確定性を肯定する。それは、不確定性という罪を世界の理に組み込むことによって、罪を我々の世界で言うところの罪でなくさせたのである。
そこで特筆すべき点は、新しい世界で「彼女」に感情が芽生えたということである。冒頭、すなわち原罪が罪である世界で「彼女」が告白をした際、赤面していないことが描写されている。しかし、罪が罪でないこの新しい世界では「彼女」は涙を流すのである。我々の世界において、完全であるとは不完全さを持たないことも意味する。一方、この高次元の世界での「彼女」は完全さも、感情という不完全さも併せ持つ、真の完全無欠としての姿を見せるのだ。
その真の完全無欠な世界こそが、彼らにとっての真の楽園なのだ。二人の関係を誰も否定も肯定もしないクローズドな楽園を彼らは拓いていくのである。創造という世界の展開と恋人関係の契りという関係の独占を同時に行う「完全な彼女」と「不完全な僕」の姿は、完全と不完全を併せ持つ楽園を象徴するものだろう。
蛇足かもしれないが、この物語は単に超然的な恋愛ストーリーというわけではなく、現実の恋愛においても普遍的に内在する問題を取り扱っているだろうと、私は考える。愛しあう男女の「愛」の気持ちは、「愛」以外の何物でもなく、不可侵でそれ自体には欠けのない概念である。愛情そのものに確かな形はないのだから、欠けることも本来はないのだ。しかし、我々は往々にして「彼は/彼女は愛情に欠ける」などと言う。だが、よくよく考えてみると、そういった場合に欠けているのは愛情ではなく、愛情と結びつく「行為」が欠けているのである。行為には肉体性を伴う以上、我々は完全なる行為はできない。どれだけ愛情が完全なるものであっても、それを表出させるための行為それ自体は不完全なのである。つまり、恋愛をしていく以上、その「完全」と「不完全」を併せ持つ性質を乗り越えなければならない。そうとなれば、恋愛とは「概念と行為」、あるいは「こころと肉体」の相反する概念を乗り越える過程として捉えることができる。すなわち、この物語の骨子を借りれば、恋愛とは恋人関係という罪によって生じた、自家撞着という「罪」を乗り越え、二人だけの「楽園」を目指すことと言える。
「僕」と「彼女」の恋愛を描いたこの『完全恋愛にはほど遠い』は、上記のような恋愛に内在するパラドックス的問題を抽象化し、キリスト教的世界観へ落とし込んだ作品と言えよう。
このような恋愛に関する深い洞察を、筆者にしか描けない独自の世界観へと落としこむ技巧は傑作という以外に評せない。