誘惑と熱望のヘリオトロープ
「随分と粋な真似をしてくれたわね」
革靴を躊躇いなく踏みつけながら、少女はゆっくりと歩み寄ってくる。
ボクは天王寺さんを真っ直ぐ見据えながら、死角になっていて見えていないであろう球と携帯を気付かれないように物陰の奥へと移動させた。
そして視線は前に向けたまま、指先だけ慎重に動かして単語を入力していく。
「妙な動きをした瞬間、身体に大きな風穴が開くと思いなさい」
脅しではない言葉にゴクリと息を呑む。
大丈夫だ。
まだ気付かれてはいない。
天王寺さんの影がボクの身体を覆い尽くす。
見た目は普段通りのクールな優等生だが、今は冷血な悪魔にしか見えなかった。
「もう一度質問するわ。貴方はどうして裏ルールのことを轟君に話していたのかしら?」
最後の一文字を入力し終える。
後は返信ボタンを押すだけ。
視線を逸らすように横目で画面を確認しつつ、天王寺さんの質問に答えた。
「ボクは何も――――」
「やりなさい」
こちらの狙いに気付いたのか。
はたまた、解答が癇に障ったのか。
無慈悲な少女の判断により、ボクの身体はくの字に曲がった。
「か……はっ…………」
一体何が起こったのか。
視界に映ったのは、半透明な茶色の細長い先端。
ランスとでも呼ぶべき大きな円錐型の槍が、ボクの胸部を深々と貫いていた。
「――――――」
不思議と痛みはない。
寧ろ抜け落ちたのは、そういった感情や感覚そのものである。
喜怒哀楽。
視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚。
何一つ考えず、何一つ動かない……そんなマネキンへと変わっていく。
「まだイシキガあるヨウね」
「うん。デモもう――――ナイトオモウ」
「ソウ――――ケッキョク――――――」
目の前にいる二人の会話が、壊れた――――のように音飛びし始めた。
刺さっていた――が、ユックリと引き抜かれた。
「――カノン――――――チョット――――――」
「――――、――――――エミナ――――ニマダマ――――?」
「――――――?」
コトバがオトと化す。
メノマエがクラクナッタ。
ドウシテコウナッタンダッケ。
モウ……イイヤ……。
「――、――――――――――」
……………………ナンダ。
………………イイ…………ナンダッケ……?
…………ニヲイ……?
「――、――――――」
ウゴイテル。
ナニカをハナシテル。
「――――――クン、――――――――カシラ?」
マブしい。
持っていた――を向けられた。
「マッタク、セワがヤケルわね」
少しずつ意識が戻っていく。
目の前にいる誰かは、ボクの両手についていた銀色の束縛を外した。
そして自らの肢体を照らすように、ライトの点いた携帯を置く。
「起きなさい霊崎君。動くことができれば、私に色々できるわよ?」
耳元で囁かれた後で、顎をクイッと持ち上げられた。
少女は妖艶な笑みを浮かべると、ボクの左手を軽く握る。
そのまま自分の元へと引き寄せると、短いスカートの裾に触れさせた。
「ほら、こんな風に……ね?」
ボクの手が少しずつ、ほんの少しずつ上がっていく。
布地にシワが寄り、隠されていた艶めかしい太腿が露わになった。
「――――――」
スカートの中へ手を突っ込んでいるという、エロティックな光景が興奮を誘う。
脱力していた指が数本、瑞々しい肌に触れた。
感覚神経から脊髄を経由し、大脳へと刺激が送られる。
身体がピクリと反応し、更なる欲を求めて無意識に指先を動かした。
「!」
瞬間、ボクの顎と手を支えていた柔らかい感触がパッと消える。
慌てて顔を上げると共に重力に従い落下しようとする腕を必死に伸ばすが、既に少女は手の届かない距離まで下がっていた。
「ぁ」
名残惜しさから、自然と声が出る。
糸のように細くなっていた気管が広がり、肺に酸素が取り込まれ血液が循環を始めた。
そんなボクを見た少女は、置いてあった携帯を手に取るとライトをこちらに向ける。
「ようやく喋れるようになったみたいね。自分の名前はわかるかしら?」
「え…………? た、霊崎真……」
「それなら私は?」
「て、天王寺……さん……………………っ!」
「何があったか思い出したみたいね。そんなに怯えた顔をしなくても、今の霊崎君を攻撃するつもりはないから安心して頂戴。現にこの通り、治してあげたでしょう?」
天王寺さんはボクに背を向けると、いつの間にか閉められていた物置の扉を開ける。
携帯のライトだけが光源となっていた狭く暗い空間に、眩しい夕日が差し込んだ。
「回復したのなら、こんな埃っぽい所に用はないわ。場所を変えるわよ」
「え……? 場所を変えるって……?」
「貴方と話をするために決まっているじゃない。すぐそこのファミレスでいいかしら?」
「う、うん……」
あれだけ説得しようとしても馬の耳に念仏状態だったのに、こんなにもコロっと態度を変えられたことに混乱しながらも、突き刺された腹部に手を添える。
出血どころか傷一つない。
学生服にすら穴は開いていなかった。
わからないことだらけなまま、とりあえず立ち上がる。
「おっ……とと…………?」
重い腰を上げた途端に視界がフラつき、慌ててパイプ椅子の背もたれに手を突いた。
立ち眩みかと思ったが、異常なほどに身体がだるい。
歩くことすらままならず、そのままペタリと膝をついてしまう。
「随分と辛そうね」
物置の外に出た天王寺さんが、くるりと振り返るなり口を開く。
返事すらできないボクを見るなり、深々と溜息を吐いた。
「霊崎君。さっき私が言ったこと、覚えているかしら?」
「?」
「動くことができれば、私に色々できるわよ」
色々……?
その言葉を聞いて、下がっていた顔が自然と上がった。
「手を繋ぐ程度じゃ、霊崎君は満たされなさそうね」
生徒会室で握られた、シルクのような感触を思い出す。
「ご希望はキス? それとも、もっと過激なことかしら?」
視線を上げると、艶やかな唇が目に入った。
「一応、スタイルには自信があるのだけれど」
大きな胸を強調するように、天王寺さんが腕を組む。
「さっきの続き……したいでしょう?」
スカートの奥に手を入れ、太腿に触れた時の興奮が蘇ってきた。
「頑張ってここまで来て頂戴」
色っぽく笑いかける天王寺さんを目の当たりにして、胸が高鳴らずにはいられない。
不思議と身体は軽くなり、今にも走り出してしまいそうな早足で素早く移動した。
「て、天王寺さん……い、いいの?」
「何がかしら?」
「えっと……だから……その…………色々……」
「駄目に決まっているじゃない」
「…………へ?」
「動くことができれば私に色々できるとは言ったけれど、それはただの事実であって私に色々してもいいと言った覚えはないわ。仮にそんな真似をしたら婦女暴行で訴えるわよ?」
「……………………」
「何を絶望しているのかしら? もしかして霊崎君は私のことを、誰かれ構わず身体を許すようなビッチとでも思っていたの? 心外ね」
「い……いや……そんなことは……」
「それじゃあ私は先に行くから、さっさと自転車で来て頂戴」
「は、はい……」
悲し過ぎる掌返しに絶望するが、世の中そんな上手い話がある訳がない。
物置の中に転がっていた革靴を履き直した後で、大人しく駐輪場へ向かおうとした。
「…………あっ! て、天王寺さん! ちょっと待って!」
大切なことを思い出し、慌てて天王寺さんを呼び止める。
振り返った少女は、やや不機嫌そうに口を開いた。。
「何かしら? 先に言っておくけれど、質問ならファミレスまで一切受け付けないわよ?」
「いや、そうじゃなくて……天王寺さんって生徒会だったよね?」
「それがどうかしたのかしら?」
沈みかけの夕日を背にしながら、天王寺さんは首を傾げつつ答える。
ボクは深々と頭を下げた後で、情けないお願いをするのだった。
「その……パンク修理の道具、貸してくれませんかっ?」
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