歪みと逃走のインフォーム

 放課後……とは言っても日が沈むような時間でもない六限直後。日直の仕事を終わらせたボクは、部活動にも入っていないため真っ直ぐ駐輪場へと向かった。


(交友関係は広げておいた方がいい)

「そうは言われても、特に入りたい部活もないからさ……っと……ん?」


 サイと話をしながら鞄を籠に入れた後で、スタンドを上げて方向転換。サドルに跨ってからペダルに足を乗せると、空気の抜けたタイヤが地面に擦れ合う音が聞こえる。

 まさかと思いつつ少し前に進むと、ガタンガタンと振動が響いた。


「げっ…………マジ?」


 自転車を止めてタイヤを触ると、前輪の空気が見事に抜けている。テスト後には空気を入れる約束をしたばかりなのに、どうやらパンクしてしまったらしい。

 幸いにもこうした事態に備えて生徒会では無償修理を請け負っているが、防ぐことができたかもしれない事故であると思うと自責の念に駆られた。


「サイ、ごめ――っ?」


 謝ろうとした瞬間、不意に何かが頬を掠める。

 同時に、突然悪寒が走った。

 耳元で虫の羽音が聞こえた時のように慌てて仰け反る。

 頬へ手を当ててみるが、何かが貼りついているような気配はない。


「………………?」


 周囲を見渡し、違和感に気付く。

 背後にある花壇の一部が、ぐらぐらと歪んでいた。

 あまり凝視していると酔ってしまいそうな歪みは、どことなく人の形にも見える。

 まるで陽炎のような、普段なら決して見ることがない光景。

 得体の知れない存在に呆然としつつも、興味本意から右手を伸ばす。

 数秒後には後悔する、軽率な行動だった。


「――――――――」


 掌をパックリと切り開かれ、そこに大量の虫を注がれたような不快感。

 指先まで行き渡った異物が、肉を食い破ろうとするような苦痛。


「――――はっ…………う……あ……」


 そんな錯覚が、一瞬にして脳を駆け巡った。

 我に返るなり伸ばしていた右手を見るが、何一つとして異変は起きていない。

 しかし歪みに触れた途端、思わず嘔吐しそうな程の気持ち悪さを感じたことは事実。それを裏付けるように身体は震え、額からは脂汗が流れ出てくる。

 危険。

 非常事態。

 これに関わってはいけないと、本能で感じていた。

 脳だけが活発に働き、全身の筋肉に上手く命令が届かない。

 心臓の鼓動だけが、やたらと大きく聞こえる。


「――――」


 最初は見間違いかと思った。

 動いていないように見えた歪みが、徐々にこちらへと近づいてきている。

 それを理解した瞬間、押し寄せてくる感情よりも先に自然と身体が動いた。


「あ……うわああああああああああっ!!」


 叫びながら一目散に走り出す。

 逃げろ。

 どこだっていい。

 迫りくる恐怖に、頭の中は真っ白になっていた。


「はっ、はっ、はっ」


 妙に視界がぐらつく。

 ぐるぐると回転して平衡感覚を狂わせた時のような気分だった。

 吐きそうになりつつも後ろを振り返る。

 距離は開いているものの、人型の歪みはボクを追ってきていた。


「はっ、はっ、なんなんっ、だよっ?」


 校舎の角を曲がった後で、茂みの中へ姿勢を低くして隠れる。

 荒い呼吸を整えつつ、葉と葉の隙間からそっと覗いた。


「――――」


 速度としては、徒歩と早足の中間くらいだろうか。

 少ししてから現れた歪みは、真っ直ぐこちらへと向かってきている。

 偶然かもしれない。

 可能な限り息を潜めたが、歪みは徐々に迫ってきていた。


「………………っ!」


 気付かれている。

 そう感じた瞬間、茂みの陰から勢いよく飛び出した。


「はっ、はっ……えほっ……げほっ…………」


 大して休めないまま試みた、二度目の全力疾走。

 元より体力は自信がない上に、不調の身体は既に満身創痍だった。

 助けを求めるにも逃げた方向が悪く、こういう時に限って誰一人見当たらない。


「うあっ?」


 走り続けて行き着いた無人の駐車場で、足元がおぼつき蹴躓いて転んだ。

 慌てて身体を起こし、後ろを振り返る。

 追跡を止めない歪みを目の当たりにして、血の気が引いていくのを感じた。

 ……来るな。

 …………来ないでくれ。

 そんな祈りも虚しく、手の届く距離まで歪みが近づいてきた瞬間だった。


「伏せてくださいっ!」

「!?」


 突如聞こえた、舌足らずな少女の声。

 言われた指示とは裏腹に、声がした方を反射的に振り向いてしまう。


「おぶふっ!」


 瞬間、得体の知れない細長い物が軽快な音を立ててボクの顎を打ち抜いた。

 アニメとかでは咄嗟に反応してギリギリ避けるのが定番だが、実際にやるのは無理な話。何が起きたのか理解することもないまま、ボクの身体は意識と共に沈んでいった。








「――――で、これはどういう状況なのかしら?」

「ご、ごめんなさい……この人、何も知らないみたいに見えたから……その……助けるつもりだったんだけど、私の攻撃が当たっちゃって……それで……」

「気絶したの?」

「う、うん」

「そう。別に謝る必要はないわ。悪いのは彼の方だし、優しいのは貴女の長所よ」

「あ、ありがとう。お姉ちゃん」

「それにしてもシロなのかクロなのか、轟君の件と合わせて色々と確認しておく必要がありそうね。花音かのん、彼を運んで貰えるかしら? 場所は――――――」

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