第58話 我慢強い少女と、かつての私
ぴちょん、ぴちょんと一定のリズムで水が蛇口から落ち、それがタイルに触れると水音が部屋中に響き渡る。
それはまるで私に落ち着けと指し示してるように感じ取れた。
二人っきりの、逃げ場のない浴室で、傷が所々にあるしおりちゃんの体を見て興奮を抑えきれない私に。
───こんなになるまで、しおりちゃんは頑張って生きてきたんだね。
改めて見れば、しおりちゃんがどれだけ必死に生きてきたか分かった。そんなしおりちゃんを益々、幸せにしてあげたいと思えるようになり、私はまた彼女に幸せになれる方法を教えるのだった。
「はい、それじゃあしおりちゃん鏡に向かって笑ってみて」
「こう……ですか?」
私に言われるがままにしおりちゃんは鏡に向けて表情を作る。
“歪な表情”を。
口元はどう見ても笑ってるようには見えず、ぎこちなさが前面に出ていた。目も到底笑ってるようには見えず、言うなれば“無”であった。
「おかしいわね……さっきはちゃんと笑えてたのに。次はもっと楽しいこと考えてみてやって見ましょ?」
そう言って私はまた笑って見るようにしおりちゃんに伝える。
そんなしおりちゃんは鏡を見ずに私の方を振り向く。
「あの、おねえさん。どうしてそんなに笑顔にさせたがるんですか?」
不安げな表情で私にそう聞いてきたしおりちゃん。
そんなしおりちゃんに私はちょっとばかしの悪戯心の芽が花開いた。
「ん、『おねえさん』?詩織さん、じゃないの?」
私がそう言うと、少しだけ俯きがちになると
「し、詩織さんは……どうして私に笑顔にさせたがるんですか?」
私の事を『おねえさん』から『詩織さん』へと言い直して、再度聞いてくるしおりちゃん。困惑しながらも、真剣な顔で。
そんなしおりちゃんに私も真剣に向き合う。真正面から向き合う。
「うーん。そりゃもちろん、私がしおりちゃんにいつも笑顔でいてもらいたいからだけど……やっぱり一番はしおりちゃん自身に『自分はこんなにもステキな顔で笑えるんだ』ってところを知ってもらいたいから」
「そんなの……私にはまだ出来ませんよ……」
「でも、さっきは出来てたわ。だからね、そのうち自分の意思でできるようになると思うの。その時が少しでも早くくればなって」
私には出来ない、そう言うしおりちゃんに私は今自分が思ってる事をぶつける。裸の場だからか、包み隠す事なく言葉がスラスラと出てくる。
しかしながら、本音を伝えたとしても、それがしおりちゃんを納得するかは別問題だった。
「それで笑顔の練習ですか」
一向にして不安げな表情を続けるしおりちゃん。そんな彼女の表情を見ていると、次第に罪悪感が湧き上がってくる。そして本音を隠せないこの場では、余裕のある私になる事は出来ず
「ゴメンね。嫌だったら、早いうちに言ってね?やめるから」
つい、ネガティブになってしまった。
けれどそんな私とは対極な言葉がしおりちゃんの口から飛び出した。
「ぇ……?嫌になるわけ無いじゃないですか」
「……!」
私は思わず涙が出そうになった。すかさず、一度しおりちゃんから目をそらして“大人な私”になろうとした。
が、そんな隙を突くように
「詩織さんは私をここまで元気にさせてくれました。そんな人をどうして私が嫌いにならなくちゃいけないんですか?」
しおりちゃんがズバリと言うのだった。
「でも私、ワガママだし……」
「それは悪いことなんですか?」
「だって、迷惑じゃない?」
「どこがです?」
さっきまでとはまるで立場が逆だった。さっきまでは自分を否定したがるしおりちゃんを私なりに励ましていた。
けれども今は逆で、しおりちゃんに励まされてるようだった。
今まで自分がつけていた仮面を脱がされ、心まで丸裸にされてるようだった。
「しおりちゃんが嫌がる事をしちゃうかもしれないし……」
「それよりも私を見てくれる詩織さんがいてくれるだけで嬉しいので、嫌がる理由なんて無いですよ」
しおりちゃんがどこか強くなった反面、私は弱くなってしまった。そんな気がしてならなかった。
しおりちゃんは我慢が出来なくなって逃げ出してしまったと言っていたけれども、その出来事が無ければ私はずっと仮面を被ったまんまであったし、”彼“に何かされて取り返しのつかない事になっていたのかもしれない。
そう考えると、感謝するのは私なのだ。
「しおり……ちゃん……ありがとうね、私のところに来てくれて」
しおりちゃんがいなければ、大変な事になっていたかもしれないのだから。
そっとしおりちゃんを抱きしめる。しおりちゃんの体を私の体に押し付ける。全身で、しおりちゃんを感じる為に。
そしてしおりちゃんも私に体を押し付ける。互いに押し付け合い、私の胸にしおりちゃんの控えめな胸が包み込まれる。胸の突起にしおりちゃんの肌が密着する。
それは今まで感じたことのない感覚で、それでいて幸せな感覚でもあった。肌と肌を合わせる事がこんなに幸福なのかと、今日まで知る事は無かった。
あぁ、もっと感じていたい。この幸せを、しおりちゃんの肌の感触を。
しかしながら、私の思うようには世界は動いておらず、しおりちゃんの世界でもあるのだ。いつまでも私の好きなようには出来なかった。
「あの、詩織さん」
「何……?」
少し抱きしめる力が強かったのか、少し苦しそうに私の名前を呼ぶしおりちゃん。そんな彼女に私は恐る恐る返事をする。
幻滅されてしまっただろうか。実は弱いとこばかりな私に。甘えたがりな私に。
裸でいる限りきっと私はこんな言葉ばかり考えてしまうのだろう。早く、しおりちゃんからの用事を済ませて先に出て気持ちを切り替えないと。
そう考えていたところに、私はまたしてもしおりちゃんから不意打ちをもらうのだった。
「また……綺麗にしてもらっていいですか?私、早く詩織さんみたいに素敵な大人になりたいです」
「私みたいに……か。本当にありがとね」
私は涙が止まらなかった。
しおりちゃんと過ごした今日一日、彼女にガッカリされたくなく、なんでもできる”風”な雰囲気を出し、おねえさんである”様“に振る舞い、人生経験豊富である“私”を作り出した。実際の私はそんなんじゃないのに。けれど、“先生”の家で暮らしていた時の私に似ているしおりちゃんを見ると見栄を張りたくなってしまったのだ。
『私はこんなに立派になれたよ!』
自分にそう言い聞かせたかったのだろう。
けれど、しおりちゃんはしおりちゃんで、私では無かった。何もかも私とは違った。
「詩織さん、明日、見ててくださいね……きっと乗り越えてみせるので……」
しおりちゃんは強い。
“先生”の家、特別指定孤児院『宮原の園』に住んでいた頃の私よりも、全然。
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