第56話 幾年ぶりかの電話

「家って……しおりちゃんの家?」

 私は口の中に入れていた生姜焼きを飲み込むと、私はしおりちゃんにそう聞いた。


「そうです」

 特に表情を変化させず、頷くしおりちゃん。

「どうして急に?ご両親の元に戻るの?」

「いえ、戻る気は無いです。おねえさんの……詩織さんのそばにずっといたいので……」

 しおりちゃんが私の事を言い直して“詩織さん”と呼んでくれたことに思わず笑みが溢れそうになったが、

「それを聞いて安心したわ。戻るって言い出したら、どうしようって思ってたから」

 私はどうにか感情を抑え話を途切れさせないようにした。


 きっと勇気出して呼んでくれたのだろう。抱き締めたい。『よく頑張ったね』と言ってしおりちゃんを褒めちぎりたい。

 けれど、ここでそれをしてしまったらしおりちゃんの決意が揺らいでしまうかもしれない。そう思うと、迂闊なことはしてはいけないと考え、グッと心で体を抑え込んでいた。


 その甲斐があってか、しおりちゃんはすんなりと言葉を続けたのだった。

「言いませんよ、絶対。……絶対“あの人たち”の元には戻りませんよ」

“あの人たち”。

 しおりちゃんは決まって両親のことをそう呼ぶ。それだけで、どれくらい彼女が両親の元に戻りたくないかが分かった。


 私が“先生”の元から離れたのとは逆だ。しおりちゃんは本気で両親が嫌いで離れたのだ。

“先生”への反発で離れた私とは、本当に真逆だ。

 私は“先生”が好きだったのだ。みんなを平等に愛し、みんなからも愛される“先生”が。そんな“先生”を独占したくて、でもそれは叶うわけがなく、気づけば“先生”に反発していた。

 それでも“先生”は私に愛を与えてくれた。


 だからこそ、私は“あの人たち”を許してはおけなかった。

「そうよね。なんせ、しおりちゃんが居ないと生活費がとか何とか、言ってる人たちだものね」

 気づけば、私はやや感情的に昼間コンビニで聞いた言葉を口にする。

「……あの、どうしてその事を」

「昼頃にね、しおりちゃんの父親とばったり会ったの」

「っ!!」

 マジマジと私に質問してきたしおりちゃんは、私が父親と会ったと伝えると顔を青ざめながら驚く。


 持っていた箸をテーブルに置くとブツブツと申し訳なさそうにしながら怯え始めるしおりちゃん。

 それを見た私は、元々伝えるつもりだったことを口にする。

「大丈夫。しおりちゃんがここにいるのは知らないし、私と関わりがあるのも知らないと思うわ」

「あぁ、そう……なんですね」

 自身の無事を確認できると、怯える様子が少しだけ収まったように見えた。しおりちゃんにとって余程恐ろしい人物なのだろう。

 そんなことを考えていたら昼間のことを思い出し、

「『いい大人がコンビニでパンツって、ハッ』って言ってきてね。その時はちょっとカチンてきちゃったよ」

 と口が滑ってしまった。

「すみません……お父さんが、詩織さんに失礼な事を言ったみたいで」

 再び申し訳なさそうにするしおりちゃん。今度は怯えるのではなく、まるで自分が悪いかのように。


 その姿にたまらなく怒りを感じた。なんで、親の失態を子供が謝らないといけないのか、と。

「いいのよ、しおりちゃんは謝らなくて」

「でも……私が替えの下着を持って家を出ていれば」

「尚更しおりちゃんのせいじゃ無いわよ。そもそも子供が家出するような環境を作り出した親が悪いんだから。しおりちゃんの場合のは特に、ね」

 何かと自分のせいにして、何かと帳尻合わせるようにしてきたのだろう。自分が罪を被ればそれでいいと、思って生きてきたのだろう。


 まだ高校一年生の女の子にその生き方はあまりにも酷すぎると私は思った。そして何より、それを半強要させるような環境を作り出した彼女の両親の存在は許せなかった。


「親が……悪い……?」

 キョトンとした顔で私を見るしおりちゃん。

『なんで?どうして?』

 そう言いたげな目でしおりちゃんは私を見る。

「そうよ。しおりちゃんは悪く無いの。自分を卑下する必要は無いし、もっと自分を褒めていいの。しおりちゃんは凄い子なんだから!」

「自分を、褒める……?凄い子……?」

 まるで何を言われてるのか分からないと言った様子のしおりちゃん。

 そんなしおりちゃんに私は自分の気持ちをぶつける。

「昨日までずっと一人で耐えてきたんでしょ?私には出来ないもの!相当心が強く無いと出来ないもの!」

 本心で真実だった。そう、私には出来なかったのだ。だからこそ、しおりちゃんのことを私は本気で凄いと思っている。

 けれど、本人はそれを頑なに認めようとせず

「でも、結局耐えきれなくなって今ここに逃げ出して……」

 と、ずっと気にしている様子だった。


 我慢をし続けなければ、ならないという使命感を破ってしまった罪悪感が襲ってきているのだろうか。よほど、我慢し続けていた証拠だろう。


 そんな彼女に届く言葉は果たしてあるのだろうかと、不安になりながら私は口を開き、それをしおりちゃんに伝える。

「心が休みたくなっただけよ。きっとまた元に戻るわ。その時にまた頑張ればいいの。今は……少しだけ気を休めて自分を甘やかしていいんだよ。しおりちゃんは頑張ってきたんだから」

 私は今精一杯伝えられる言葉をしおりちゃんにぶつけた。それが彼女の心に届いたのか不安だったが……

「ありがとう……ございます……っ!」

 どうやら、杞憂だったようだ。


 泣くのを誤魔化すためなのか、単純にお腹が空いていたのか、スープとご飯を順に口の中に流し込み始めるしおりちゃん。目からは涙が溢れ出し、頬をつたってテーブルの縁にポツリポツリと落ちていく。


「お風呂、沸かして来るわね。しおりちゃんはゆっくり食べてて」

 食事は十分に済ませた私は一足先に、食器を片付け浴室へと向かった。


 昼間のシャワーの水がタイルに残って湿っている浴室。その中で私はおもむろにスマホを取り出した。


 そして、電話帳のお気に入り欄に登録されているただ一人の人物に電話を掛け始める。


「……“先生”出てくれるかな」


 何年ぶりだろう、私から“先生”に連絡を取るのは。

 何年ぶりだろう、“先生”の声を聞くのは。

 何年ぶりだろう、“先生”に甘えたいと思ったのは。


 コール音がこれほどまで怖いと思ったのは今まで無かった。それほどまでに緊張しているのだ。


『……もしもし、詩織ちゃん?どうかしたの?』


 長いこと連絡をせず、声すら聞いていなかったと言うのに、一声聞いただけでさっきまであった緊張感がどっかへいってしまった。


 それほどまでに“先生”の声は、変わらず優しかった。

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