第53話 静かに私は前へ踏み出す
スマホの音が部屋中に鳴り響く。暗い部屋の中で断続的に鳴り続ける。私はそれを、静かに毛布に包まって見守ることしかできなかった。部屋の隅で鳴り続ける、『お父さん』と表示されたスマホを。
助けて……詩織さん、助けて……!!
私は心の中で何度も詩織さんを呼んだ。
声は出ない。出そうとすれば、痛さで喉が焼けるような感覚に襲われる。声を出して詩織さんを呼びたいのにできない。
これが辛くて苦しくてそして、もどかしかった。
呼んだとしても詩織さんが戻ってくるとは限らないけれども、私は声に出せるだけでも幸せだったのだ。たとえ、本人の前では呼ぶ勇気が無いにしても。私は詩織さんの名前を呼びたい。
「し……」
一声出しただけなのに痛みで詰まってしまった。それでも私は気を取り直して次の言葉を声に出す。
「……ぉ……っ」
声が裏返る。けれどもしっかりと言えている。今はそれでよかった。声として出てるならそれで。
「り……さ、んっ!」
最後の力を振りしぼって私は詩織さんの名前を言い切った。
ただそれだけで何が起こるわけでも無い。むしろ何も変わらない。ただの私の自己満足だ。
私が詩織さんの名前を呼びたくなった、それだけだ。
私は詩織さんの事が好きなのだろう。確証は無い。好きという感覚をはっきりと感じた事は今まで無かったから。それでもきっと、私は詩織さんの事が好きなのだと思う。
こんなに、今すぐ会いたいと思える人は他にはいないから。何度も名前を呼びたいと思ったことも無かったから。そして、誰かを思い浮かべて匂いを嗅ぐなんて事も無かったから。
詩織さんに会うまでは。詩織さんに拾ってもらうまでは。詩織さんと今日一日一緒に過ごすまでは。
「しお……りさん……」
途切れ途切れではあるけれども、私は詩織さんの名前を口にし始める。
依然として喉の痛みは収まりはしないけども、それでも何度も詩織さんの名前を口にした。
時には小さく、時には掠れたりはしたけれども、全部詩織さんへの想いは本物だった。
そして、これが何度目かは分からなかったがついに、
「詩織さん……」
とつっかえる事無く言い切る事が出来た。その直後に猛烈な喉の痛みが襲ってきたが、それがもはや祝福にさえも感じられた。
私が詩織さんの名前を呼び続けてる間にもスマホは鳴り続けていたが、全く気にはならなかった。じっーっとスマホを眺めているとプツっと電話が切れると、初めて留守番録音が
流れ出した。
『おいコラ!!今お前どこにいんだ!さっさと帰ってこい!!俺たちを飢え死にさせるつもりか!!』
怒声。昨日まで何度も聞いた怒声。昨日までだったらきっと、恐ろしくなって電話をかけ直していただろう。殴られたく無いから。厳しく躾けられたく無いから。そんな事を考えながら。
けれど、詩織さんの家に来てから私は変わった。まだここでの生活は一日しか経験してないけども、確かに私は変われた。ここには自分を認めてくれる人が二人もいる。
私は強くなれた。まだまだ詩織さんに比べたら弱いけども、昨日までの自分を乗り越えたと思う。
「……見ててね。私、頑張るから」
そう言って“私”に語りかけると、鳴り止んだスマホをおもむろに持ち上げると、そのまま電話帳を開く。
そしてそのまま、『お父さん』とその上にあった『お母さん』と書かれたフォルダの電話番号を削除したのだった。
その直後
「しおりちゃん!大丈夫!?」
と声を出しながら、慌ただしく私の元へと詩織さんが駆け寄ってきた。
息は荒く、コートを着たまま。手は冷たく、鼻はほんのり赤い。
外から帰ってきたばかりなのがすぐにわかった。
そんな詩織さんの事を見つめながら、私は微笑んで返事をした。
「……大丈夫です。何も、ありませんでしたから」
と。
強がりではなかった。何も無かったのだ。私と詩織さんとの間に障害なんて無かったのだから。
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