第50話 悲しみ、哀れみ、そして決別へ

 私の家から遠く離れた小さな丘。初めて訪れる、小さくも立派な木が中心に生えてる素敵な丘。そこから見える街の灯りがとても綺麗で、私はしばらくの間、しおりちゃんの事を考えながらボーーっと眺めていた。



 しおりちゃん、一人で大丈夫かな……。


“彼”を無我夢中で蹴っていたしおりちゃんを落ち着かせることは出来たが、また私の家に連れてきたばかりのように、私に怯えてる様子が感じ取れた。私がしおりちゃんに酷いことなんてするはず無いのに、それを警戒されてるような、そんな感覚。


 悲しかった。しおりちゃんに怯えられてる事では無く、またしおりちゃんにそんな思いをさせてる自分がいる事が。そして、その原因である“彼”を招いてしまったのが私である事が、また悲しかった。


 少しの間、離れよう。

 今のしおりちゃんにとって、私は近くにいてはいけないする。特に“彼”との縁があるうちは。

 そう思った私は手早く、“彼”を自分の車に連れ込み、車を走らせた。そして、つい先ほどこの夜景の綺麗な丘へとたどり着いたのだった。

「ん……ンァ?ここはどこだ……?」

「起きた?痛いところは……あるわよね、あんなに蹴られててんだから」

「あっ!おい、詩織!ここはどこなんだよ!それにあのガキは!?」

「落ち着いて」

 寒い夜風に晒されながら、木の根元に座り込んだまま開口一番に荒々しく大声を上げる“彼”に私は優しく諭した。

 けれどそんなことで“彼”が収まる訳もなく

「落ち着いていられるか!今からあのガキに大人の男の怖さを思い知らせてやる!!さっさとあのガキを俺のところに連れてこい!!」

 と喚きだした。

 そんな“彼”の様子に私は臆することなく、

「それより前に、自分の状況確認してみたら?だいぶ頭にきてそんな余裕がないのはわかるけどね」

 と、“彼”を見下ろしながらそう告げた。

「は?俺の状況?……って何で俺手錠なんかされてるんだ!?」

 ようやく自分の状況を理解したのか、顔の前に腕を持ってくると『信じられねぇ! 』と思ってるのが丸わかりの表情をする“彼”。

 そんな滑稽な“彼”の様子に思わず口元が緩みそうだったのをなんとか抑えこんで、“彼”と一緒に家から持ってきた袋に目を向けながら、私は更に言葉を続けた。

「あなたが私に隠れて買ってたものを拝借させて貰ったわ。あなたが望んだ使い方は出来てないと思うけど、自業自得よね」

 そう言い終わると、私は『ふふっ……』と思わず微かに笑いが漏れてしまった。私にこれを使って何をしたかったのかは分からないが、それを私に使われるなんて可哀想。そう思ったら笑わずにはいられなかった。

 そんな私の様子は当然“彼”には面白いわけが無く、声を更に荒げる。

「ふざけんな!これを取れよ!!俺にこんなことしていいと思ってんのかよ!詩織ごときが!!」

「いいなんて思って無いわ」

「だったら──」

「でもその手錠を取る気は無いわよ。諦めなさい」

 私がそう言い切ると、“彼”は一瞬だけ怯んだように見えた。

 けれどやはりそれは一瞬だけで、すぐさま私を威嚇するような顔に戻った。しかし、それと同時に私の我慢も限界を迎える事になった。ずっと、心の中で我慢していた“彼”への我慢が。

「ふざけんな!!俺が本気でキレて無いと思って調子乗りやがって!俺が本気出せば、詩織なんて手も足も出ないだろうが!!」

「ふざけんなはこっちにセリフよ。さっきから聞いてれば、私を女だと思って見下してるような発言ばっかりして……まるで自分は強いような発言ばかりして……今まで私のお金で生活してきておいて何を言ってるの!?あなたの方がよっぽど弱いじゃない!!!」

“彼”の荒々しい声に負けず劣らず、猛々しい声を張り上げる私。こんな声出せたのかと、私は密かに驚いた。しかし、そんな驚きなんて“彼”の次の言葉で吹き飛んでしまった。

「女は男に尽くすもんだろ?詩織は一体何言ってんだ?むしろ『世話をさせていただいてありがとう』って感謝されるべきだと思うんだが」

「……あなた、それ本気で言ってる?」

“彼”は一体何を言ってるのだろう。『感謝されるべき』? 『女は男に尽くすもの』? 本当に“彼”は何を言ってるのだろうか。

 しかも悪気は無い様子で、私の反応に素っ頓狂な顔をする“彼”に呆れるしか無かった。

「こんなところで冗談言うと思うか?」

『当たり前の事を言ってるだけなんだが』

“彼”の自信満々の態度がそんな言葉も言ってるようにも感じられた。……いや、もしかしたら本当にそう思ってるのかもしれない。そんな“彼”に私は肩を下とすしかなかった。

「そう……そうよね。うん。もっと早く気づかせてあげるべきだったのかもね。ゴメンね、私ずっと気がつかなかったわ」

「おい、詩織?どうしてそんな哀れむような目で俺を見るんだよ!」

 自分が何を言ったのかをまるっきり分かっていない様子の“彼”。

 そんな“彼”に私は背を向けた。

「しおりちゃんを待たせてるから、私は戻るわね」

 丘の近くに停めてある車に一人戻る為に。そして、しおりちゃんのそばに戻る為に。“彼”に見切りをつけた今の私ならきっと……。


 そんな事を考えながら、一歩足を踏み出す後ろから“彼”がまた叫ぶ。

「俺を置いてく気かよ!こんな訳も分からないところに!!」

 しおりちゃんに蹴られた時の痛みがまだあるのか、“彼”はなかなか立ち上がる事は無かった。これなら、手錠なんてしなくても平気だったかしら、と考えながら“彼”の方を振り返る。するとそこには、足を引きずり、腕だけで私の後をついて来ようとしている“彼”の姿があった。

 哀れだった。あんなに強気な発言をしていた“彼”が瞬く間に惨めな格好をしているのだから。けれど、そんな“彼”を同情なんてする気は無かった。するはずがなかった。

「あなたとの生活、それなりに楽しかったわ。けど、これで会うのは最後。これから新天地で頑張って」

 そう言って私はまた車に一歩、また一歩と近づく。“彼”との距離は離れていく。

 しかし、“彼”は諦めが悪かった。

「詩織!おい、ちょっと待て!会うのは最後ってどういうことだよ」

 そう言って、ズルズルと腕と腹をうまく使って私に近づく“彼”。いつでも“彼”を振り切れる私だったが、これが“彼”に会える最後の瞬間だと思うと、中々進む事は出来なかった。


 間違っていたとはいえ、愛していた時期があるからだろう。やはり最後は心残りは無しにしたい。そんな考えがあったのかも知れない。

 そして私はもう少しだけ、“彼”と話す事にした。これが本当に最後になるのだから。

「そのままの意味。もう会わないし、会うつもりも無い。ここは私の家から遠く離れてるし、徒歩では厳しい距離よ」

「そんなの、すぐに場所調べれば詩織の家に戻ればいいだけじゃねぇか」

「そんなことしたら、通報するから」

「は……?通報?何でだよ?」

 どうして私がそんな事をするのか分かっていないのか、また素っ頓狂な顔をする“彼”。

 あぁ、本当にどうしてこんな人を好きになってしまったのだろう。その頃の自分に問いただしたいくらいだ。

「あなたが家で暴れて、私やしおりちゃんに暴行したことを、よ。しおりちゃんが大声で叫んでたから、きっと近所の人は信じてくれるわ」

 過去の自分に悔いながら、私は通報する理由を説明した。きっとこれならわかるだろう、と思いながら。

 しかし、その思いは届かず

「それなら詩織が俺をこんなところに誘拐したことを警察に伝えてやるよ!!」

 と、まさかの返事が“彼”から告げられた。

「別に、いいわよ?あなたにそれができるのなら」

 私はもはや呆れるしか無かった。自分の状況を分かっていない“彼”に。自分の優位性にしか目がいってない“彼”に。そして、そんな“彼”を愛していたことのある私に。

「どう言う意味だよ」

 すっかり余裕のなくなった“彼”は力無く私に聞き返す。そんな“彼”に私は淡々と言葉を返す。

「そのまんまよ。あなたが警察に私を訴えても、私はあなたに暴行された事を伝えて返り討ちにできるってことよ」

「お前……何が目的だよ。俺をこんなにして何が目的だよ!!」

 荒々しいながらも、時々掠れる“彼”の声。何度声を上げても私の意思は変わらない。“彼”とはこれでおしまいにする。それは、別に今さっき決めたことでは無く……

「そんなのあなたがあの家に戻って来た時に言ったじゃない。あの家はあなたが帰って来ていい場所じゃなくなったの」

 今日、“彼”が私の家に訪れた時から決めていた事だ。その決意が徐々に強まった、ただそれだけのことだった。

「なんだよ、あのガキにご執心ってか?」

「……そうなるわね」

 嫌な言い方をしてくる“彼”に私は少しムッとくる。たしかにその通りなのだが、“彼”がいうとどこか含みがあるように感じられた。

 しかし、“彼”はそんなんでは終わらなかった。終わるような人じゃなかった。

「はははっ!!女同士で何ができるって──」

“彼”の言葉を遮るように、私は“彼”の右頬にビンタをした。

 寒い夜空に響く炸裂音。街のビルに音が反射したのか、余韻が聞こえる。

「あなたがしおりちゃんを笑わないで。一生懸命生きようとしてる女の子を、私の足に縋って生きてきたあなたが笑わないで!!」

“彼”の頬を叩いた時の痛みなんてその時は気にならなかった。そんなことよりも、しおりちゃんが笑われてる事の方が我慢ならなかった。

 それ以上に“彼”とはもう目も合わせたく無くなってしまった。

「これだけ、返しとくわね。私にはもう必要ないから」

 そう言って私は“彼”に袋を投げつけた。丁寧に扱うのすら億劫になってしまった。

 綺麗さっぱり、私の未練は晴れた。きっと“彼”にはしおりちゃんの良さは伝わらないのだろう。伝わって欲しいとも、今は思えない。


“彼”からの返事は無い。無くても別にいい。もう私には関係のない事。

「じゃあね。元気で」


 地面に這いつくばる“彼”に再び背を向け、今度こそ車へと足を運んだ。“彼”が追いかけてくる事は無かった。



 時間はかかってしまったけれども、これでしおりちゃんの元へ戻れる。

「待っててね、しおりちゃん」

 すっかり遅くなってしまった事に焦りながら、私は来た道を辿り、いるべき場所へと戻るのだった。

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