第48話 後悔先に立たず


「しおりちゃん、起こしちゃってゴメンね?この人はなんでも無いの!」

“彼”に手首を掴まれながら私はしおりちゃんにこっちへ来ないよう願った。辛うじて動く手のひらで精一杯ジェスチャーする。これで伝わるかは分からないが、それでもやらないよりはマシだった。

 しかし、私の言葉に“彼”は不機嫌そうに笑う。

「おいおい、なんでも無いは酷くねぇか?昨日まで一緒にいたのにヨォ」

 そう言って私の体をジロジロと舐めるように見る“彼”の視線に嫌悪感を覚える。

 昨日までは感じなかったこの感覚。もしかしたら気づけなかっただけかも知れない。だらしなく笑う、“彼”に愛を感じなくなったから、真実の姿を見れるようになったのかも知れない。

 それとも、“彼”が今まで隠すのが上手かったのか。今となってはどちらでも良かった。

「私の事重いとか言って出ていったじゃない!なんで戻ってきたのよ!!」

「そりゃ、やっぱり俺がいないと詩織は寂しがると思ってナァ」

「そんなわけないでしょ……」

 今は“彼”にこの場から早く立ち去ってもらう事を考えよう。

 昂る気持ちをもはや抑える気は無かった。この昂りは怒りだ。しおりちゃんとの安息の場を荒らされた怒り。そして、易々と“彼”を家の中に入れてしまった私への怒り。

 私の手首を掴んでいる大きな手を振りほどいて、今すぐにでも足元にある袋をぶん投げたかった。割れ物が入ってようが、鈍器になるようなものが入ってようが関係なかった。“彼”がどんなに大怪我を負おうがどうでもいいのだ。


 もう私が構ってあげる義理なんて、無いのだから。


 そんな事を考えていると、“彼”がしおりちゃんの方に興味を持ってしまった。

「……ところであそこにいるガキは誰だ。“しおりちゃん”って叫んでたけど」

 そう言いながら、挑発するように私の首元へ舌を近づける“彼”。長く、今では嫌悪感しか無い“彼”の舌がゆっくりと近づく。私の顔が強張ると共に、しおりちゃんもまた、正気を失いかけているのが分かった。

「しおりちゃん、私は大丈夫。だから、深呼吸しよ?ね?」

 自分の首なんて、しおりちゃん心に比べたら安いものだと思いながら私は、彼女に声を掛ける。何度も何度も。


 けれども、しおりちゃんからの返事は無かった。

「おいおい、無視されてんじゃん。大丈夫かァ?はははは!!」

 私としおりちゃんのやり取りが、“彼”にはよほど可笑しいのか、高笑いを始める“彼”。しかし、私の手首を抑える手の力は一向に緩む気配は無かった。

 どうやったら“彼”を追い出せるのだろう、と若干諦めていたそんな時だった。

「……おねえさんから離れて」

 しおりちゃんがこちらを睨みながらそう呟く。

「お?なんだ、構って欲しいのか?」

“彼”は嬉しそうにしおりちゃんと向き合う。ニヤニヤと本当に嬉しそうに。


 ───本当に、どうしてこんな人を好きになってしまったのだろう。

 心のそこから後悔していた。

 けれど、後悔するのは後でも出来た。それよりも今は、しおりちゃんの事が大事なのだから。


「おねえさんから離れて!!私のおねえさんから!今すぐに!!」

「しおりちゃん、落ち着いて……!私は大丈夫だから!」

 私たちに詰め寄るしおりちゃんをどうにか宥めようと、必死に声をかけ続けた。

 けれどそれは強制的に止められた。

「詩織はちょっと黙ってろ」

「んんん……!!!」

 口に指を入れられ、同時に鼻までも塞がれる。呼吸が上手く出来ない。次第に、意識が遠のいていく。

 ───ほんと、どうしてこんな人なんかを好きになってたんだろうなぁ。


 声を荒げるしおりちゃんが迫ってくるのを薄っすらと感じながら、私の視界はプツッと途切れた。




 ──ドスッ、ドスッ。

 鈍い音が耳元で鳴り響く。何度も何度も。


「……しお、りちゃん?」

 目を開け音の正体を確認すると、それはしおりちゃんが倒れ込んだ“彼”を蹴る音だった。

 虚ろな目のしおりちゃん。そんな様子は、とても痛々しかった。

「しおりちゃん?ねぇ、しおりちゃん……?」

 呼びかけても呼びかけても、しおりちゃんが返事をする様子は無かった。それどころか、“彼”を蹴る事を止める気配すらも無かった。


 異常だった。明らかに異常で、それがしおりちゃんにとって自然な振る舞いに見えたのが、更に異常だった。

 そんなしおりちゃんをこれ以上見ていられなくて……

「しおりちゃん!もうやめてっっ!!もう十分だから!!」

 強く、強く抱きしめた。


 しおりちゃんには笑顔でいてもらいたい。私にはどんな事があってもいい。しおりちゃんが笑顔で、幸せに暮らしてくれるなら。


 ───それなのに、それすらも私は出来ないようだった。


 しおりちゃんが咄嗟に言い放った『私のおねえさん』という言葉が急に脳に流れる。


 ───弱くて、ゴメンね、しおりちゃん。


 涙は出なかった。出せなかった。私が招いた事に涙を零す事なんて出来やしなかった。

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