第37話 左手首に右手を添えて

「ごちそうさまでした」

「ご、ごちそうさまでした……」

 私と詩織さんは同時に掌を合わせて、食材への感謝を示して食事を終えた。


 食卓の上にはお茶碗が二つに大皿が一つ、そしてお箸が二膳とスープ椀が二つ。詩織さんはそれを少しずつ流し台へと運んでいく。

 詩織さんの手伝いをしようと、一緒に食器をキッチンにある流し台に運んでいると、どうしてもガスコンロの上に置かれている鍋に目がいってしまう。鍋の中には、さっきまで飲んでいた卵スープの残りが入っていた。

「ごめんなさい、結局追加を作らせてしまって……」

「気にしないでいいのに〜。あれは私が作りたくなったから作ったの。しおりちゃんが謝ることなんて無いのよ?」

 私が謝ると、そう言って詩織さんは私の頭にポンと手を優しく置いた。そしてそのまま頭を撫でてくれる。

「でも私がお昼作るって言ったのに」

 気にしないでいい。そう言われても、私は最終的には詩織さんの手を煩わせてしまったことに変わりは無かった。


 結局、私一人では何も出来ないと言う事を実感させられた。詩織さんの役に立とうなんて私にはまだ早かったんだと、分かってしまった。

 いや、むしろその通りだ。私は何も成し遂げて無いんだから。

 陸上で県内三位がどうした。そんなのが詩織さんとの生活で何の役に立つ?


 結局、私には何も無いんだ。


 そう思っていると自然と、左手首に右手の親指の爪を食い込ませていた。



『だったら、今から身につければいいんじゃない?』

 心の内から“私”がそう問いかけてくる。


 今からどうやって身につけろと?教えてよ!

 心の中で自分自身に叫ぶ様に問いかける私。


 するとすぐに返事が返ってきた。

『詩織さんに教えて貰えばいいのよ』

 そんなの出来るわけない。詩織さんに迷惑を掛けたくない!

『なら、諦めるの?このままだと詩織さんに何も返せないままよ?』

 それは、嫌だけど……。

『なら、やる事はもう一つじゃない?』

 でも迷惑に思われないかな?私なんかがお願いして……。


 しばらくの間自分との押し問答が続いていた。その間にも、左手首には親指の爪が食い込み痛みが増していく。それでも、力を緩める事はしなかった。この痛みは私への罰なのだから。


 一瞬意識を手首の方に向けていると、考えが纏まったのか“私”が答えを返してきた。

『私がお願いして迷惑に思うんだったら、そもそも昨日の夜、私を拾うなんて事は無かったんじゃない?』

 それは……そうかもしれないけど……。

『それにお風呂や灰皿の時だって、慰めてくれる事はあったけど追い出そうとはしなかったじゃない?だから、きっと迷惑だなんて今更思わないわよ』

“私”が言っている事は理にかなっていた。それでも、私はどうしても一歩踏み出せなかった。


 自分の無力さを知るのが嫌だった。

 何も持ってない私が嫌だった。

 詩織さんに頼らないと何も出来なくなってしまうかもしれない私を見るのが嫌だった。


 結局は嫌なことから逃げてばっかりだと思い知らされる。こんな自分すらも嫌だった。


 けれど……

『なら、もう私はこれ以上なにも言わないよ?それでいいのね?』

 いつも私を救ってくれていた“もう一人の私”に嫌われるのはもっと嫌だった。


 ───ねぇ、一緒に詩織さんへの頼み方考えてくれる?


 親指の力を緩めながら“私”にそう聞いてみた。


『当たり前じゃない』

 返事が来る頃には、右手の親指はすっかり左の手首から離れていたのだった。

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