第23話 幸せな匂いと嫌いな匂い

「うふふ……詩織さんの服……うふふっ……!」

 詩織さんが外に出かけた事を良い事に私は再びソファに寝転がり、袖口や襟元を鼻のそばに持っていきこれでもかと言うほど嗅いでいた。


 こんな事をしてるとバレたらきっと追い出されるかもしれないと思いながらも、なかなか止めることなんてできなかった。

 落ち着くのだ。幸せなのだ。


 この匂いを嗅いでる時だけでも、辛かった事を忘れられるのだ。


「そういえば、朝起きた時にもこの感覚……」

 ふと思い出したかのように、私は朝、私自身が目を覚ました場所へとやってきた。

 そこは紛う事なき寝室だった。枕が二つ並んだ大きいベッドが入ったすぐそばにあり、ベッドを挟んだ向こう側の窓際の方には小さなガラス製のテーブルが置いてあった。そのテーブルの上には重い青色をした灰皿が一つ。名前は書かれてあったけれども、詩織さんの名前ではなく男の名前だった。


 しかし今の私は知らない人の灰皿には興味は無かった。

 私がこの部屋に来たのは……

「あぁ……やっぱりこの匂いだ……!はぁぁ……落ち着くなぁ……」

 私が目覚めた時に顔を埋めていた枕を確かめる為だった。

 枕に染み込まれた今日何度嗅いだか分からない、そしてついさっきまでも嗅いでいた匂いが枕に顔を埋めると共に鼻の中に入ってくる。

 幸せな香り。詩織さんの香りが私を幸せにしてくれる。


 やっぱり詩織さんはすごいや。そばにいなくてもこんなにも幸せに感じるんだから。


 そう思いながら、隣に並べてあった枕にも顔を埋めようとした。その時だった。


「……違う。詩織さんのじゃない……!こんな匂い詩織さんのじゃない!!!」

 明らかに今までこの家に来て嗅いできた匂いとは全く別の匂いを放つ“ソレ”を壁に叩きつけるように思いっきり投げた。

 鼻に微かに残る酸っぱい感じの、嫌な匂い……。

 ふと、あの“あの人たち”の顔が過ぎってしまった。嫌いな嫌いな“あの人たち”の顔が……。

 その瞬間私は何の匂いか分かってしまった。家で何度嗅いだか分からない、あの嫌な匂い。

 何一つ良いことなんて無かったあの家に染み付いたあの匂い。それと同じ匂い。

「こんなところでまで、私を邪魔しないでよ!!!」

 そう言って、私は誰のか分からない灰皿を掴みすぐそばにあったゴミ箱へと叩きつけた。

 しかしそう簡単には割れてくれなかった。いや、むしろ割れてくれなくて逆に良かったのかもしれない。

「こんなもののせいで……!こんなのがあるから……!!!」

 私のこの嫌な匂いの嫌悪感は、一度や二度と灰皿を壊した程度じゃ治るものでは無いのだから。

 何度も何度も……何度ゴミ箱に叩きつけようと一向に収まることの無い嫌悪感。むしろ、叩きつける度に感情に飲み込まれていってる感じもする。

 しかしそれでも私は灰皿を叩きつける事を止めなかった。止めてしまったら私が私でなくなる気がした。


 いや、もう止め時なんてものは過ぎてしまったのかもしれない。もう手遅れなのかもしれない。

 けどもし……もしまだ、手遅れじゃ無いのなら……誰か助けて……!!!


 灰皿を振り上げるのはこれで何度目だろう。何度、ゴミ箱を“あの人たち”だと思って灰皿を叩きつけただろう。

 もう分からない。分からないけど……これでいい気もしてきた。

 だって……自分に嘘をついてるわけじゃ無いんだもの。

 でも、何だろうなこの虚しさは……。

 あぁ……終わりたい……終わらせて早く楽になりたい……。

 割れて……割れて割れて割れて割れて割れてーーーーー!!!!


 勢いよく振り上げ、再びゴミ箱へと狙いを定めていた時だった。

「しおりちゃん、そこまで」

 いつの間にか帰ってきていた詩織さんは、ビニール袋片手に私を真剣な目で見つめながら、空いた手で私の腕を掴んだのだった。

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