それでも夏は終わらない

@meumeu8739

後書き

たとえ私の伸ばしたこの手のひらが夏の終わりを掴み取ろうとも、きっと私の一番求めるものは手に入らない。この色褪せた世界はそうやって作られている。色褪せた世界が色がない分冷めて見えて、でも夏の暑さは正確に伝えてくるように。


私も日本に生まれたからにはこの夏の暑さを受け止めていかなければいけないんだろうと思う。でも、夏らしく汗でしめった白い制服の袖を十分にまくっている彼とは違って、私の小さな体ではたとえ精一杯大きくなろうと頑張っても、この夏の暑さをそのまま等身大で受け止めるなんて不可能な事だった。少しずつこぼれおちていくのだ。大切なものを大切にしようとするほど少しずつ綻び、零れ落ちていく。


零れ落ちた夏の暑さを必死に拾い集めて、それでも零れ落ちていくスピードの方が早くて。そして、いつの日にか夏の日差しよりも熱い好きという二文字の感情を伝える前に落としてしまったのだ。拾おうとしても私の薄く小さな手では拾えないくらい熱く、大きい感情を。


今でも思う。私の幼馴染はこの感情をまだ知らない。



「最近倦怠期なんだよね。」


そういった幼馴染の夏らしく小麦色に日焼けした褐色の肌の上を大粒の汗が無尽蔵に滑り落ちていく。袖をまくり、額にかいた大粒の汗を、ここ数年で随分と太くなった小麦色の腕で拭う。まるで全身で夏を満喫しているようだ。

そんな中私は、夏の刺々しい日差しを浴びながら悲壮感を漂わせて嘆く彼の姿に、胸がチクリと痛くなり、そしてひっそりと心が踊った。

私は彼のその言葉をどれだけ待っていただろうか、大好きな幼馴染の不幸をどれだけ待ち望んでいただろうか。

自分の性格の悪さに嘆きつつも、よくやくチャンスが回ってきたと喜んでしまう私はどうやら性格が悪いのかもしれない。疑いようもない晴天が私達をそっと見下ろす。


「へぇ、どんな感じで?」


この時ばかりは、今まで好きな人の惚気を笑顔で聞き続けていた過去の私に感謝しなければなと思う。感情と真逆の表情を作ってきた、過去の私を。


私はなるだけ無表情になるようにして聞くと、彼は数秒のラグの後少し悩んだような素振りを見せて、


「最近学校で会っても目を合わせてくれないんだ。メールも時々帰ってこなかったりするし。」

「……ドンマイ。あんたの初恋は儚く散っていくんだ。そう、まるで五十代男性の寂しい生え際のようにね。」

「……。やっぱりそういう事なのかな……?」


声を震わせ、涙目になって私を見つめる彼に私は思わず「冗談、冗談。私が応援してあげるから諦めるなって。」と心にも無いことを言ってしまう。

夏の刺々しい日差しは私の心をこれでもかと抉りあげていき、地温で沸騰して泡立ったような空気は次々と割れていく。中学の頃から野球部に入っている彼はちょっとやそっとの事じゃ泣いたりしないって理解した風でいたのはどこの誰だったっけ。


涙が目尻に溜まり、そして目尻から溢れた一筋の涙が輪郭線を歪めながら頬に薄らと浮かび上がる血管の上を一寸狂わず通っていき、熱くなったアスファルトに零れ落ちる。血液のように私の心臓をドクンッ、と驚かせた彼の涙はあたかも当たり前であるかのように私の心を鷲掴みにしていく。


彼の涙が私は好きだった。色褪せた世界で唯一、感情全てを一筋の涙に詰め込んだように太陽の光を浴びて七色に光り輝く君の涙が好きだった。胸が痛くなるくらい、好きだった。言いたくても言えなかった言葉が今更零れ落ちようとするのを必死に止める。

高校に入ってから髪型を肌色が薄らと透けて見えてしまうくらいの坊主にしたり、小麦色の腕をはじめとして色んなところに筋肉がついたり、私に勉強を教えられるくらいには頭が良くなったり、そして彼女が出来たり。


私の知らない彼が作り上げられていく中で、それでも涙は違った。彼の涙は、今でも私だけのものだったのに。私は心臓が締め付けられるような気持ちを必死に抑えて言う。


「倦怠期は互いに距離を置いた方がいいって聞いたことあるよ。」

「やっぱり、距離を置いた方がいいのかな。」

「そうだよ。だからさ、涙拭いて。ね?」


彼は小さく俯くと、そのまま右手の薬指で、目尻に溜まった涙の粒をそっと拾うように優しく拭う。


「そうと決まれば私の家で勉強会ね。私の留年はあんた頼りなんだから。」

「……ごめん!今日の勉強は無しにしてもいいかな?」

「えっ……。」

「やっぱり気になっちゃって。またいつか絶対に教えるから!」


彼はそう言って勢いよく頭を下げる。よく見れば勉強道具の類を何も持ってきていない。最初からそのつもりだったのかもしれない。胸が痛い。息が詰まって溺れそう。今や彼女がいるであろう場所に意識が向いてしまっている彼の腕を必死に掴んで言葉を探す。


「ダメ!行かないで!」言えなかった。きっと、ただの幼馴染みでしかない私にはその言葉を言う資格なんて持ってないから。


「私だけを見て!」言いたくなかった。自分を彩るこの二文字の感情を知られたら幼馴染ですらいられなくなると思ったから。


「私に勉強を教えて!」言葉にならなかった。幼馴染なのにテスト勉強でしか二人っきりになれないこの関係に、気づけば涙が溢れてしまいそうだったから。


トクントクン、とあくまでいつものペースで彼の腕を流れる血液に、私は目尻に涙を溜める。世界はやっぱり、不平等だ。諦め、その言葉が脳裏によぎった瞬間、私は全身にグッ、と力を入れる。そうでもしなければ私の中で暴れる何かが溢れ出してしまいそうで、もうここには居れないような気がしたから。


「いつかじゃ……遅いんだよ……。私が留年しちゃうよ……。」

しかし、彼は泣きそうな表情を浮かべて「……ごめん。」と咽ぶ。


彼の涙はその時の感情全てが入り混じっている。涙を我慢する彼の表情は、溢れ出る何かを必死に抑えているようで凄く苦しそうだから。私は彼が泣きそうになった時はいつも彼の頭を撫でていた。私は彼の頭を撫でようとして、ふいに通り過ぎる。ぎゅっと掴んでいたはずの彼の腕がいつの間にか振りほどかれていて、私は彼の表情を見る。そして彼に語りかける。よかった、涙は止んだようだね。


「ごめんな。本当は俺の泣く姿が嫌いだって知ってたんだ。」

違うよ。私は君の涙が好きだったんだ。私は誤解を晴らすように言う。

「初めて会った日から、俺が泣く姿を見て顔を顰めてたこと、知ってたのに。」

違う!……私は君の涙が、君の全部が大好きで、でも恥ずかしくて顔を顰めたフリをしてたんだよ。

私は半ば叫ぶように彼に彼に抱き着いて、通り抜ける。夏の終わりを掴んだ私の手のひらは彼の心に届かない。


「愚痴ばっかり聞いてもらってごめん。それじゃ、またね。」


彼は私に向かって顔の前で手を合わせて小さく頭を下げる。私の鼻腔を線香がくすぐる。私から遠ざかっていく彼の背中は大きい。彼の歩いた道には等身大の汗の跡がこれでもかと言うほどに残っている。それでは本当に汗の跡なのか分からなくなってしまうほどに。


夏の日差しは突然現れた真白く分厚い入道雲が緩和し、それでも貫通してくる日差しはさっきまでよりずっと厳しいように感じる。きっと私は彼の自慢の幼なじみ。でも、自慢の女の子はきっと私じゃない。彼の涙はいつだって彼のもの。その答えは夏が訪れる度に私の鳩尾を強く刺激する。




私には夏が訪れる度に二つの選択肢が与えられる。夏の終わりを掴むか、掴まないか。


夏の終わりを掴むならば、それはきっと私が後悔なくこの感情に区切りをつけた時。

夏の終わりを掴まないのならば、この小さな体では受け止めきれない暑さを、それよりも熱い感情を抱きながら耐え忍び続ける時。それは恐らくどの地獄よりも、あるいはどの現実よりも辛いのかもしれない。

それでも、いいや、だからこそ。


──私の夏は終わらない。

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