エピローグ

第55話 未来へと続く道


 夏。

 蝉の鳴き声が青空を駆け巡り、燦々さんさんと照り付ける太陽が額の汗を輝かせる季節。

 春に芽生えた生命の息吹が梅雨を越えて栄え、青々と茂った葉が緩やかな風に舞った。


「あっついなー」


 顎の汗を拭い、ペットボトルのお茶を喉へと滑らせる。すっかりぬるくなってしまったが、渇いた喉には充分すぎるご馳走だ。


「ほんと! もうちょっと涼しくならないかな〜」


 隣から澄んだ声が響く。僅かに不満げな色を含んでいるも、その大半は嬉々としていて、楽しそうな足取りと合っているように見えた。


「光里のクラスTシャツは黒だし余計暑そうだよな」


「そうなの! 私も陽人のクラスみたいに水色とかが良かったなー」


「でも黒は黒でカッコいいと思うけど」


「私はデザインより実用性重視です!」



 そんな何気ない雑談をしながら歩いていくと、いつもより華やかに彩られた校門が遠目に見えた。それだけで、つい心が躍ってしまいそうになる。

 カラフルなペーパーフラワーで飾り付けされたアーチを潜り、僕らは生徒玄関へと入っていく。すると、突然後ろからペシリと頭をはたかれた。


「おーっす! 二人ともおはよー!」


「笹原くん、おはよー!」


「ってーな。普通に挨拶できねーのかよ」


「なーに言ってんだ? 俺たちにとってはこれがいつもの挨拶だろ?」


「いつ、僕の頭をはたくのがいつもの挨拶になったんだよ?」


「まあまあ、二人とも」


 やいのやいのと騒ぐ僕たちを嗜める声に促され、渋々中へと入っていく。

 いつものように靴を履き替え、いつものように階段を登り、いつものように光里と別れてから教室に向かうと、そこは喧騒に満ちていた。



「私のシフト、何時からだっけ?」


「えーっと、昼からだねー。プラカード担当だから集客よろ~!」



 屋台のシフト確認に、



「今日どこから回るー?」


「やっぱり、お化け屋敷でしょ!」



 出し物の道順を決める会話。




「俺さ、文化祭終わったら告ろうと思うんだよね」


「マジ? え、だれだれ?」



 なんと告白の密談まで。

 

 予鈴が鳴るまでまだ時間に余裕はあるが、クラス内はもうすっかり文化祭モードだった。テンション高すぎだろ、と思う一方、既に僕も校門前で似た気持ちになっていたことを思い出して苦笑する。

 

 そこでふと、入り口でたむろしていた男子三人と目が合った。

 


「おは……」



 そのうちの一人が、そこまで言いかけて口をつぐんだ。残りの二人に至っては、特に言葉を発することもなく目を逸らしている。


 まっ、しゃーねーよな。


 これまで僕がとっていた行動を思い返せば、この反応にも納得がいく。むしろ、これが当然だとさえ思えた。だから、



「おはよー」



 僕は努めて普通に挨拶をした。少し緊張して上擦ってしまったけれど、そのくらいは勘弁してほしい。



「お、おう?」


「ウス」


「はよー」



 三人は意外だったのか、目を丸くしてぎこちなく返事をしてきた。なんとなく変な雰囲気になりかけたが、「おめーら、人見知りかよ!」とノリよくツッコむ笹原の声が後ろから飛んできて、場はまた元の色を取り戻した。

 そのままいつの間にか文化祭の出し物の話になり、オススメは光里のクラスの簡易カフェと、五組と七組の射的、そして今年から有志でやるらしいダンスショーだと教えてもらった。


 そんな話で盛り上がっていると予鈴が鳴り、僕らは慌てて席に着いた。


 なんだか、とても楽しかった。




 *




 ホームルームの後、前半組の僕は生地の準備のため家庭室に向かった。ちなみに笹原は後半組で、午前中は何やら大事な用があるらしい。「告白か?」とからかったら、すごく呆れた目つきで睨まれた。


「そのイジり、ブーメランだからな?」


 別れ際、笹原はそんな意味深なセリフを残して去っていった。知ってるよ、と思ったが、敢えて口には出さなかった。


 それから、僕は時々同じ班の男子と談笑しながら生地を作っていたが、文化祭が始まって暫くしてヘルプに駆り出された。


「ごめん! どうしても焼き手が足りなくて!」


 どうやら、思った以上にお客さんが来て接客に手を取られているらしい。以前、笹原とあれこれ焼き加減やら形やらについて話していたのを聞かれていたようで、僕を含めた数人が表のテントへと向かった。



「あん三、クリーム五で! その後はあん七! あ、いや、追加あん三の計十個!」


「すみませーん! 今、チョコレートの方は少々お時間いただいておりますー!」


「あれ? そっちの包装紙もうないの? とってくるー!」


「おーい! ここ少し焦げてるからそっちのをくれー!」



 現場は……戦場と化していた。

 接客と並行して焼いていたクラスメイトに代わり、僕は次々とたい焼きを焼いていく。


「橘くん! そっち焼けたらどんどんここに並べていって!」


「りょーかい!」


「橘! ここに新しい生地とチョコ置いとくから、次はチョコ優先で頼む!」


「おけ!」


 普段あまり話したことのないクラスメイトともやりとりをしつつ、夢中で鉄板を返す。カタン、カタン、と金属のかち合う音が響き、生地の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。



「お待たせしましたー! こちらお熱いのでお気をつけてお持ちください!」


「追加注文ありがとうございます!」


「チョコレートもうすぐでーす!」



 背後からは、聞き慣れないクラスメイトのはつらつとした声が聞こえる。


 今まで、僕が耳を塞いでいたから聞こえなかった声。



「橘! もうそろそろ焼けそう?」


「今焼ける! もうちょい待って!」



 その声に、僕も応えてみたいと思った。



 なぜだろう。



 いや……問わなくてもわかる。



「ほい! チョコレートね!」


「サンキュー!」



 今を受け入れることができるのは、過去を受け入れられたから。


 光里が、笹原が、美咲さんが、お姉ちゃんが……いてくれたから。



「おーい! 陽人ー!」



 チョコのたい焼きを並べるために振り返ったその瞬間、僕を呼ぶ声がした。


 見知った顔は二つ。


 一つは、ついさっきまで僕にアホな言葉をかけてきたやつのもの。


 そしてもう一つは、小さな画面越し。でも、アホなやつとよく似た優しい眼をしている。



 やれやれ、この忙しい時に。



 僕は笑って、手を振った。

 



 **




 前半組のシフトが終わったお昼過ぎ。

 午前中の混雑具合からシフトの変更が行われ、僕と同じ生地担当だった笹原も焼き手に回されることになったらしい。


「ここからは俺に任せておけ! お前の十倍は美味いたい焼きを焼き上げてやるからな!」


 僕からエプロンを受け取る際、笹原はドヤ顔でそんなことを言ってきた。


「はいはい。調子に乗って焦がさないようにな」


 苦笑しつつ釘をさすと、彼の手元からも元気な声が飛んできた。


『幹也ー! その超美味いたい焼きとやら、後で持って来なさいよ~!』


「ういうーい」


 僕らからのせっかくの忠告も、彼はご機嫌な様子で軽く受け流した。

 本当に調子のいいやつだな、と思った。でも、こんな彼と一緒にいるのは嫌じゃない。気づいたのは最近だけど、きっともっと前から感じていたんだと思う。恥ずかしくて、直接伝えられるのはまだ先のことかもしれないけれど――。



「おっとそうだ」



 文化祭の熱に当てられたのか、そんなことをぼんやり考えていると、唐突に笹原がスマホを渡してきた。



「陽人。姉ちゃんのこと、頼むわ」



 先ほどまでの適当な感じとは違い、今度はどこか真剣に彼は言った。



「ああ。了解」



 だから僕も苦笑を収めて、それを受け取った。


 タッチ交代。ここからは、僕が美咲さんに文化祭を見せる番だ。


「ちょっとー! なに陽人だけで行こうとしてるの! 私も行くんだからねー!」


 そんなやり取りをしていると、後ろから不満そうな声が飛び込んできた。振り返ると、夏の日差しに負けない笑顔がみるみる近づいてくる。相変わらずの眩しい表情は周囲の興味も引き寄せてしまうようで、何人かがチラチラとこちらを見てきた。


「悪かったよ。一緒に行こうぜ」


 小走りで駆けてきた光里を待って、僕たちは歩き出した。


 


 文化祭は、午前よりも活気な賑わいを見せていた。

 校門のすぐ目の前に伸びる玄関前広場には、ベビーカステラに、スムージーに、たこ焼きに……といろんな種類の出店が列を成していて、どこも繁盛しているようだった。

 さっきまで僕が必死に作業していたたい焼きの出店の前も、かなりの人が並んでいる。まぁ、さすがに光里のクラスには負けるようだが。


『いや~二人ともごめんね~? 私のわがままでこんなことさせちゃってさ~』


 手元のスマホから若干遠慮気味な声が聞こえて、僕は驚いた。


「え、今さら? 美咲さんらしくもない」


「そうですよー! 美咲さんならもっとグイグイあれこれわがまま言ってください!」


 どうやら光里も同じだったようで、僕に続いて画面の向こうに笑いかけた。


『二人とも、なんかひどくない~っ!?』


 病室のベッドの上で、美咲さんは嬉しそうに小さく叫んでいた。




 姉との一件は、その日すぐに美咲さんへ伝えに行った。笹原は帰ってしまったようで、病室は美咲さん一人だった。


「美沙のバカ……」


 面会時刻ギリギリだったが、僕と光里は事の顛末を丁寧に説明した。初めは驚いていた美咲さんも、次第にいろいろと納得したようで涙を浮かべて聞いてくれた。

 そして。姉の言葉を伝えたところで、美咲さんは膝を抱えてうずくまってしまった。


「……でも。美沙の言う通りだね。私もバカだな~。あれから十年も経ってるのに、美沙よりずっとずっといろんなこと経験してきたのに……私ってほんと、美沙に甘えっぱなしだ」


 自嘲気味に、美咲さんはつぶやいた。でも、どこか嬉しそうでもあった。


「ふふっ……。私も、いつまでもこんなんじゃダメだね。美沙に幻滅されないように、頑張らないと」


 そこで面会時刻のタイムリミットが来て、僕らは美咲さんと別れた。


 それから彼女とは会う機会がなく、文化祭の今日、スマホ越しだが話をすることができて嬉しかった。



 やっぱり彼女は、姉と似ている。


 性格や雰囲気だけじゃない。


 僕が美咲さんの中に姉を見るのは、きっと、彼女の心に姉が生きているから。


 大切でかけがえのない思い出が、輝いているからなんだろう。そして、僕らの中でも――。




 *** 




『ねっ! 私だったら、あれこれわがまま言ってもいいんだよね?』


 射的やお化け屋敷といった催し、文化部のマニアックな展示、クラスの男子から教えてもらったダンスショーなどを楽しみ、一日目の文化祭も終わりに近づいた頃。美咲さんが突如、思い出したように声をあげた。


「……なんですか?」


 嫌な予感しかしない問いに、僕は露骨に顔をしかめて見せた。すると彼女は、少し笑みを深めてから、通る声で言った。



『今日の残り時間は、二人で使って。今の時間だと、屋上あたりがいいんじゃないかな〜?』



 そして唐突に、ビデオ通話が途切れた。



「美咲さん……」



「屋上って……」



 顔を見合わせる。

 夕焼けが、窓の外から淡く、僕と光里の顔を照らしていた。




 まだ喧騒の止まない校舎内。

 笑い声や叫び声、賑やかな音楽などが、遠くから聞こえる。

 でも、僕らのいるところは比較的静かだった。教室を使った催しから少し離れているからだろう。

 夕陽でオレンジ色に染められた階段を、二人で上っていた。

 

「……」


「……」


 僕らの間に、会話はない。とりあえず屋上に行こうか、なんて言葉を交わしたっきりだ。

 前を歩く光里が何を考えているのかはわからないけれど、少なくとも僕はいろんな意味で緊張していた。


 この階段を上るのも、久しぶりだな。


 以前上った時のことは、よく覚えている。あの時は必死に駆け上がっていた。

 素直になれなかった僕のことを、「顔だけは怖いけど本当は寂しがり屋の優しい人」だと評した光里に、いろいろ言いたくて。

 僕の思い込みで避け続けていたことを、謝りたくて。

 いつもみたいに楽しい日々を、一緒に過ごしたくて……。


 ふと、思った。


 ある意味では、今も同じだ。


 今も僕は……自分の想いを伝えたくて、この階段を上っている。

 

 

「わっ、見て!」



 先に一番上へと辿り着いた光里が、興奮した様子で振り返った。彼女が指差す先は、開け放たれた扉の向こう側、すなわち屋上だ。なんで屋上の鍵が開いてるんだろうと思いながらも、僕もその先が見える段に足をかけ……目を見張った。



「おぉ、これは……すごいな」



 そこは、文化祭の色で満ちていた。


 僕たちの高校は細長く、夕陽で赤く染められた屋上の床が彼方まで続いていた。

 その両脇にそびえる転落防止柵には、各クラスや部活、有志で作られた色とりどりの横断幕や花、華やかな飾りが三段に渡って結び付けられており、風を受けて気持ちよさそうになびき、舞っていた。その光景は、まるで……



「なんかさ、バージンロードみたいだね」



 光里が、照れ臭そうにつぶやいた。



「学生専用の、だけどな」



 似たようなことを考えていた僕は、照れ隠しにそんな言葉を返した。



「じゃあ、青春のバージンロードだ」



「クサすぎだろ。てか、バージンロードの意味知って言ってるのか?」



「ふふっ。もちろんだよ」



 光里は、右手を差し出してきた。こんな時まで彼女先導なのが気に食わなかったけれど、僕らの始まりはいつもそうだった。



「そうか。まぁ、ならいいんだけど」



 なるべく優しく、その手を握る。想像以上に華奢で、柔らかくて、心配になるほどだ。

 でもそれ以上に、高鳴る鼓動が腕を伝って聞かれていないか、心配だった。



「バージンロードは、これまでの人生と、これからの人生を示す道。だから、改めて命を見つめることになった私たちにとっては、ピッタリの道だよ」



 嬉しそうに、光里は笑った。とても眩しい笑顔だった。夕陽のせいか、どこか赤くなっているようにさえ見える。



「確かに。姉ちゃんに呆れられないよう、しっかり歩いていかないとな」



 そんな彼女の表情に、恥ずかしくてつい顔を背けたくなったけど、僕は堪えた。そしてどうにか笑い返してから、夕陽に輝く橙色の床へ一歩踏み出す。



「うん、そだね……!」



 僕に引かれるように、彼女も小さく足を進めた。



「陽人は……私の手、離さないでね」



「え? なんて?」



「んーん! なんでもなーいっ!」



 グイッと一気に左手を引っ張られた。その勢いに転びそうになりながらも、僕はどうにか体勢を立て直し、



「おい! 教えろって!」



「アハハッ! 知りたかったら当ててみてよー!」



 彼女と並んで、走り出した。



 ――命を、未来を、輝かせるために。

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