第54話 輝いた命


「なんで……どうして……」


 すぐそばで、光里が取り乱していた。同じ言葉を繰り返したかと思えば、初めて会った日のように祈るポーズをとったり、何やらつぶやいたりしている。でも、その身体から光が溢れることはなかった。


「ひーちゃん、こっち向いて?」


 すると、少し上から声が降ってきた。さっき僕へ向けてきた小馬鹿にする感じではなく、子どもをあやすような優しい口調だった。


「みさ……お姉さん……」


 声のする方へ、光里が頭をもたげる。


「そうそう。なぜか今、私は少し浮いてるみたいだから、ちょっと首が痛いかもしれないけれど我慢してね?」


「グスッ、なんで……なんで生き返らないの……!」


「ほーら。そうやって、すぐ叫ばないの」


 ふわりと姉はこちらへ近づいてきて、僕もろとも光里を抱きしめた。でも、不思議と感触は微塵も感じられなかった。


「だって……私は、私は! あなたに、美沙お姉さんに生きてほしいの! 卑怯な私なんかより! ずっと優しくて、ずっと温かくて、ずっとずっと陽人のことを思いやれる……美沙お姉さんに……!」


「こーら。またそんなこと言わない」


 姉は、ひと息に捲し立てた光里の頭にチョップをかました。


「本当にもう。あれから十年くらい経ってるんでしょ? 少しは成長してないと、心配になるでしょーが。そこのヘタレ陽人も同様」


「は?」


 いきなり向けられた矛先にカチンときて、つい語気が強くなる。けれど、昔のようにすぐ言い返せるような余裕はなかった。

 突然光里の能力は止まるし、急に光里を「ひーちゃん」呼びして親しげに話し始めるし、本当に訳がわからない。


「だってそうでしょ? いつまでも過去を背負いこんで自分を責めてたかと思えば、今度は立ち直ったのになかなかひーちゃんに素直になれない弱虫弟」


「おい」


「アハハッ、ジョーダンよ。あんたのおかげで、こうして私は彼女から渡されそうだった寿命を拒絶できたんだし」


 サラリと、日常会話でもするみたいに姉は衝撃的な言葉を吐いた。


「寿命を……拒絶?」


「そ。生き返らせるための条件にも入ってたんじゃない? 相手のことを強く想うとか、決して迷いを持たないみたいなのが。でも、あんたのおかげでその信念がぐらついた。だから、そこは評価しよう。よくやった、ビビりな陽人くん」


「……どつくぞ」


 シリアスな場面だというのに、姉はちょくちょく僕をいじってくる。

 本当に、腹立つなあ。

 忘れていた感情が、懐かしさとともに心に沁みていく。


「そんな……でも、わたし……」


 一方、光里は絶望に満ちた表情をしていた。きっと、あれほど頑なに僕のお願いを拒んでいたのも、この条件を満たすためだったんだろう。

 でも、それが崩れ去った。僕の家族を、少なくとも姉を生き返らせることは、もうできない。



「ひーちゃん。初めて公園で会った日に、私が言ったこと覚えてる?」



 僕に向けたおどけるような雰囲気から一転、姉は優しく光里に問いかけた。光里は目元に溜まった涙を軽く拭い、何度か深呼吸を繰り返す。そして、



「もちろん……。忘れたことなんてない。ベンチでうずくまって泣いてた私に、『たくさん泣いたら、たくさん笑うんだよ』って、言ってくれた」



 ぎこちなく、笑った。

 でも。やっぱりその顔は、ひどく不恰好に思えた。



「そうそう。そしてそれは、なんでだったっけ?」



「頑張ろうって、前を向けるから……」



 光里は不細工な笑顔を浮かべたまま、ポツリと答えた。


 本当に、そうなんだろうか。


 光里の様子に、ついそんなことを思ってしまう。

 泣くのは、辛いからだ。悲しいからだ。その後に笑うなんて矛盾してるし、何より簡単じゃない。



「正解。笑顔の力ってすごいの。だから、たくさん泣いたら、たくさん笑って、前を向いてほしい」



 光里の言葉に、姉は満足そうに笑った。その仕草にあわせて、髪が小刻みに揺れる。




「――でもね、それだけじゃないの」




 揺れた髪先に小指を当て、そのまま耳にかけながら、姉は静かに言い切った。



「辛い時、悲しい時、切ない時、寂しい時、苦しい時……それらを乗り越えようと笑うと、どうしても変な感じになる。そして……その違和感に気づいてくれた人を、大切にしてほしい」



 そう言うと、姉は空を見上げた。どこか寂しそうな、そんな眼差しだった。視線の先には半分ほど欠けた月が輝いており、そのせいか星はあまり見えなかった。



「私は、結局その違いに気づいてくれた親友と仲直りする前に、死んじゃったから……」



「それって……」



「うん。笹原美咲。生涯で一番の、私の親友」


 夜空から目を離して、今度は屈託なく笑った。心の底から大切に想っている。それがわかる、綺麗な笑顔だった。



「ごめん、なさい……」



 そこで、光里が唐突に謝った。僕は少しびっくりして、彼女の方を見る。



「ごめんなさい……。私のせいで、美沙お姉さんが悩んで……美咲さんと喧嘩しちゃって……グスッ、そのまま……別れることになっちゃって……」


 しゃくりあげる声が響く。


 光里は知っていたのか?


 美咲さんが、僕の姉について話してくれた時、光里はいなかった。その前の、気持ちを伝えられなかった時もそうだ。別の時に、美咲さんから聞いたんだろうか。でも、そうだとすると、光里は……



「ほんとにもう……大丈夫よ。私と美咲は喧嘩別れしちゃっても、お互いの気持ちには気づいてる。美咲も今では整理をつけて、しっかり生きようとしてくれてるみたいだから」


 呆れたように言いながら、「でもね」と姉は言葉を続けた。


「確かに、私は言葉に出して伝えたかった。直接、私の言葉で謝りたかった。お礼を言いたかった。大好きだって、言いたかった。でも、もう言えない。もう私は、美咲に会うことができない。触れることができない。

 けれど、ひーちゃんは違う。しっかり向き合って、気持ちを伝えることができる。なのに……自分の気持ちに蓋をして、自分から逃げるなんてダメ。もし私や美咲に対して見当違いの罪悪感なんて感じてるなら、代わりにひーちゃん自身が、ひーちゃんの大切な人に、しっかり伝えて」


 真っ直ぐな声だった。

 そして、思った。少し光里と似ている。いや……もしかしたら、光里が真似をしていたのかもしれない。

 この覚悟の決まった鋭い声は、強く心に落ちてくる。突き刺さってくる。沁み込んで、くるんだ。


「私の……大切な人……?」


「そ。いるんじゃないの? ひーちゃんの、貼り付けた笑顔の裏を見守ってくれた、そんな人が……」


 数瞬の逡巡の後、彼女はそっとこちらに目を向けてきた。ドキリと、心臓が跳ねる。


 脳裏に、夕焼けの空が浮かんだ。


 僕が、彼女への想いを自覚した日。僕は、屋上での告白を目撃してしまい、悲痛な気持ちで空を仰いでいた。


 日常の楽しさを思い出させてくれた光里。


 いつも笑顔で、強引な光里。


 実は不器用で、いろんなことを背負い込んでしまう光里。


 笑顔の裏で、悩んでいた光里。


 彼女に、心の底から笑ってほしいと思った。


 今は、あの時よりも強く、強く想っている。


 もう、僕は失いたくないから。それほど大切な存在だから、僕は光里に生きていてほしい。叶うなら、一緒に生きていきたい。


 彼女も、少しはそう思ってくれているんだろうか――。







「あ、でも今じゃなくていいからね? そういうのはこんな白けた場所じゃなくて、今週末の文化祭が終わった後にでもとっときなさい」



 ……沈黙を破ったのは、促した張本人の声だった。



「……姉ちゃんって、ちょいちょい雰囲気壊してくるよな。あとなんで今週末に文化祭あるの知ってるんだ?」


「え、今更そこツッコむ?」


 ここに来て一番驚いた顔を見せる姉に、僕は苦笑した。まぁ確かに、さっきまでずっと事の顛末をまるで見てきたかのように話していたから今更感が……


「え、もしかして……?」


「そーよ。あんたが塞ぎ込んでるから心配で心配で、成仏できなかったのよ」


 脳裏に浮かんだ最悪の理由が、まさか当の本人の口から言葉として出てくるとは思いもしなかった。そして、申し訳なさという単語では言い表せられないほどの罪悪感が津波のように押し寄せてきた。


「姉ちゃん……その、ごめん」


「ったく。わかればいーのよ。いつまでもダサい傷痕なんか付けてるんじゃないわよ。治せるなら治してきなさいよね」


「はい……」


「まぁでも、おかげでひーちゃんに言いたかったことは言えたから、これでチャラにしておいてあげる。あ、あと――」





 その時。姉の身体から、消えていた光の粒が舞い始めた。





「え?」


 驚いて声をあげる。しかし、光里の身体は発光していない。まさか……


「あぁ、大丈夫。そろそろ消えるってだーけ。拒絶っていっても、数分間くらい寿命はもらっちゃったみたいだから」


「姉ちゃん!」


「美沙お姉さんっ!」


 何も気にしてないと言わんばかりの調子で話す姉に、僕らは一斉にしがみつこうとする。でも、僕らの指は空を切るばかりで、光の粒が収まることはない。


「もう。ほら! シャンとする! 最期なんだから私の言いたいように言わせなさい!」


 情けない僕らを叱咤するように、姉は叫ぶ。不思議と、その声だけで背筋が伸びた。


「まず、美咲に伝えてほしいことがあるの。あの子のことだから、精一杯生きて、胸張って死んでから私に会いに来るとか思ってると思うの」


「お、おおう……」


 まさに図星だった。確かに、この前美咲さんと話した時にそんなことを言っていた気がする。


「バカなんじゃないの、って叫んでおいて。最期の最期、一分一秒コンマ一瞬まで、生きてやるって気持ちで生きなさいって。まだ生きてるんだから、諦めたようなこと思ってんじゃないわよ! ……って、どついておいて」


「は、はーい……」


 これから消えるって感じじゃない姉の気迫に、光里も縮んだ声で返事をした。本当に、姉らしいな、と思った。



「それと……陽人とひーちゃんも、しっかり生きてね?」



 それでも。どんどん消えていく姉の身体に、僕の心は騙されてくれなかった。



「簡単にこっちに来たり、ましてや寿命を渡して入れ替わったりなんかしたら承知しないから」



 そしてきっと。それは僕のすぐ前で震えている、彼女も同じだ。



「それから、本当にありがとうね。二人のおかげで、私の人生、思った以上に良かった――」



「うそっ!」



 僕が言葉を発するより早く、光里が叫んだ。



「うそ……そんなの、うそだよ……っ! もっと、もっとたくさんしたいこと、あったんじゃないの? もっと知りたいこと、聞いてみたいこと、見てみたいもの……あったんじゃないのっ!? それなのに……グスッ、それなのに……っ!」



「光里……」



 まだ足元がおぼつかないらしい彼女を支えながら、そっと抱きしめた。


 彼女だって、もうわかってる。


 こんなこと言っても、困らせるだけだって。


 でも、言わずにはいられなかった。


 ……そしてそれは、僕も同じだった。



「姉ちゃん……僕も、そう思うよ。なんでそんなに、大人なんだよ。十年前だって、飛び出したのが光里だってわかったんだろ。だから死に際に、『あの事故を恨まないで』って、言ったんだろ。もっと言いたいこと、あったはずなのに……。なんで姉ちゃんは……姉ちゃんは……っ!」



 今なら、あの言葉の意味がわかる。

 でも、つい最近まで僕は苦しんでいた。

 恨みたいのに、恨めない。あの言葉のおかげで、僕は道を踏み外さずに歩いてこれたけど……それと同時に、とてもキツかった。



「んーまぁ……私も心残りがないわけじゃないけど、私の生きた意味はあったなって思ったから、満足なんだ」



「生きた……意味?」



「そ。私もね、嬉しかったよ。二人にまた会えて。こうして話せて。想いを伝えられて。

 でもね、もっと嬉しかったことがあったの。それは……また私に会いたいって、思ってくれたこと。

 もう一度だけでいいから会いたい。そんなふうに思ってくれる人がいるのは、とてもとても幸せなことなんだ。だってそれは、一緒に過ごした思い出が輝いている証拠だから。例え短くても、私の人生には意味があったんだって思えるから。だから、私を生き返らせたいと思ってくれて……私に、生きていてほしいと思ってくれて、ありがとう……!」



 ほとんど消えかけた手が、僕らの方へ伸びてくる。



「そしてね。それは、私も同じなの。

 陽人に、ひーちゃんに、生きていてほしい。もっともっと笑って、楽しく生きていてほしい。怒ってもいい。泣いたっていい。立ち止まったって、迷ったって、落ち込んだっていい。それが、生きてるってことだから。そしてまた前を向いて、生きていってほしい。今日だけじゃない。十年前、私と一緒にいた時の二人の顔は、笑っていたし、怒っていたし、泣いていたし、照れていたし、眩しかった。そんな日々を心に留めて、生きてほしいの」



 僕も、光里も、必死に手を伸ばす。



「二人が私に生きていてほしいと思うように、私も二人に生きていてほしいの。

 私の分までなんて言わない。私の人生は、充分すぎるくらい輝いていたから。

 だから。私のお願いは、私以上に人生を輝かせて。あんなに輝いた人生を歩んだ人に、生きていてほしいって思われたんだよって、私に自慢させて。そしていつか、たくさん話して聞かせてね。私はいつまでも、お父さんやお母さんと一緒に、見守っているから。ずっとウジウジしてたら、叱り飛ばしに化けて出てやるからね! わかった!? 泣き虫ひーちゃんに、ヘタレな陽人!」



「姉ちゃん!」



「待って……っ!」




 指先が触れる前――。



 

「ずっと、大好きだから……――!」




 夜がまたひとつ、色を濃くした頃に、姉の姿は空へと溶けていった。


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