第53話 ヨミガエリ



 何が起こっているのかわからなかった。

 いや。初めてならまだしも、僕は何度かそれを目の当たりにしている。彼女と出会った新学期の日や、七宮さんを生き返らせた日に。



「ひか、り……?」



 口から零れたつぶやきが、闇の中に溶けていく。

 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。空には煌々と月が輝き、脇の茂みからは虫の音が響いている。ぽつぽつと点在する街灯も、そこから伸びる細長い影も、何もかもがいつの日かに見た光景だった。

 でも。僕の視線の先には、そんな暗闇に決して紛れることのないか細い光が、確かにあった。



「ほんとに、ごめんね……?」



 淡い光の先で、彼女は涙を流しながら困ったように笑った。一緒に過ごした日常で、失敗した時や何かを誤魔化したい時に時折見せた笑顔と似ていた。そんな時、僕は決まって「しょうがないな」なんて思いながら、彼女に呆れた視線を送っていた。

 だけど、今は無理だ。とてもできそうにない。だって、だってこれは――



「光里……! お前、まさか能力を……っ!?」



 叫んだ勢いのまま、僕は彼女の肩に掴みかかった。



「うん。実は、陽人がここに来てくれた時から使ってた。寿命の桁が違うからか、ようやく光り始めたけどね。……陽人だったら、もしかしたら、私の決心そのものを変えちゃうんじゃないかって、思ったから」



 一方彼女は、特に驚くふうでもなくそう答えた。声は落ち着いていて、言葉もずっとはっきりしている。でもそれは、今目の前で涙を流し続けている表情とは、ひどく対照的だった。



「それって……」



「……うん。もし能力を使ってなかったら、私はこれからも生きたい、生きていたいって、思ったかもしれない」



 彼女は涙を拭うこともせず、そんな言葉を吐いてきた。


 ……なんだよ、それ。


 イライラした。でもこれは、怒りじゃない。悲しみだ。


 手が震えて、足が震えた。息が苦しい。頭が、クラクラする……。



 その時。一際強く、彼女の背後で光の粒が輝きを増した。

 驚いて目を向けると、人の輪郭のようなものが薄っすらとできあがっていた。



「おい! 今すぐやめろよ! やめてくれ!」



 我に返った僕は、彼女の肩を揺らして必死に叫んだ。



「無理だよ。やめられない。もう……止められないの」



 でも。彼女は頑なだった。

 何度叫ぼうと、何度その肩を揺らそうと、光里は首を横に振り続けた。そうこうしているうちにも、光はみるみる濃さを増していく。



「嫌だ! 頼む、頼むから……やめて、くれよ……」



 焦りが心を支配していく。もはや、懇願するしかなかった。

 目の前が揺れた。目頭が熱い。なんだ、これ。光のせいだろうか。……いや、違う。これは…………涙だ。




「ね、ほら。泣かないで。これは、陽人のためだけじゃない。私のためでもあるんだから」




「光里の、ため……?」




 意味が、わからなかった。




「うん……。私も、生きていてほしいって……思うから。見ず知らずの私に、あんなに親身になって話を聞いてくれて、甘えさせてくれて、優しくしてくれた……美沙お姉さんに………………――――」


















「――――ここは……?」








 懐かしくて、憎たらしくて、愛おしい声が…………光里の背後で、静かに響いた。





 *





 あの日は、雨だった。


 頻りに雨音が響く病室で、僕は姉を看取った。


 彼女の顔はなぜかとても安らかだった。


 たくさんしたいことがあっただろうに。

 苦しくて、痛くて、辛かっただろうに。


 姉の死に顔は、笑っているんじゃないかと思うくらい、穏やかだった。




「……ここは、お墓? それに…………陽人?」




 あの日。何度願っても返ってこなかった声が聞こえた。どれほど強く願っても、どれほど強く手を握り締めても、どれほど強く叫んでも返ってこなかった声が、言葉が、すぐ近くから聞こえた。




「ねえ……ちゃん?」




「……あはは、やっぱりそーだ。相変わらず、マヌケな顔してる」



 ウソだと思った。

 そんなはずがないと思った。


 けれど。現実だった。

 光里よりも短いショートな髪に、少し垂れた大きな瞳。

 よくチャームポイントだとか言っていた口元のホクロも、幾度となく喧嘩の種となった憎まれ口もそのままに、手を伸ばせば届くような距離で、姉は笑っていた。


 でもその輪郭はまだ曖昧で、薄らと透けていた。顔は比較的はっきりと見えるが、それ以外は目を凝らしてどうにか見える程度。白と黒のラフなボーダーTシャツに、デニムのショートパンツという姉らしい格好をしているとわかるのは、きっとあの日一緒の車に乗っていた僕と、僕の両親くらいだ。

 

 そして。姉の顔もあの時のままだった。僕と同じ十七歳の、高校二年生の、ままだった。

 


「……くっ!」



 心に芽生えた感情に戸惑った。


 それは、嬉しさと恐怖だった。


 あんなに待ち望んでいた声が聞こえて、僕の名前を呼んでくれて、変わらない笑顔を向けてくれて……すごく、嬉しかった。今すぐにでも、抱きつきたかった。泣き喚きたかった。甘えたかった。


 でも……。


 今、腕の中にある感触に、僕は恐怖していた。



「おい、光里っ!」



 必死で名前を叫ぶ。

 

 彼女は、軽く僕に寄りかかっていた。どうやら力が入らないみたいで、立っているのがやっと、という感じだった。



「ハハッ……やっぱり、一気に何十年分も寿命をあげようとすると、キツいね……」



「だから、やめろって!」



 よろめく彼女をどうにか支える。

 手足が震えていた。男子とは違い、華奢で細い手足だ。強く握りすぎたりなんかすれば、すぐに壊れてしまうんじゃないかとさえ思う。

 でも、彼女はそんな手足で自らを叱咤し、重い過去を抱えて、ここまで来ていた。今だって、苦しそうなのにまだ、能力を使っている。


 僕は、どうすればいい?


 何をすれば……光里を止められる?


 生き返らせられている姉が目の前にいるにもかかわらず、僕は懸命に光里が生きるための術を、能力の使用を止めさせる方法を、考えていた。



 その時、なんとなく変な感じがした。


 それは、本当に感覚的なものだった。


 光里から発する何かが、微かに……弱まった気がした。



「はぁ……はぁ……あと、少し……」



「おい、光里っ!」



 もう、どうしたらいいかわからなかった。


 光里は僕の言葉に頷くことなく、能力を使い続けている。最初は彼女の周囲をチラチラと舞っているだけだった光の粒も、その密度をさらに濃くしていた。


 止められないのか。


 もう、光里と……みんなと、楽しい日々を過ごせないのか。


 悔しかった。悲しかった。


 どこで間違えたんだろう。


 どうすれば良かったんだろう。



 これから、光里の能力で家族が生き返る。だからこそ……僕の心の中は真っ暗だった。









「まったく……。本当に成長してないんだから。陽人も……ひーちゃんも――」




 突如、光が弾けた。

 と同時に、あれだけ濃く深く舞い上がっていた光の粒が霧散していく。



「え……?」



「どう、して……」


 

 呆然とする僕と光里の傍らで、微かに輝く姉が見下ろしていた。




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