第51話 命の意味


 十年前、私は母と二人で暮らしていた。


 父の記憶はほとんどない。私が五歳くらいの時に、突然いなくなったと聞いている。

 それ以来、母は病弱ながらも必死に働き、私を育ててくれた。父との結婚は家族に激しく反対されていたらしく、実家に帰るといったようなことはなかった。


 私は幼心に家庭の事情を理解していたので、なるべく母の負担にならないよう、家が暗くならないよう、明るく振る舞っていた。けれど、本当は寂しくて、母のいないところでこっそり泣いていた。



 それは、あの日もそうだった。


 十年前のあの日、私は公園の東屋で涙が乾くのを待っていた。

 母の帰りは遅い。誰もいない部屋にひとりでいたくなくて、私はいつも図書館や公園で時間をつぶしていた。その日も、東屋のベンチの上で私は足を抱え込み、目頭を押さえて、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。

 けれど。その日は疲れていたのか、そのまま眠ってしまったみたいで、気がつくとすっかり辺りは暗くなっていた。


 お母さんに怒られる。


 そんな幾ばくかの不安と、それでも早く母に会いたい一心で、私は走って帰った。


「ただいまー!」


 なるべく明るく、元気に私は叫んだ。「何時だと思ってるの!」と怒られるかもしれなかったけれど、私にとっては母に会えるのならそれだけで良かった。



 でも、そんな母の声は聞こえなかった。

 代わりにあったのは……廊下で倒れている、母の姿だった。



 私は、呆然としていた。



 ただただ、呆然としていた。



 ゆすっても起きない。呼びかけても、叫んでも起きない。求めていた温もりを確かめたくて触った母の手は……ゾッとするほど、冷たかった。



 まだ七歳だったけれど、私はすぐに母がもう生きていないことを直感した。

 でも不思議と、泣き喚くようなことはしなかった。……というより、できなかった。



 心の中の何かが壊れていく。



 そんな音にならない音ばかりが頭の中に響いて、目の前が真っ白になっていって……――気がつくと、私はお気に入りの服を着て、独り山道を登っていた。


 そこは、春に母と桜を見に行った場所だった。

 確かな温もりを右手に感じ、幸せな気持ちに満たされて、心の底から笑い合えた場所。そこに行けば、母に会えると思ったのかもしれない。


 でも、現実は違う。


 降り頻る雨の中、私は無我夢中で山道を登っていた。周囲には誰もおらず、夏なのにすごく寒かった。

 途中で道に迷い、何度も転んでボロボロになって、時間も場所もわからないまま私はひたすらに歩いていた。


 しばらく歩いていくと、開けた場所に出た。あまり大きくはない、舗装された道路が左右に伸びていた。夜だからか車通りもなく、そこは暗闇一色だった。

 


 なんで、私はこんなところにいるんだろう。



 全身ずぶ濡れで、お気に入りだったバックも雨でふやけて、髪の先からは水滴が滴り落ちている。とにかく、ひどい格好だった。


 でも、そんなことはもうどうでも良かった。壊れた感情の中、また私は歩き始めた。


 その時、目の前を水が大きく波打った。反射的に身を引くも間に合わず、元々ずぶ濡れだった全身がさらに濡れた。視線を左にやると、車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見えた。



 そっか。ここが……。



 ――この場所はスピードを出す車が多いから、渡るときは気を付けなさいね。



 お花見に来た時の母の言葉が、脳裏に響いた。と同時に、私の壊れた心の中にたったひとつの感情が戻った。



 お母さんに会いたい。



 その感情の意味するところを自覚しても、全く怖くなかった。むしろ、母に会えるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。

 続けて走ってきた車のライトに目を細めながらも、私の心は決まっていた。


「ふう……」


 さっき引いた一歩を、私は進めた。泥だらけになった白い靴の中に、じんわりと冷たい水が染みていくのがわかった。




 ――信号が青になったら、まず右を見て。




 少し前に聞いたはずなのに、頭の中に響く声はすごくすごく懐かしかった。




 ――車が来ないことを確認してね。




 変わりない闇の中、私はそっと祈った。




 ――今度は左よ。




 夜の帳の中に舞う小さな光は、希望の光。




 ――最後にもう一度、右を見て。




 母に会うのに必要な、代償の光。




 ――大丈夫なら、手を挙げて渡りましょう。




 その光の中で、母に会えることを祈って歩き始めた…………はずなのに。




 やっぱり、私は怖かった。




 光の中に行くことが……車に、轢かれることが――。




 その後の結果は、言わずもがなだ。




 私を避けようとして車が反対車線に飛び出し、そこへちょうど走ってきた別の車の前へ。

 衝突はしなかったものの、反対車線を走っていた車は、飛び出してきた車をかわそうとして木に激突。そのままバランスを崩し、崖下に落ちてしまった。そしてそれが……――陽人の家族の車だった。



「あ……あぁぁぁ……」



 数十メートル先で揺らめく炎を前に、私は何もできなかった。目を背けるように、一目散にその場から逃げ出した。


 そこから先は、ほとんど覚えていない。

 無事家に辿り着けたのか、はたまた途中で力尽きたのか。気がついた時には、祖母の家の布団で丸まっていた。


 そして、何がなにやらわからないうちに、お通夜、お葬式、お引っ越し、転校……と環境がどんどん変わっていった。私はただ呆然と、その場の流れに身を任せ続けていた。







 それから暫く経って、自分が置かれている状況を理解すればするほど、耐え難い後悔の念が襲いかかってきた。



 私が公園で居眠りさえしなければ、母は死なずに済んだかもしれない。



 私が飛び出しさえしなければ、山での事故は起きなかったかもしれない。



 私が逃げずにすぐ救急車を呼んでいれば、崖下に落ちてしまった人たちは助かったかもしれない。



 私が、私が、わたしが……――。

 


 そんな頃だった。

 私が、自身の寿命と引き換えに、生き物を生き返らせる能力を得たのは。


 神様が、私に言っているように思えた。


 自分の命でもって、その過ちを償えと。


 それこそが、私の残りの命の、使い方なのだと――。


 

 


 ……ありがたかった。願ったり叶ったりだった。



 高校生になって、陽人のことを見かけて、私の決意は固まった。



 私は、この命に代えて、必ず陽人の人生に光を取り戻させる。

 


 私のせいで失われた光を。



 全く元通りとはいかないかもしれないけれど。



 生き返った人が社会復帰できるのかとか、野暮な問題も山積みだろうけど……。



 命さえあれば、



 目の前に、手の触れる距離にいてさえくれれば……



 きっと……――また、笑えるようになるから。




 ……これが私の、




 天之原光里の、




 ――生きる、意味なんだ。



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