第47話 ヒカリへ
早朝の高台に、一陣の風が吹き抜けた。緑の木々を揺らし、枝葉をなびかせて青空へと舞い上がる。それに驚いた小鳥が二羽、鳴き声をあげて何処ともなく飛び去っていった。
「あなたは…………おはようございます。どうなさったんですか? こんな朝早くに」
昨日と変わらない丁寧な物腰のまま、七宮さんは驚いた表情を浮かべた。時刻はおそらく六時を少し過ぎたあたりなので、時間という意味では驚くのも無理はない。しかし、さすがに来た理由がわからないはずがない。
「……ニュースを見て、来ました。その……光里は、いますか?」
「……」
彼女は何も言わない。
何かを考えるように、迷うように、僕のことを見ていた。
「七宮さん。僕は、光里と向き合いたいんです。僕はずっと、彼女と本当の意味で向き合うことを避けてきました。だってそれは、この顔にある傷痕とも、向き合うことになるから……」
自分の右頬に触れる。
乾燥した肌に、少し硬い皮膚の感触。
なんだか、久しぶりに触ったような気がした。
「この傷は、昔事故で負ったものです。その時に、家族を亡くしました。その過去を引きずって生きていた時に光里と会って……そして、問われたんです。生き返らせたい人は、誰かと」
あれから三ヶ月しか経っていないのに、随分と遠いことのように感じた。
それは多分、光里と、笹原と、美咲さんと……みんなと過ごした日々が、それだけ濃かったからだ。
「彼女と向き合うには、僕はこの過去とも向き合わなければいけません。そして薄々、その過去に光里が関わっていることも感じていました。だからこそ……僕は、怖かった。光里と向き合うことが怖くて、逃げていました」
最初は素っ気なく突き放して、文字通り避けようとした。
でも彼女は強引で、どんどん踏み入ってきて、笹原もそれに合わせて……気がつけば三人で過ごす日々を心地良く感じていた。
と同時に。今度はその日々にのめり込むことで、僕は逃げていた。……過去と向き合うことから、目を背けていた。
「正直、今でも怖いです。僕は、僕だけが生き残ってしまったあの事故と向き合うのが……すごく怖い。光里がどんなふうに関わっているのか知るのも怖い。……怖いんです。
でも。きっとそれは……光里も同じなんだと、気付きました」
あの日の夜。
月明かりの下に浮かぶ、光里の顔を思い出す。
彼女は、今にも零れ落ちそうなくらい、涙を溜めていた。
でも、泣いていなかった。
目を逸らすことなく、真っ直ぐ、僕を見つめていた。
それは、どれだけ苦しかったんだろう。
光里と過ごした日々は、嘘偽りのない楽しさに溢れていた。それは間違いない。きっと彼女も、僕や笹原や美咲さんと過ごした日常を、楽しんでくれていたはずだ。
でも実は。そんな日々の後ろに、あんな悲しい気持ちを抱えていて……
その気持ちを我慢して、押し込めて、隠して、笑って、はしゃいで、楽しんで……そして、突然日常が壊れそうになった。そんな矢先に……――
僕から家族を奪ったのだと言うのは……――どれだけ怖かったんだろう。
「僕はまた、光里と、みんなと、心の底から毎日を楽しみたいんです。だからこそ、そのために、僕は……」
スッと息を吸う。
蝉の鳴き声が、止まった。
「――僕は、光里と向き合いたいんです」
また、一際強い風が夏の気配を運んできた。
砂が舞い、葉が舞い、光が舞う。
そんな中でも動じることなく、七宮さんは僕の目を見つめ続けていた。
「…………わかったわ。少し、待ってて」
それだけ言うと、彼女はフイッと中に引っ込んだ。しばらくすると、ある一冊のノートを手に戻ってきた。
「それは……?」
「これはね……光里ちゃんの日記」
「え?」
「そして…………彼女の全てが綴られた、気持ちのノートなの」
七宮さんは神妙な顔でそれだけ言うと、無言でノートを差し出してきた。その先は読めばわかる、ということだろうか。
「……光里ちゃんは、とっくに家を出たわ。あなたが来たら適当に受け答えをして、そして、『出会った場所で待ってる』とだけ伝えてと言われてるの。これだけ言えば、あとは走り出すだろうからって」
「あいつ……」
確かに、気持ちの決まっていなかった時だったら、光里の思惑通りに行動していただろう。ったく、どこまでも先回りしやがって。
「橘陽人さん」
「はい」
「光里ちゃんを…………どうか、救ってあげてください」
今までで一番深いお辞儀に、僕はもう一度返事をしてから……
――元来た道へと、駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます