第45話 ヒカリとカゲと


 やばい。



 僕は、もう生きていられないかもしれない。



 だって、だって……



「手を放してください、美咲さん。恥ずかしいので帰りたいです」


「ダーメ。写真撮らないからせめてもうちょっといてよ~」


 泣き顔を見られるなんてどんな仕打ちだ。

 いや確かに心は軽くなったけれども。

 それでもこう、人には見られたくない一面みたいなのがあるわけで……。


「写真なんてもっての外です」


「じゃあ、いいじゃん〜。ね? ほら、ここに座って、ここに」


 美咲さんは僕の服から手を放すと、先ほどまで僕が座っていた丸椅子をポンポンと叩いた。そして、何やら含みを持った笑顔を向けてくる。


「……どうしても?」


「どうしても〜っ!」


「はぁ……わかりましたよ」


 まぁ僕自身、本当に帰ろうとは半分程度しか思ってなかったので、渋々腰を下ろした。


「ただし、笹原が戻ってくるまでですからね」


「わかったって〜。それに、別にいいんじゃない? 辛い時とか、いっぱいいっぱいの時は、誰かに寄りかかったって」


「……僕、そんなに思い詰めた顔してました?」


「そりゃ〜もう。今から戦場にでも行くのかって感じだったよ〜」


 ケラケラと笑う美咲さんは、すっかりいつもの調子に戻っていた。ただそれでも、この場の空気が重くならないように、気を遣ってくれているのがわかった。やっぱり、美咲さんには敵わない。


「そんなにですか。ならまぁ……ありがとうございます、と言っておきます」


「ふふっ。素直じゃないなぁ〜」


「ほっといてください」


「はいは〜い」


 のんびりとした彼女の口調とは対照的に、外の雨はさらに強まっていた。こんな大雨になるなんて天気予報では言ってなかっただけに、ついつい視線は窓の方へと向けられる。



「私……やっぱり、夏に降る雨って苦手なんだよね」



 僕と同じように雨を見ていた美咲さんが、ポツリと呟いた。


「はい……僕もです」


 あの日を、あの時期を思い出す夏の雨は、どれだけ時間が経っても心をざわつかせる。


 オレンジ色で世界を染める夕陽。

 唐突に空を覆う、薄暗い雲。

 湿気の多い、じめっとした空気。

 空の彼方で轟く雷と稲光。

 激しく降り注ぐ、大粒の雨――。


 そのどれもが、あの日と似ていた。酷似していた。ただの夕立なのに。それは重く、深く、心に浸透してくる雨音だった。



「……美咲さん。僕にまだ、何か言いたいことがあるんじゃないんですか?」


「え?」


 美咲さんは驚いたように振り返った。


「そんなに驚かなくても……。だって、美咲さんが僕を呼び止めるのは、何か用事がある時ですから」


 サプライズ計画の準備をしている時。美咲さんが僕を引き留め、光里についてあれこれ聞いてきた日のことを思い出す。いつもみたいにお菓子を食べ終わって、「まだいるよね〜?」とにこやかに言われて、結局その後に質問攻めに遭ったんだ。

 

「アハハッ。さすが陽人くんだね〜。やっぱり、姉弟そっくり……」


 美咲さんは小さく苦笑いを浮かべると、何かを思い出すようにそっと目を閉じた。


「……そうだよ。もしかしたら、お節介かもしれない。関係ないことかもしれない。でも……今は、伝えられることは伝えておきたいの」


 再び目を開いた美咲さんは、僕をじっとを見つめてきた。黒くて大きくて、混じり気のない澄んだ瞳。さっきは受け止めきれなかったけど、今なら……美咲さんのおかげで少し吹っ切れた今なら、大丈夫だと思った。

 

「……わかりました」


「ありがとう」


 僕の返事に、美咲さんはまた短く笑った。



「話っていうのは……光里ちゃんのこと」



 窓ガラスをたたく雨は、まだまだ止みそうにない。



 *



「それで……光里の、何の話ですか?」


 外では、雨に加えて風も強くなっていた。ガタガタと窓枠を揺らす音は少しうるさいくらい。そんな音に負けないよう僕は小さく息を吐き出してから、徐に切り出した。


「まぁそうね。いくつか話したいことはあるんだけど……まず、何かあったんだよね?」


 やはりか。

 思っていた通りの問いかけ。おそらく、笹原から電話やメッセージに全く反応がないことを聞いたんだろう。


「まぁ、ちょっと……喧嘩とかじゃないんですけど……ギクシャクというか、疎遠な感じになってて……」


「……そっか。うん、深くは聞かないよ。それで今、君は光里ちゃんのことをどう思ってるの?」


 言葉を選ぶようにゆっくりと、美咲さんは聞いてきた。

 いつものゆったりとした喋り方とは違う、静かで研ぎ澄まされたような口調。

 そして、今日何度目かになる真剣な眼差しに見つめられ、僕はしばらく口をつぐむしかなかった。回数を重ねても、その意味合いの重さが軽くなることはない。



「……僕は、光里のことを……――」



 不意に、風の音が止んだ。 


 病院特有の匂いや椅子の感触、微かな蒸し暑さが遠ざかっていく。


 きっと、僕は考えていた。


 ここに来るまでずっと。

 いや、光里からあの言葉を突き付けられた日から。


 ――僕は今、光里のことを、どう思っているんだろう。


 少し前に、自分の奥底で溜まっていた気持ちに気づいた。それは、ずっとずっと前から少しずつ器に溜まっていて。知らないうちに、溢れそうになっていた。

 そこへ落とされた一滴の雫と、広がっていく波紋。

 光里に向けられた真っ直ぐな想いと、それを拒絶する彼女の言葉は、今も覚えている。そしてその後に続けられた、僕への気持ちも……――。



「……大切で、かけがえのない人だと、思ってます」



 それでも。

 関係ないと言われようとも、光里があの事故に何らかの形で関わっているかもしれないとしても、僕は……光里のことが大切だ。そして、多分……



「――好きなんだと、思います」



 僕は、彼女の笑顔に救われた。


 彼女と過ごす日々に、また生きようと思えた。

 周囲の環境に合わせて抜け殻のように生きていくんじゃなくて。

 悩んで、笑って、怒って、ふざけて、心配して、泣いて、また笑って――。


 僕はもう一度、そんな日常を過ごしていきたいと思ったんだ。


「……そっか。良かった」


 視線の鋭さが、ふっと緩んだ。


「今もそう言えるなら、そう思えるなら、きっと大丈夫だね」


「今も?」


「この前も、そうだったでしょ?」


 今度は、少し悪戯っぽく笑って僕を見る。


「あの時はそんなこと言ってないです!」


「でも、思ってたことは否定しない、と」


「ぐっ……」


 事実その通りだったので、何も言い返せない。でもなぜか、それが妙に心地良かった。

 美咲さんはそんな僕を満足そうに見て、また短く笑った。


「ふふっ。その気持ち、忘れないでね。とっても大切なものだから。光里ちゃんは……きっと何か大きなことで悩んでる」


「それは……」


「おそらく、今回のこととも関係するんだと思う。お祭りの時も、サプライズ計画の準備の時も、光里ちゃんは何かに悩んで、苦しんでた」


 美咲さんの言葉に、一ヶ月も経っていない記憶が蘇る。

 一番衝撃的だったのは、弱った雀が倒れていた時の光里の様子だ。確かにあの時の光里は様子が変だったし、何かに苦悩しているように見えた。


 でも……。もしかしたら、おかしなところは他にもあったんじゃないか。


 夏祭りの時も。買い物の最中も。学校で会っていた時や、文化祭の打ち合わせの時。すれ違った時、隣で歩いていた時……。


 何気ないと思っていた日常の中で、


 僕の気づかないところで、


 もしかしたら光里は……ずっと悩んでいたんじゃないだろうか。


 

 ――陽人から家族を奪ったのは、私だから。



 あの言葉を思い出す。


 事故当時、光里はまだ七歳だ。


 父親は行方不明でおらず、母親に至っては亡くなっている。


 



 もし、最初から。


 出会った時から。


 そんなふうに、思っていたんだとしたら。


 光里はいったい、どんな気持ちで、覚悟で、僕と笑い合っていたんだろう――。



「僕は……バカだな」



 思い切り、両手で頬を叩く。



「は、陽人……くん?」


「いやこれ、思ったより結構痛いんですね」


 ジンジンと両頬が痺れている。そして多分、赤くなっている。



「……覚悟、決まったみたいだね」



「はい。おかげさまで」



 僕は、光里と向き合いたい。



 これまでのことも。これからのことも。



 全部受け止めて、そして……伝えたい。



 しなければならないじゃなくて、したいんだ――。



「でも! 今日はもう遅いから、明日にするんだよ〜?」



「……わかってますよ」



 出鼻を挫く言葉にムッとしたが、外の様子に合点がいった。

 そんなに時間は経ってないと思っていたのに、窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。雨もかなり弱くなっていて、傘を持ってなくてもなんとか帰れそうだ。それに、夕ご飯の支度もしないと。


「まっ、何かあったらこの美咲お姉ちゃんに相談しなさいな〜」


「期待せずに頼らせていただきますね」


「ちょっと〜!」


 お互いに軽口を言い合い、笑い合ってから僕は席を立ち、病室の扉の方へと向かう。

 本当に、今日は来て良かった。

 直接お礼なんて言うのも恥ずかしいから、心の中でこっそり…………いや――。


「……美咲さん、今日はありがとうございました。またみんなで、お菓子食べましょう」


 病室の扉に手をかけたまま、振り返る。あんまり得意じゃない笑顔を浮かべ、恥ずかしさと悲しさを押し殺して、僕はそんな言葉を投げかけた。 

 

 特に返事はなかったけれど、彼女は嬉しそうに笑い、手を振っていた。















 ***






「速報です。先日蘇ったと噂されていた元女優の一ノ瀬優子さんが、昨日、亡くなっていたことがわかりました――」






 居間のテレビから流れたニュース速報に、結局、僕は夕ご飯を作ることができなかった。

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