第44話 過去の温もりを思い出して
確かに、心の準備は完璧ではなかった。
それでも、僕なりの覚悟はしてきたつもりだった。
会いたいと言われれば、つまり何か用事があるはずで。
そして相手は、あの美咲さん。何がくるかわかったもんじゃない。けれど、美咲さんの病気のことは事前に聞いているし、直前には七宮さんから重大事を聞かされたばかりだったこともあって、その用事が何であっても驚かない自信があった。
それでも。まだ……足りなかったんだ。
「えと……なんで美咲さんが、僕の姉のことを……?」
夏空を覆う雲から水滴が零れ、疎らに窓を叩く頃になって、漸く僕は口を開けた。
「美沙とは、友達だったの。……ううん、親友って言った方がしっくりくるかな。それくらい、仲が良かった」
僕とは対照的に、美咲さんはほとんど間を置かず返事をした。久しぶりに聞く姉の名前に、思わず身体がびくりと跳ねる。
「高一から同じクラスでね。名前が似てるねーって美沙から話しかけてくれて、すぐに意気投合したの。美沙は本当に真っ直ぐで、明るくて、誰にでも優しくて、眩しかった。美沙といると不思議と元気になって、笑顔になれた。私にとって美沙は大切で、かけがえのない親友だったんだ」
でも、美咲さんは僕に構うことなく続けた。姉のことを、美咲さんはすごく無邪気に話してくれた。
何気ないお喋りが楽しかったこと。
音楽やドラマだけでなく、男子の好みも同じだったこと。
二人で学校をサボって遠出したこと。
海に行ったこと。
カラオケに行ったこと。
あれも、これも……思い出をたくさん、語ってくれた。
「でも。高二になったある日……私たちは、喧嘩をしてしまった……」
遠くで雷鳴が轟いた。雨は勢いを増し、割れるんじゃないかと思うほど激しく、窓を打ち付けていた。
「あの頃、美沙は悩んでたの。偶然公園で仲良くなった女の子が家庭不和の問題を抱えてて、それで相談に乗ってあげてたみたいで」
初めて聞く話だった。あの頃、姉のそんな悩んでる姿を見たことはなかった。僕の記憶にあるのは、くだらない話を楽しそうに喋っていて、憎たらしいくらい喧嘩の種を蒔いてくる、そんな姿ばかり。
「あの子、困ってる人は放っておけない性格だったから。でも、あまりにも悩んでたから見てられなくて……他人の家のことでそんなになるまで悩むことないって、言っちゃったの。バカだよね、私。しっかり話し合っていれば、喧嘩にはならなかった。すぐに仲直りできた。でも私たちは……それから疎遠になっていった」
「疎遠に?」
「うん。学校でもあまり話さなくなって、目が合うと気まずくて避けて……。何度も仲直りしようと思ったんだけど、私たち意地っ張りだったからなかなかできなくて…………辛かったな」
美咲さんの顔が苦しそうに歪んだ。そして徐に、窓の方へと視線を向ける。
「あの日も、雨だった。私は、今日こそは仲直りしようと思って、早めに学校に来てた。朝イチで謝らないと、またズルズルいっちゃいそうだったから。だから、美沙が好きなお菓子を買って、どうにか生徒指導の先生の持ち物検査をかい潜って、自分の席でドキドキしながら美沙を待ってた。そして……」
彼女の顔が、再び僕の方に向く。
窓の外を眺めていたのは、僅か数分。
僅か数分で……彼女の顔色は変わっていた。
「朝のホームルームで、私は……もう二度と、美沙に会えないことを知ったの」
薄く、彼女は笑った。
とても悲しそうな笑顔だった。
「その時の事情は……きっと、君の方が詳しいよね?」
「……はい」
思い出したくもない、橙色の記憶。
揺らめく炎。泣き叫ぶ声。降り頻る雨音と、赤くただれた肌。そんな地獄の中から姉は僕を救い出してくれて……亡くなった。
「前にも、少し話したよね? 私は、大切な人に自分の気持ちを伝えられなかったことがあったって」
彼女を目元を軽く拭ってから、またゆっくりと雨音の方へ顔を向けた。美咲さんらしくない、寂しそうな横顔が脳内に浮かんで、目の前の彼女と重なる。
「確か……喧嘩して、好きなのに伝えられなかったって…………あ」
「そ。あれは告白じゃなくて、謝罪と感謝の気持ち」
ある意味告白だけどね、と美咲さんは自嘲気味に肩をすくめた。
「私は、伝えられなかったの。そして、ここまで来てしまった。社会人になって、病気にかかって、そんなに長くないかもって言われた時、美沙の顔が頭に浮かんだ。やっと謝れるんだって……思った」
「美咲さん!」
思わず叫ぶ。その意味するところを、続けさせたくなくて。
でも、彼女は首を小さく横に振った。
「大丈夫。知ってるよ。美沙は、そんなふうに諦めて死んだ人の謝罪なんて、聞いてくれない。絶交だって言われる。だから、私は最期まで生き抜いて、胸を張って死んでから、美沙に謝りたい。そう思って、今日まで生きてきた」
「美咲さん……」
「サプライズ計画も、そのひとつだった。弟に、幹也に何かしてあげたくて。ずっと、気を遣わせちゃってたから。だから、協力してくれてありがとう」
美咲さんは、そっと僕の手を握った。柔らかくて、温かい手だった。なんだか、懐かしいなと思った。
「私もまだ生きることを諦めたわけじゃないけど、どうしても君には言っておきたくて。……そして、これは君にも当てはまることだと思ってる」
「え?」
「私は……君にも、後悔のないように生きてほしい」
黒曜石のような瞳が、僕を真っ直ぐ見据えた。
「多くは語らない。君は、きっとわかっているだろうから。ただ、美沙なら多分、今を良しとはしない。そう思う」
その深い黒色と一緒に、熱を帯びた言葉が心に落ちてきた。
でも僕は、すぐには受け止められなかった。
「ありがとう、ございます……。でも、僕の中で、まだあの過去を清算できてないんです。それに、光里は……」
言葉が続かない。言えるはずもない。
そもそも、どうやったら過去を清算なんてできるのか。
光里と話して、もし僕の中の仮定が合っていたら……僕はそれで、あの過去を乗り越えられるのだろうか。
「大丈夫。自分の中で、それがわかっているなら大丈夫だよ。焦らないで。きっと君なら、大丈夫――」
手が引き寄せられた。
僕の額が、彼女の肩に当たる。
病衣特有のツンとくる匂いが鼻孔を衝き、そして後から、柔らかな香りにふわりと包まれる。
「大丈夫だから――」
首筋と背中が温かい。
まるで、そこから心にまで熱が伝わってくるような。
肩も、腕も、顔も、胸も、温かくて。
目尻だけが、少し熱くて――。
規則的な雨音だけが響く病室で、僕はしばらく震えていることしかできなかった。
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