第4章 ヨミガエリ
第38話 戻らない日常
開け放たれた教室の窓から、生温い風が吹き込んできた。その拍子に、壁に貼られた掲示物がパラパラと捲れ、机に置いてあったプリントが数枚、床に落ちた。
僕の近くにも一枚落ちてきたので、拾い上げて机に戻す。
「いよいよ今週の土日か」
それは、文化祭のビラだった。高校のイメージカラーにもなっているオレンジを基調に、可愛らしいイラストやアレンジされたたい焼きが描かれた、クラスのリーフレット。姉弟で才能があるのか、これをデザインしたやつは……今日も学校を休んでいる。
「大丈夫かな……笹原」
美咲さんが倒れた日から、今日で五日目。
倒れた翌日に送ったメッセージに、落ち着いたら学校に来ると返信があったきり、連絡はない。
笹原の両親からは、もし良かったら会いに来てほしいと言われているが、結局この土日にも行かなかった。
……というより、行けなかった。
まだ僕の中には、病床に臥している美咲さんに、その傍らで悲しそうに美咲さんを見つめている笹原に、会う勇気がなかった。そうした場所に足を踏み入れることが、怖かった。
きっとまだ、心のどこかで、十年前のあの日のことが消化しきれないでいる。
でも。それがわかったところで、その後どうしたらいいのかわからない。そんなことを考えていたら、土日が終わっていた。
「……やるか」
これ以上悩んでいても仕方ないので、止めていた色塗りを再開する。僕が担当しているのは、当日の屋台のテントの上に乗せる看板の飾り。お見舞いには行けなかったが、せめて、同じ担当メンバーだった笹原の分までしっかり仕事をしておきたかった。
ただ、僕は笹原や美咲さんと違って、デザインのセンスも手の器用さもない。できるとすれば、決められた場所に決められた色を塗るくらいだ。それですら、きれいに塗るのは結構難しくて危うい。
「な、なぁ。ここの色って、こんな感じでいいか?」
早速自信がなくなって、笹原と一緒にリーフレットや看板のデザインを担当していた女子にアドバイスを求める。
「え? んー……もう少し明るい色を乗せるともっと良くなるかな?」
彼女は少し驚きつつも、丁寧に説明をしてくれた。使う絵の具の色に、水の量やバランス。僕には何をどう考えたらその塩梅に辿り着けるのかわからないが、とりあえず言われるがまま混ぜ合わせ、色を塗っていく。
「おぉ。確かに、きれいになった」
そこにはさっきよりも全体的に明るみが増し、華やかさが増した向日葵があった。
「でしょ? またわからないことあったら聞いてね」
「あ、あぁ。その、ありがとう」
立ち去る彼女に慌ててお礼を言うと、また彼女は驚いたように目を丸くした。なんだ? なんか変なこと言ったか……?
「橘くんさ、なんか最近変わったよね」
「え?」
思いもよらない返事に、今度は僕が呆気に取られた。
「あぁ、ごめん。変な意味じゃなくて。なんか前は分厚い壁が反り立ってたんだけど、今は薄い板が数枚あるだけ、みたいな?」
「いや、板はあるのかよ」
「アハハッ、そういうとこだって」
彼女は短く笑うと、他の助けを求める声の方へ駆けていった。
「変わった、か……」
なんだか少し、くすぐったかった。
前に笹原にも言われたし、それは僕も実感している。今の彼女への質問も、以前だったら絶対にしなかったし、何よりこんなにも真剣に準備をしようとは思わなかっただろう。
確かに、僕のことをあれこれ言う人はいるし、好奇の視線もなくなったわけじゃない。ただ、なんだか前よりも、そうした人が少なくなったようにも感じていた。なぜかは、わからないけれど。
でもこの変化は、間違いなく笹原と…………光里のおかげだ。
明るい黄色が付いた筆を置き、代わりにポケットからスマホを取り出す。
まだ、既読にはなっていない。
「光里……」
悩みの種は、尽きてくれない。
*
土日を含めたこの五日間。笹原だけでなく、光里ともほとんど連絡をとれていなかった。
あの日の言葉は、今も消えずに耳の奥に残っている。
美咲さんが倒れた日。その帰り道に、僕は美咲さんを生き返らせてくれないかと聞き、断られた。そして、彼女は続けた。
僕の家族を奪ったのは、自分だと……――。
結局、その後光里は走って帰ってしまい、それ以上のことは聞けていない。電話してみるも出てくれず、メッセージで聞いてみるも、「言えない」の一言しか返ってこなかった。それ以降、光里にいろいろとメッセージを送ってみるが一向に既読はつかず、未読スルー状態が続いている。
本当に、光里が奪ったんだろうか。
ボランティア遠足でのことを思い出す。
あの時、確かに僕は光里のことを疑った。僕の父を、母を、姉を、崖下に突き落として逃げた対向車の親族か何かなんじゃないかと思って、避けた。
でも。光里の無邪気な笑顔を見て、真っ直ぐな優しさに触れて、他人のための涙を知って、違うと思った。違うと……思いたかった。なのに……――。
――陽人から家族を奪ったのは、私だから。
彼女の声が、また脳裏に響く。
聞きたくない、言葉だった。
彼女は、あの事故を知っている。
僕の生き返らせたい人を、知っている。
彼女は、光里は…………――あの事故の、関係者だ。
だけど。
やっぱり……違うと思った。
光里は、あの事故の加害者側なんかじゃない。僕から家族を……奪ったはずが、ない。
光里のおかげで、僕は日常の大切さを思い出すことができた。
彼女と過ごした日々は、本当に楽しかった。
光里が流した涙は、
僕にくれた言葉は、
笹原と美咲さんへの優しい眼差しは……――間違いなく、本物だった。
もう、わからなかった。
――あの事故を、どうか……恨まないで。
ふと、姉の最期の言葉が蘇る。
姉は、どうしてあんなことを言ったんだろう。
十年経っても、姉と同じ年齢になる年になっても、僕は未だにあの言葉の意味がわからない。
光里と会うまでは、憎くて憎くて仕方なかった。あの言葉に縛られて、自分の気持ちとの矛盾に苦しんで、ただただ毎日を惰性のように過ごしていた。姉と同じ年齢になればわかるかもと、そう自分に言い聞かせて今まで生きてきた。
そして結果的に、今はあの言葉を肯定したい気持ちになってしまっている。
それに、何よりわからないのが……
どうして、美咲さんを生き返らせられない理由が、僕の家族を奪ったからなんだ?
なぜ? どうして……――?
もう、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
わからなかった。
光里は、どうしたいんだろう。
僕は、どうすればいいんだろう……――。
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