第36話 病院に宿る記憶
僕は、俯いていた。
腰掛けている長椅子は、蒸し暑いのに、どこか冷たさすら感じる。
受付時間はとうの昔に過ぎており、辺りには、緑色の非常灯やナースステーションから漏れ出る最低限の光しかない。
「……」
「……」
隣には、光里が座っていた。
でも、僕たちの間に会話はない。美咲さんが救急車で搬送され、笹原のお父さんに車でここに連れてきてもらうまで、一言も話していない。
というより。話す気力が、ない。
「……」
「……」
ここに来て、どれくらい経っただろう。
笹原は病室で美咲さんに付き添い、笹原の両親は別室で医師からの説明を聞いている。美咲さんは面会謝絶のため、僕らは病院のエントランスで待っていた。
笹原の両親からは、もう夜だし帰った方がいいと言われたが、いさせてほしいと頼んだ。説明に時間がかかるとも言われた。でも僕は、僕たちは……待つことにした。
倒れるほど、病気がひどくなっているなんて思ってもみなかった。
病室に行けば、いつも美咲さんは元気に笑いかけてきて。
パリパリとポテチを頬張っていて。
のんびりマイペースに僕らを振り回した。
そんな美咲さんが……。
「……」
「……」
夜の病院は、静かだった。
夜勤の看護師さんたちの、書類を整理する物音。
自動販売機の機械音。
遠くで行き交う車の走行音。
そんな音しか、聞こえない。
それは、全く変わっていなかった。
十年前と。
姉を亡くした、あの日の夜と……――
「――ありがとう……ございました」
薄暗い廊下の先から聞こえてきた声に、僕らは反射的に立ち上がった。それから暫くもしないうちに、二つの影が近づいてくる。
「み、美咲さんは……!?」
僕が聞くより先に、光里が声をあげた。彼女の澄んだ声は、夜の病院によく通った。
「静かに、光里さん。ここは病院、それも夜だから……ね?」
駆け寄った光里を、笹原のお母さんが優しく制した。
「は、はい……すみません」
「うん。でも、ありがとう……あの子のことを、心配してくれて……」
そして、その小さな腕でそっと光里を抱きしめた。彼女は堪え切れず、笹原のお母さんの手の中で小さく震えていた。
「その……美咲さんの容体は?」
光里が落ち着くのを少し待ってから、僕は笹原のお父さんに向き直った。
「うむ……まぁ、君たちならいいだろう。峠は越えたが、正直言ってあまり芳しくない」
低い声で発せられた言葉が、想像以上の重さを伴って心に落ちてきた。目の前が軽く揺れたが、どうにか堪える。
「最近の検査結果は良かったんだ。それは、美咲からも聞いていたと思う。だから私たちも、今日やる予定だった美咲の案に乗った。……だが、今の美咲の容体は、最悪に近いものであるらしい」
「そ、そんな……」
光里の悲しそうな声が、鼓膜に届く。
――ど、どうにかならないんですかっ!?
いつかの叫びが、その後に重なった。
でも、小さく頭を振ってそれを掻き消す。
「み、美咲さんは……大丈夫なんです、よね……?」
それが、答えられない問いであることはわかっていた。いやむしろ、それを知りたいのは笹原のお父さんやお母さんの方であることも。
でも。
聞かずには、いられなかった。
「……とりあえずは、大丈夫らしい。だが……」
僕の問いかけに、笹原のお父さんは一度、言葉をつぐんだ。その悲痛な表情に、聞かなければ良かったと思った。
――残念ながら、お姉さんは、もう……
だって。その顔は……その声は……
「やはり美咲は…………そう長くは、ないらしい」
あの時と、同じだったから。
十年前に、姉を見取った時の、看護師さんと……――。
*
その日は、雨だった。
病院に搬送されたのは、僕と姉だけだったらしい。両親はその場で死亡が確認されたと、後から聞いた。
僕は事故の翌日には目を覚ましていたけれど、姉は違った。
重度の火傷に、大量の出血。まだ生きているのが不思議だと言われた。
対する僕は、手足や顔に火傷や傷を負ったが、命に別状はなかった。
「うっ……ううっ……」
僕は、姉が横たわるベットのそばで泣いていた。
来る日も来る日も、泣いていた。
早く目を覚ましてほしかった。
僕を抱きしめてほしかった。
不安で不安で、仕方なかった。
そして。事故から三日経った日の夕方に、姉は目を覚ました。
「お姉ちゃん!」
「はる、と……?」
あの時の嬉しさは、今でも覚えている。
姉の目はどこか虚ろで焦点があっておらず、ぼんやりと僕の方を向いているだけといった感じだった。
「ケガとか……してない?」
「僕は少しだけ! でも、お姉ちゃんが……」
「ふふっ……私は、大丈夫。お姉ちゃんは……強いん、だから」
弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。だから僕は一字にも聞き逃すまいと、必死にすがりついていた。
「ねぇ……陽人」
「なに? お姉ちゃん」
「ひとつだけ……お願いを、聞いてくれない、かな……?」
「いいよ! 何個でも!」
幾重にも包帯が巻かれた手を、壊れないようにそっと握りしめた。白いはずの包帯は夕日の光を受け、オレンジ色に染まっていた。
「ふふっ……ありが、とう……」
姉も小さく、僕の手を握り返してくれた。そして微かに笑い、あの言葉を言ったんだ。
――あの事故を、どうか……恨まないで。
それっきり、姉が僕の手を握り返してくれることは、二度となかった。
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