第33話 声と、想いと
いけないことだとはわかっていた。
でも。気がつくと、足は勝手に動いていた。
僕は皿を拭いていたタオルを机に放り投げると、足早に家庭室を出た。家庭室前の廊下には、午後の日差しがさんさんと降り注いでおり、数人の生徒が放課後の歓談で盛り上がっている。
「光里たちは……」
視線を右に左にと彷徨わせると、遠くの角に消えていく二つの人影が見えた。ごくりと唾をひとつ飲み、小さな覚悟を決めてから、早足でその影が消えた角に向かう。
何をやってるんだ、僕は。
足を動かしながら、自分の心を問い質してみるも答えは返ってこない。いや、もしかしたらもうわかっているのかもしれない。自分の、気持ちに……――
「ねぇ、話って何?」
小さく響いた声に、僕は足を止めた。この先の角を曲がった、階段の踊り場からだった。
「その、この前言ったことなんだけど……」
家庭室に響いた声よりも、いくぶんか張りのない声。緊張や恥ずかしさ、照れくささが混ざったような、そんな声だった。
「この前?」
「うん。俺さ……」
そこで、スッと息を込める空気が伝わってきた。離れているのに、やたらと明確かつ鮮明に。
「やっぱり、天之原のこと好きだ」
今度は、淀みのない真っ直ぐな声が、僕の鼓膜を震わせた。
「明るくて素直で、テキパキと割となんでもこなしているけど、所々抜けてるところがあって」
さっきまでの緊張や自信のなさはすっかり消え、
「そんなところも可愛いな、なんて思っちゃってさ……気がつくと目で追ってしまってるんだ」
想いの芯が通っているように感じた。
「なんか、こう……上手く言葉にできないけど、一度フラれたくらいじゃ諦められないんだ。諦めたく、ないんだ……」
この、彼の想いに光里は……――
「だから、もう一度考えてほしい」
その言葉を境に、沈黙が流れた。
全く関係のない僕の心臓も、なぜかドクドクといつもより脈打っている。
光里は、なんて答えるんだろう。
前は断ったと言っていたけど、今回はどうなんだろう。
ぐるぐると思考が渦巻き、手にはじんわりと汗が滲んだ。
おそらくは、数秒か数十秒程度の沈黙。
その間、驚くほどあれこれと、思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
最終的には、どうしてこんなところで立ち聞きしているのか、という考えに辿り着き、僕はそっと踵を返した。
「ありがとう。でも、やっぱり……付き合えないよ」
聞き慣れないトーンの、聞き馴染みのある声に、僕の足は再び動きを止めた。向きを変えていた足先が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
「どうして?」
「……どうしても」
「ほかに好きな人でもいるの?」
「秘密」
いくつかのやりとりが交わされた後、沈黙がまたその場を支配した。離れていてもわかる空気の重さと気まずさが肌を刺す。もう手遅れかもしれないが、さすがに離れないと……
「――顔にやけどの痕がある、彼か?」
ピシッと、体が硬直した。
と同時に、手や足が鉛のように重くなり、動かなくなる。
顔にやけどの痕がある、彼……。
もしかして……いや、もしかしなくても、僕のことだ。
「そんな言い方やめて」
そこで、鋭い声が響いた。別に向き合っているわけでもないのに、びくりと肩が震える。
「あ、ごめん……えと……」
「陽人のことだよね? 私がさっきまで話してた」
刺すような光里の声に、それっきり男子生徒の声は聞こえなくなった。
三度目の沈黙が、静まり返った廊下に立ち込める。
それは、今までで一番長い沈黙だった。
外から差し込む陽射しは随分と弱まっており、夏の日は長いと言えど、辺りにはもうすっかり夕方の様相が満ちて始めていた。
「陽人は…………」
今度は、光里が沈黙を解いた。
でもそれは、今までで一番か細い声で、
「陽人は……関係ないよ」
それは、今までで一番、はっきりと……僕の耳の奥に残った声だった。
*
階段での一件は、結局そのまま終わった。
光里の言葉を最後に、男子生徒の方から去っていったみたいだった。
光里はしばらくそこで立ち尽くしていたようだったけど、その後のことは僕も知らない。
――陽人は……関係ないよ
彼女の言葉が耳の奥で残響して、それ以上、静寂に満ちたあの場所にいたくなかったから。
なぜか、心の奥底が冷たかった。
ズキズキと胸のあたりが痛んだ。
さっきまでの鼓動のせいか? 聞いているのがバレないか、結構緊張していたからな。
そんなふうに考え、深呼吸を二度、三度と繰り返してみるも、全く癒える気配がない。
「はぁ……はぁ……」
気づかれないようにそっと歩いていたはずなのに、いつの間にか僕は走っていた。校内練習をしていた運動部とすれ違い、ぶつかりそうになる。怒号のような声が聞こえた気がするけど、足は止めない。止まらない。止まって、くれない。
「はぁ、はぁ……」
気がつくと、僕は生徒玄関前にいた。
青色が随分と薄くなった空の下、名前も知らない虫たちが鳴いていた。陽の光は弱く、風も夏にしては冷たい。
「はぁ、はぁ……」
普段、たいして走りもしないからだろう。
足が、腕が、軋んでいるような気がする。
喉も、肺も痛い。深く息を吸うと、唾液が絡んでひどくむせた。
……でも。
やっぱり一番痛いのは、胸だった。
「はぁ……くそ」
近くに立っている石柱へと背中を預ける。夏なのに、思いの外ひんやりとしていた。
「僕は……」
でも。背中に向いていた意識は、すぐに過去へと還る。
朝。光里と待ち合わせて、ふざけながら打ち合わせをしていた数時間前に。
「光里を……――」
口の中で転がした想いが、心の中で形を帯びる。
僕はただ、ひたすらに、胸の痛みを我慢するしかなかった。
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