第15話 橙色の記憶
ドサッ。
乱暴に放り投げた通学カバンが、畳の隅まで滑って止まった。
ド田舎の祖父宅らしい、い草の匂いが鼻につく居間。木目模様が特徴的なタンスや脚の低いちゃぶ台があり、放り投げたカバンの対角線上には黒色の小さな仏壇がある。
電気は点けずに、ちゃぶ台の横に倒れるように寝転がった。僕が生きてきた以上の時間を取り込み日焼けした天井が、視界いっぱいに広がる。
ふと物音がして、視線を天井から窓へと移す。
「降ってきたか」
雨だった。どうやら間一髪だったようで、みるみる雨音が強くなっていく。
梅雨時期の雨粒がパラパラと窓を打ち、障子紙が湿気を吸ってふやけている。室内は薄暗く、仕事で祖父のいないこの家は雨音以外、静寂に満ちていた。
「はぁ……」
試験後の疲れを噛みしめるように息を吐く。
ボランティア遠足から三週間後、僕たちの高校では新学期初の定期考査があった。五教科を二日に分けて行う試験で、範囲も決められているので普通に勉強さえしていればなんということはない。
でも、ここ最近溜まりだした別の疲れが、試験後の疲れと合わさってドッと押し寄せてきていた。
「はぁ……」
一回じゃ足りなくて、もう一度肺の空気を外に出す。
原因はおそらく、いや十中八九あのボランティア遠足だ。
――その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ
彼女の声が、今もはっきりと耳の奥に残っている。
――だから、急いでね?
あれ以来、僕は光里とほとんど話していなかった。ボランティア遠足の次の日も、彼女はこれまでと同じように話しかけてきたが、僕は全て避けた。なんとなく、彼女と話すのがためらわれたから。
昼を囲んでいた時間も、ボランティア遠足から一週間後にはなんとなく無くなっていた。たぶん、光里が来る前に僕が食堂へと逃げていたからだろう。
笹原からは「お前ら、なんかあったの?」と心配されたが、「これが普通だよ」と特に詳しく話すことはしなかった。光里の能力については笹原に言ってないし、第一、僕から話していいことかもわからない。
「それに、事故のことも言ってないしな」
天井に向かってポツリとつぶやくと、僕は身を起こした。そのまま四つ足で仏壇の前までいくと、そこに飾られた写真に目をやる。
写真に写っているのは、三人。
「父さん、母さん、姉ちゃん……ただいま」
姿勢を整え、そっと目を閉じる。
父さんの笑った顔。
母さんの呆れた顔。
姉ちゃんの怒った顔。
どれもそれが日常にあって、変わることがないと思っていた表情。
……そして、揺らめく炎と、姉ちゃんが泣きながら伸ばす真っ赤な手。
もう随分時間が経ったのに、あのときの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
離れて、くれない。
*
十年前の夏。
僕たちは日も昇らぬ早朝に家を出て、遠くのキャンプ場へと向かっていた。
「ちょっと陽人。狭いからもっとそっち行って!」
「え~無理だって。姉ちゃん、もしかして太ったんじゃないの?」
「な、な、なっ⁉ ちょっと陽人! こっちきなさい!」
「うわぁ! ちょっ、タンマ!」
他愛のない、いつものやり取り。
「ちょっと、ちょっと。車の中でケンカはやめなさいって」
「はっはっは。元気やな~。そんなんじゃ、キャンプのときにもたんぞ?」
普通だったら日常の色に溶け込んで忘れ去られるような会話も、まだはっきりと脳内に残っていた。
家を出て、車通りの少ない国道をしばらく走ると、山道へとさしかかった。この山道を越えてすぐのところに高速道路の入り口があり、そこから楽しいキャンプという、非日常的な思い出となる一日が始まるはずだった。
あのとき、確か僕は姉ちゃんとのケンカやキャンプへの興奮で疲れ、ウトウトとしていた。まどろみの中で、どこか遠くから母さんや父さん、姉ちゃんの会話が飛び交っていた気がする。
すぐに眠れなかったのは、街灯の光が時々僕の瞼に当たっては目が覚めていたからだ。
でも、そのおかげで僕は家族の最期の瞬間を、おぼろげなりとも刻み込むことができた。
時間は明け方。
薄っすらと開けた視界に、白み始めた空と雲が映っていたのを覚えている。
そのとき、僕たちは山道を登っていた。
「きゃああっ⁉」
母さんの叫び声と同時に、目の前が眩しい光で包まれた。まるで、太陽が一瞬で顔を出したような、そんな眩しさだった。
でもそれは太陽などではなく、対向車のヘッドライトだった。
それを認識してすぐ、車体が大きく左に揺れた。たぶん、父さんがハンドルを左に切ったのだと思う。光が膨張し、その車が迫ってきていたのがわかったから。
直後。束の間の浮遊感を経て、物凄い衝撃が全身を貫き、意識が飛んだ。
……。
……それから、どれくらい時間が経ったのか。
感覚的には、目覚めるまで数秒だった。
起きたら見知らぬ天井、といったありきたりな展開ではなく、地獄の真っ只中だった。
最初に目に飛び込んできたのは、炎。
車内の上から下、座席、ドアなどなど、目に映る全てのものが燃えていた。
「母さん! 父さん!」
とにかくここから逃げないと。
七歳くらいだったのに、このときの僕はなぜか冷静だった。
「姉ちゃんっ! どこっ⁉」
起き上がろうとしたとき、気がついた。
上にすごく重いなにかが乗っていて、全く動けないことを。
立ち上がろうと動かした足に激痛が走り、動かせないことを。
顔の右頬の辺りが異常に熱く、触ろうと伸ばした手の平のように赤く、ただれているであろうことを。
「うあ……ああっ、あああああっ!」
もうダメだ。
僕は、ここで死ぬ。
なぜ、なんで、どうして…………?
「母さんっ……」
あちこちが痛かった。目が、喉が、全身が。
「父さんっ……」
でも、そんなことよりも、どうして楽しいはずの今日にこんなことが起こるのか、心底不思議で、悔しくて、悲しかった。
「姉ちゃんっ……!」
痛みと息苦しさで意識を保つのも難しくなり、目の前が霞み出したときだった。
「陽人っ!」
いつもは憎たらしくて、飽きるほど聞いていて、ほとんど毎日罵詈雑言しか飛んでこない声が、このときは救いの声だった。
「姉ちゃんっ!」
遠のいていた意識が、少しだけ戻ってきた。
なんとか動く頭をもたげると、うごめく炎を背に姉が必死に手を伸ばしていた。
「待ってて! 必ず、私がっ!」
僕も、痛む身体に鞭を打って必死に手を伸ばした。
あちこちが熱く、軋み、痛んだ。
再びぼやけていく視界の先で、指先が揺れていた。
「助ける、からっ!」
そのとき、なにかが姉の頭上に降ってきた。
下敷きになる姉。
激しく燃える車の破片と、太い枝。
それでも姉は、血だらけになり炎に包まれながらも這い出し、僕に手を伸ばしてきた。
「もう少し、もう少しだよっ! 陽人!」
「お姉ちゃん……助けて……っ!」
なぜ、僕はあのとき手を伸ばしてしまったのだろう。
なんで、僕はあのとき姉に「逃げて」と言えなかったのだろう。
どうして、僕が、僕だけが、今生きているのだろう。
答えはわかっている。
僕は、助かりたかった。
生きたかった。
死ぬのが、怖かった。
伸ばした手が姉の手に届いたとき、僕は意識を完全に失い、「見知らぬ天井」が見えるまで目が覚めなかった。
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