第14話 期限と、違和感
「陽人、陽人っ!」
名前を呼ばれ、ハッと気がついた。
まず目の前に飛び込んできたのは、黄色でも橙色でもなく、青色。
その後に、左胸の下で異常に高鳴っている心音に驚いた。まるで百メートルを何度も全力疾走した後にみたいに、急ピッチで全身に血液を送っている。
ゆっくり起き上がると視界が反転し、波のように揺れ動く草木と、ゆったりと流れる河川が広がっている。
手にはじんわりと汗がにじみ、全身はびっしょりと濡れていた。
「陽人、大丈夫?」
声のした方を向くと、心配そうな表情を浮かべた光里がこちらを見つめていた。その手には、薄く汚れたハンカチが握られている。
「僕、寝てた?」
努めて明るく、僕は尋ねた。たぶん、柄にもないとびっきりの笑顔をしていると思う。
「うん、少しだけ。十分くらい、かな」
サッと光里は目を逸らした。それだけならまだしも、声があからさまにぎこちない。
やっぱりダメか。
普段作りもしない笑顔では、彼女を誤魔化すことはできなかったようだ。このままでは気まずいので、正直に聞くことにした。
「僕、うなされてた?」
「…………うん」
数秒の間を置いて、彼女は首を縦に振った。ハンカチを持つ手が、少しだけ震えている。
「僕、なにか言ってた?」
「……ううん。なにも言ってなかったけど、手を、伸ばしてた」
ビクッ、と肩が震えた。
あの時の出来事が、さっきまでの夢のイメージと合わさって鮮明に蘇ってきた。思わず右手で顔を覆うが、以前のようなめまいや頭痛はない。
やはり、時間は充分に経っている。大丈夫、大丈夫だ……。
そう何度も言い聞かせて、橙色の記憶が薄れていくのを待った。
「……そっか。ごめんな。変な、というより怖い夢を見てさ」
川から吹く風が、汗をまとった身体にじんわりと沁みていく。時間が経ち、心も平静さを取り戻しつつあった。
「大丈夫だから、気にしないで」
「……うん」
さっきと同じように、彼女は頷いた。気を遣われているのが痛いほど伝わってくる。まだ心臓は少しドクドクいっているが、精神的には落ち着いてきていたので、正直申し訳なかった。
なにか話題はないかと視線を彷徨わせる。
「えっと……」
そこでふと、何度目かになる彼女のハンカチに目が留まった。
きれいに洗濯し真っ白になっていた布に、茶色の汚れが所々薄く付いている。さらによくよく見ると、じんわりと湿っているようだった。さっき彼女が使っていたときにはそんな汚れはなかったはずだ。
「あの、もしかしてそのハンカチ……」
「あ、うん。額とか、汗がすごかったから」
予想通りか……。
僕の汗、しかも寝汗を拭いてくれていたようだった。鳴りを潜めようとしていた申し訳なさが、より大きな波となって押し寄せてくる。
「うっ、ごめん……。それ、洗って返すよ」
そろりそろりと、汗が染みこんだハンカチに手を伸ばす。指先がハンカチに触れようとしたとき、
「あれ?」
手に、なにか違和感を感じた。といっても、痺れとか痛みとか、そんな嫌な感じではない。というよりは、手になにかの感触が残っているみたいだった。
そこで、さっき彼女が言ったことを思い出した。
――なにも言ってなかったけど、手を、伸ばしてた。
……まさか。
いやいやそんな。
思い上がりも甚だしい予想が、頭の中に浮かび上がった。
聞きたくない……けど、もしそうなら、これ以上ないくらい恥ずかしい。
「ねぇ……さっき僕が手を伸ばしてたって言ってたけど、もしかして……手、握ってくれてたのか?」
僕の言葉に、今度は彼女がビクッと震えた。
「ご、ごめんっ。苦しそうだったから、その、えっと……はい……」
すごく申し訳なさそうに、光里はこくりと首を縦に振った。
「……そう、ですか……」
なんで君がそんな顔をするんだと思ったが、僕もいっぱいいっぱいで指摘する気になれなかった。丁寧語交じりの言葉に丁寧語だけの返答を返し、沈黙が流れる。
……。
……気まずい。
心の中に巣食うなんとも言えないモヤモヤを紛らわそうと、僕は再度、必死に話題を探した。別にそのあたりに落ちているわけでもないのに、視線を右に左に、上に下に。
するとそこで、いつもうるさい「あいつ」がいないことに気がついた。
「な、なぁ。そういえば、笹原はどこに行ったんだ?」
気恥ずかしさを覚えつつ、僕は光里のほうを見た。
「あ、えと、もう到着したことにするって、先生に報告しに広場に走っていったよ」
僕と同じで恥ずかしさを隠すためなのか、光里はあからさまな作り笑いをした。でもそれは妙に板についていて、整っているようにも見えた。
変な顔だな、と思ったけど、おかげで恥ずかしさは少しずつなくなっていった。
「そうなのか。さすが陸上部だな」
「うん。そだね」
芝生の上に並んで座っている僕たちの間を、強めの風が吹き抜けていく。寝ている間にかいた汗のせいか、それはさっきよりも冷たく感じた。
「ねぇ」
リュックからジャージを取り出していると、今度は光里が僕のほうを見てきた。
「生き返りのことなんだけど」
唐突に、彼女は例の話題を持ち出してきた。思わず手を止めて、彼女へと顔を向ける。
……え?
光里の顔からは、さっきの作り笑いが消えていた。代わりに、今度は明らかに儚さを含んだ、悲しそうな笑顔が浮かんでいた。
「実は期限があって……その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ」
彼女の表情にも驚いたけど、彼女が吐いたフレーズには言葉を失った。
いきなり、なにを言ってるんだ?
音にならない言葉が、頭の中で反響する。
十年?
それって、ちょうどあの事故が起こったときじゃないか。
今度は、音にしたくない言葉が、頭の中を駆け巡る。それは、「十年」という単語への反射のようなものだった。
あれから十年後の今は、僕にとって大きな節目の年だった。
僕が、姉と同じ年齢になる年だから。
あの言葉の意味が、わかるかもしれない年だから。
「だから、急いでね?」
急ぐ? なにを?
というよりも、なぜ?
どうして光里が、急ぐ必要があることを知っているんだ?
帰り道、僕は彼女とほとんど言葉をかわせなかった。
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