第5話 天之原光里


 生徒玄関に着くと、唐突にペシッと頭をはたかれた。


「おはよ、陽人! 相変わらず今日も目つき悪いな」


 快活な笑みを浮かべて、笹原が肩を組んでくる。なんでこいつは普通に挨拶ができないんだと思ったが、口には出さない。


「余計なお世話だよ。それより、なんかあったか?」


 いつも以上に目を輝かせている笹原を見て、なにかあるんだろうと思った。朝の気分転換も兼ねて、とりあえず聞いてみることにする。


「あれ? 珍しいじゃん。いつもなら、面倒くさがって先に行くのに」


 にやけ顔になった彼を見て、歩調を早める。気分転換の方法、間違ったな。


「……んじゃ、そうするかな」


「わー、待った待った! 昨日言ってたやつなんだけど、生物学者やら化学者やらが血眼になって原因究明してるらしいぜ。それで、それで……」


 やっぱり、間違ってたようだ。僕は緩めかけた歩調をさらに早くしようとした。


 バシッ。


 笹原のときより数段強めに、肩をたたかれた。驚いて振り向くと、今日一見たくない顔がそこにあった。


「おはよっ! たちばな陽人くん!」


「え……お、おはよ?」


 なぜか疑問形になってしまった。というより、なぜ彼女がここにいて挨拶をしてくるのか、意味がわからなかった。そもそも昨日名前を教えていないし、なんか雰囲気も違う。いったい、どうして……。


 そんな疑問点を生成している僕をそっちのけで追い越すと、彼女は「りんちゃーん! おはよー!」と友達と思しき女子に手を振りながら走っていった。嵐のように過ぎ去った元凶を見送っていると、今度は隣の笹原が叫び出した。


「え、えーー⁉ なに、おまえっ、天之原さんと知り合いなの⁉」


「あ、天之原さん?」


「そうだよっ! 天之原光里。隣のクラスで、男女問わず人気の!」


 興奮気味に笹原は身を乗り出す。肩に乗せられた腕と合わさって少し重い。


「知らねーよ。昨日少し話しただけだ」


「詳しく聞かせろー!」


 笹原の声が、朝の校舎に響き渡った。



 ***



 春にしては暑い日差しの中、ここ二時間目終了間近の校庭では、柔軟体操を行う生徒たちの掛け声に包まれていた。


 朝の天気予報で、昼ごろにかけて気温がぐんぐん上がるとか言っていたのが当たったみたいだった。夕立模様とか重要な情報は当たらないのに、こういうときだけしっかり現実になるのがなんとも憎らしい。

 憎らしいと言えば、今目の前にいるこの能天気男も、肌にまとわりつく今日の熱気や湿気のようにかなり鬱陶うっとおしい。


「だーかーらー、なにもないって言ってんだろ?」


 笹原の背中を、朝から質問攻めにされた鬱憤うっぷんを込めて強めに押す。ポキポキッという少し大きめの音とともに、彼は大げさに声をあげた。


「イテッ、痛いって! くぅ……つか、んなわけないだろ。やたら親しそうに挨拶されてたじゃねーか!」


「知らねーよ。それについては、むしろ僕も驚いてるよ」


 本当に面倒なことをしてくれたと、内心で舌打ちをする。


「さっきのマラソンのときなんかも、手なんか振られてさ」


「……」


「おまけにゴールした後には、お疲れさま! キャ~! なんて言われてさ」


「……いや、キャ~! は言われてないだろ」


「うるせー! くそぉ~羨ましすぎるんだよー!」


 長座体前屈の姿勢で、笹原は器用に恨み言をあげる。

 実際、彼が言ったようなことは確かに言われたが、それで嬉しいという気持ちは微塵もない。昨日の出来事もさることながら、なにより他の男子からの視線が痛すぎる。


 どうすればいいものか、なんて考えていると、ピィーッ、と笛の音が鳴り響いた。それに続いて、「今度は足を開いてひだり~」という体育教師ののんびりした声が前から飛んでくる。

 指示通りになんとなく力を入れながら、質問攻めの合間に聞いた天之原光里の話を思い出す。


 天之原光里は、去年の冬ごろに転校してきたらしい。持ち前の明るさと人懐っこさでたちまちクラスの人気者になり、しかも成績は総合模試、定期考査ともに学年上位の文句無し。整った容姿も加えて、告白された回数は数知れず。ちなみに、いまだ撃沈回数も更新中とのことだった。

 言わば、天真爛漫、八面玲瓏はちめんれいろう、成績優秀、容姿端麗という社会の人気者だ。


 なんでそんな僕と正反対の人が関わってきたのだろう、と純粋に思った。笹原から彼女について話を聞いたときの最初の感想はまさにそれだった。二物ならぬ三物以上を天から与えられたような人が、異端の目を向けられる僕と関わることでどんなメリットがあるのか、不思議でならなかった。憐憫や同情のつもりならこっちから願い下げだが、昨日の彼女の様子を見る限りそんな感じは全くなかった。


 わからねー。


 笹原の体勢を元に戻し、今度は右へと倒していく。また、ポキッ、という音がした。


「痛いっ! 陽人、そんなにおまえは俺に恨みがあるのか?」


 若干涙目になった笹原が、顔をこちらに向ける。


「いや、おまえの体が硬すぎるんだよ。なんで陸上部なのにこんなに硬いんだよ」


「柔軟サボってるから」


「……僕ちょっと体育の先生に用事あるから、先に教室戻っててくれ」


「いやいや、うそうそ! 冗談! ジョークハーモニー!」


「なんだよ、それ」


 わけのわからないやり取りとしていると、柔軟体操終了の笛が鳴った。「今日の体育は終わり! 各自水分補給をして教室に戻るように!」と叫ぶ体育教師兼陸上部顧問の古中先生の言葉を半分聞き流しながら、僕は生徒玄関へと向かう。


「おい。話は戻すが――」


 追いすがってくる笹原の声に仕方なく振り向こうとしたとき、ペシッと肩をたたかれた。多分、朝と全く同じ強さ、同じ場所に。


「ねっ、橘くん。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」


 噂をすればなんとやら、朗らかな笑みを浮かべた天之原光里が立っていた。


「え? なんで……」


「なに言ってるの? 体育は合同でしょ」


 マラソンで会ったし声もかけたでしょ、と彼女は苦笑する。そこには、昨日のような妙なオーラはない。ごく普通の、いや普通以上に洗練された年相応の女の子の笑顔があった。


「いやそうじゃなくて……」


 僕が言いたいのは、なんでそんな馴れ馴れしく声をかけてきたのかってことで……。

 そこまで考えて、さっき言われた言葉の意味が急に追いついてきた。


「ってか、放課後? なんで?」


 最初の疑問が氷解しきらないうちに、考えても答えが出なさそうな疑問が新たに浮上する。


「んー、内容はその時まで秘密ってことで!」


 ひときわ明るい声でそう言うと、「じゃあ、放課後正門でね!」と彼女は手を振って去って行った。嫌な予感とともにさっきの数倍の視線を背中に感じ、来たる嵐に備えようと思った。


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