第2話 地上に舞い降りた天使(1)


 退屈なホームルームと始業式、笹原が結局怒られた宿題提出を済ませ、僕は帰路についていた。

 新学期初日は授業がなく、スポーツマンな笹原と違って僕は部活に入っていないので、下校時間は昼前とかなり早い。まだ高い日差しに目を細めながら、なだらかな坂を下っていく。


 僕の家から学校までは、徒歩、電車、徒歩で計一時間半ほど。学校のある地区はそこそこ都会で栄えているが、電車で四十分ほど離れた僕の家がある地区はまあまあな田舎だ。

 家から駅までは、閑散とした住宅街と、ちょっとした田んぼ道を抜けて坂道を上ること約三十分。今は下り坂で楽だが、朝の眠い時間に坂を上るのは地味にきつい。坂の脇にある茂みからたまに伸びている蜘蛛の糸が絡まった時なんかは、特にイライラする。


「にしても、今日は暑いな」


 額に浮き出た汗を拭う。まだ四月だというのに、道沿いの気温計が示す数値は二十五度。まるで梅雨を飛び越して夏にでもなったかのようだった。


「生き返った女優……か」


 朝、笹原が言っていたニュース。あの時は正直うそくさいと思っていたが、放課後の教室でも、駅前の小さな街頭テレビでも、すれ違うおばさんたちの井戸端会議でも、とにかくその話題でもちきりだった。試しにネットニュースを見てみたが、注目の国内ニュース欄の上位十個中八個がその記事で、『女優一ノ瀬優子は死んでいなかった⁉』という現実的なものから、『一ノ瀬蘇生! 天使が地上に舞い降りた』などというオカルトチックなものまで様々だった。


「まぁでも、ありえねーよな」


 人が生き返るなんてファンタジー小説やゲームの世界だけの話だ。そんなほいほい人が生き返ってたらこの世は人だらけになるし、そもそも命の重みが無くなってしまう。人はいつか必ず死ぬからこそ、生きていることに責任が出てくる。死んだら絶対に生き返らないからこそ、死ぬことに意味が出てくるのだ。


「そうだよ……人が生き返るなんてことがあってたまるか」


 もうこの話は忘れよう。そう思った時だった。




「本当に、そうかな?」




 背後から、突然声が聞こえた。びっくりして振り返ると、そこには同じ高校の制服を着た少女が、小さく微笑みながら立っていた。


「え、誰だよ?」


 驚きと戸惑いで、思わず強い口調になる。しかし、彼女はそんなことお構いなしといったふうに、ふふっ、と短く笑った。



「地上に舞い降りた天使」



 流れるような足取りで、スッと僕の横を通り過ぎる。小さく刻んだステップにつられて、彼女の長く艶やかな黒髪が後ろになびいた。


「は?」


 地上に舞い降りた、天使? なに言ってんだこいつ?

 僕は訳が分からず、ほぼ無意識に彼女の動きを目で追う。もちろん、その背中のどこかに羽が生えていたり、頭の上に輪っかが浮かんでいたりといったことはない。


「それ。さっき、君が見ていた記事」


 彼女が振り返って、僕の右手にあるスマホを指差す。その拍子に、同学年の証である緑色のクラスバッチが、太陽の光を受けて彼女の胸元でキラリと光った。


「あ、これ……生き返った女優の、記事……」


「そ。その女優さんを生き返らせたの、私なんだ」


 少し前かがみになって、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。彼女の黒く澄んだ瞳が、僕を射抜く。


 しばらく、僕は身動きができなかった。


 驚いた。


 彼女の言葉に、確かに僕は驚いていた。


 いつもの僕なら、すぐに「うそだ。でたらめだ」と言い放っていただろう。でも、今の僕はそれができないでいた。彼女の目に捕らえられたみたいに身じろぎひとつできず、僕は立ち尽くしていた。ただ目が離せない。そんな独特のオーラみたいなものを、彼女は放っていた。


「ん? どうしたの?」


 急に固まった僕を見て、彼女が不思議そうに聞いてくる。その言葉で、僕はハッと我に返った。


「い、いや……どうしたの、じゃなくて。普通、そんなこと言われたら誰だって驚くだろ」


 取り繕うように僕は言った。すると、彼女は合点がいったというふうに、ポンッ、と手をたたいた。


「あー、それもそっか。ごめんね、驚かせちゃって」


「別に……」


 心を落ち着かせるように、僕はスマホをカバンにしまった。

 完全に彼女のペースに乗せられている。どことなくしゃくだったので、先ほど言い返せなかった言葉を僕は口にする。


「というか、一度死んだ人を生き返らせられるわけないだろ。うそ言うな」


「んー。うそじゃないんだけどな」


 どうしたものか、と彼女は考えるように空を見上げる。かと思えば、「あっ」と声をあげて辺りを見渡し始めた。


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