第1章 蘇り

第1話 やけどの痕と、生と死と


 春。

 寒い冬が終わり、動物も植物も活動を始める、生命の息吹が感じられる季節。


 ポカポカの陽気に、木の葉の隙間から漏れる柔らかな日差し。


 どこまでも続く青空を駆けるのは、運動部の朝練の掛け声。


 普通の生徒なら気分良く登校し、久しぶりに会う友達との話に花を咲かせるのだろうが、僕はとてもそんな気にはなれなかった。


 二週間前とは違う下駄箱に靴を入れ、見慣れた階段を一階分少なく上り、使い古された教室のドアを開ける。

 ふと、ドアの近くにいた男子二人と目が合った。


「おは……」


 彼らはそこまで言いかけて、固まった。爽やかな笑顔が、まるでヤバいやつに絡まれたような苦笑いに変わっていく。そして、挨拶らしき言葉を最後まで発することなく、さっと目を背けると何事もなかったかのように談笑を再開した。


 やれやれ、またか。


 僕は見慣れた反応に言葉を返すことなく、二人を無視してこれまでとは違う新しい席に向かう。ここに来るまでにその顔は何度も向けられたし、なんなら一年中あちこちで向けられているので、今さらどうということはない。

 そして、原因もわかっている。


「ねぇ、あの顔の大きなやけどの痕」


「うん。噂のやつだよね」


「え、ちょっと待って。想像してたよりもヤバいんだけど」


 教室の後ろの方でたむろっていた女子のグループから、ひそひそと会話が漏れ聞こえてくる。他にも、何人かがやたらと僕の方を見てはなにやらささやいている。


「なに?」


 さすがに鬱陶しかったので、少し怒気を込めて声の方を睨んだ。


「いや、別に……」


「なんでも……」


 ばつが悪そうに、彼ら彼女らは自分たちの会話に戻っていく。


 はぁ、めんどくせ。


 カバンを机の横に置き、椅子を引いて席に座る。今に始まったことじゃないが、やっぱりこのやり取りは疲れる。不良か、それこそ本当にヤバいやつにでもなれば疲れなくなるのだろうか。


 僕はそんなことを考えながら、そっと右頬に触れる。

 乾燥した皮膚の感触。

 そのまま輪郭に沿って下になぞっていくと、指先にこれまでとは違う、硬めのなにかがあった。硬め、といっても前に比べれば随分柔らかくなっており、普通の皮膚と大差はない。

 多分この感触には、僕の中にある、過去に散々触れて知った感触の記憶も含まれている。


 僕はふっと息を吐くと、スマホのカメラアプリを起動させ、インカメラに切り替える。右頬に刻まれた大きなやけどの痕が、無造作な髪や目つきの悪い表情とともに画面に映し出された。しかもそれは一つだけではなく、小さな傷痕とも合わさって顔をふざけたアートのようにしている。

 かつての友人や祖母からは治せと何度も言われたが、そんな気は毛頭ない。むしろこれがあるからこそ、僕はまだ生きていられるのだ。


 カメラアプリを閉じ、カバンにしまおうとしたところで、後頭部を教科書かなにかでペシリと叩かれた。


「おーっす、陽人はると。久しぶり~! 元気してた?」


 能天気な声が頭上を越える。声の主はそのまま机の前まで来ると、空いている前の席に後ろ向きで座った。短く切り揃えられた髪に、少し垂れた黒目が印象的な好青年だが、僕にとっては少しうっとおしい存在だった。


笹原ささはらか。高二になっても話しかけてくるんだな」


「え、なにそれ。友達じゃねーかよ、俺たち」


 ちょうど向き合う形になったその顔が、ニカッとほころぶ。人懐っこい、思わず心を開いてしまいそうな笑顔だ。


「僕の顔を見てもそんなことを言うのはおまえくらいだよ」


「やけどの痕がなんだってんだ、関係ねーよ。それより、そろそろ俺のこと名前で呼んでくれよ。名字呼びって、なんか距離感じね?」


 なんならあだ名でもいいぜ~、と笹原幹也ささはらみきやは両手を大げさに広げる。その様子に呆れつつ、僕は「やだよ」とだけ返しておいた。




 ***




「あ、そういえばさ、今朝のネットニュース見たか?」


 ホームルーム前のざわつきの中、笹原は思い出したように制服の胸ポケットからスマホを取り出した。慣れた手つきで画面をフリックさせ、アプリを起動させる。


「見てない。ニュース、興味ないから」


「いやいや、俺も興味ないけど今朝の記事はさすがにヤバかっただろ」


 笹原は驚き半分呆れ半分といった様子で僕に目を向けた。見てないものは仕方ないだろと思いつつ、なぜか少し腹が立った。なにか言い返そうと思ったその時、タイミングよく笹原のスマホが振動した。


「おっ、新着情報だ。しかも、ちょうど今話そうとしてたやつの」


 興奮した様子で、彼はお目当ての記事をタップする。拡大されて出てきた見出しに、僕は一瞬、自分の心臓が大きく跳ねたのを感じた。



『神の悪戯⁉ 元女優、一ノ瀬優子生き返る!』



 ゴシック体の機械質な文字に、朗らかに笑う若き日の女優の写真。その下には、一世を風靡ふうびした大女優の悲劇的な病死の過去や、当時のニュース動画のURL、そして現在、が大きく掲載されていた。


「なにこれ? フェイクニュース?」


 僕は既に落ち着いた心臓の辺りを押さえつつ聞いた。笹原はそんな僕の様子を特に気に留めることなく、チッチッチッと人差し指を立てる。


「まさかまさか。れっきとした正真正銘のニュースだよ。しかも、さっきの更新で本人へのインタビュー動画が載ってるぞ」


 興奮した面持ちで、彼は一番下にある動画サイトのURLをタップする。すると間もなく、さっき見た初老の女性とインタビュアーが画面の中で滑らかに話し始めた。



『自分でも信じられないんです。目が覚めたら家にいて、家族も喜ぶというより驚愕していました』


『でもあなたは十年ほど前、確か心臓の病気で亡くなられましたよね?』


『ええ、たぶん。でも、私はその時のことをよく覚えていないのです。目覚める前、最後に見たのは確か……天使のような少女だったような……』


『え、まさか、それは……』


『気のせいだと思うんですけどね。私にもなにがなんだか――』



 嬉しさと戸惑いを均等に混ぜ合わせたような表情が、スマホの中で揺れていた。その後も、女性はインタビュアーから質問攻めにされていたが、本人もわかっていないというのが結論のようだった。


「すげーよな! これが本当で原因がわかったら、もう人死なないんじゃね?」


 上擦った声でそう叫びながら、笹原は動画を巻き戻しては繰り返し見ている。


「そんなわけないだろ。人間、というか生き物が死んで生き返るはずがない」


 僕は既に半分ほど興味を失っていたので、返事もそこそこにカバンから春休みに出ていた宿題を取り出す。出ていたのは確か数学と英語だったはず、と宿題用ノートをパラパラとめくった。肝心のページを見つけたところで、笹原がスッとノートを取り上げた。


「夢のないやつだな~。現にこうして人が生き返ってインタビューされてるんだぞ?」


「いや、そもそもその人が本当に死んでいたかわかんないだろ」


「んなこと言ったって、陽人だってあの時のこのニュースは見ただろ?」


 彼はそう言うと、ずいっとスマホの画面を眼前に近づけてきた。そこには当時のニュース番組の映像が流れており、気象情報や夜間山道の交通事故の見出しの後に、『女優、一ノ瀬優子死去。その壮絶な闘病生活には……』の文字があった。



「……いや、初めて見たな」



 画面から逃げるように、窓の外へと視線を逸らす。



「え、うそだろ? どんだけテレビ見ないんだよ」


 信じられねーといった顔つきで、笹原は大仰にのけぞった。


「いいだろ、別に。そんなことより、それ、やったのかよ?」


 澄み渡る青空から視線を戻し、僕は笹原に取り上げられた宿題用ノートを指差す。と同時に、予鈴のチャイムが教室内に響き渡った。

 しばらく呆然とした視線をノートに送っていた笹原だったが、「やっべーー! これ貸して!」と僕の返事を待つ間もなく走り去っていった。その後ろ姿を見送りつつ、滅多に動くことのない心の中が、微かにさざ波立っていくのを僕は感じていた。

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