最終話 ほんの少しのお別れ

 私はバーで飲んでいた。

 殺人事件があったあのバーである。事件も解決し、営業が再開された。相変わらず客の少ないバーだった。それゆえとても静かだった。


 あれから数日が経っていた。

 夫人は自首を選んだ。罪を認め、出頭した。自殺は選ばなかった。


 私はライウイスキーを三つと、レモンを一切れ頼んだ。どうして三つも必要なのかと、バーテンダーは訝しんでいた。

 ライウイスキーが届くと、私はレモンを手に取り、丁寧に垂らしていった。


 これは二人の思い出の酒。夢と愛と哀しみの酒。


 私にできるのは、こうして二人を想い、酒を注いでやることだけだった。せめてもの気持ちだった。


 シガーレットケースを取り出そうとしたが、夫人がタバコ嫌いなのを思い出した。私はポケットから手を引き抜いた。ここは彼女に従うことにしよう。

 私はグラスを手に取ると、二つのグラスに優しく当てた。気持ちの良い音が鳴った。二人も喜んでいるような気がした。


 一口飲むと、満足げに息をついた。


 私は考えた。出頭したとき、夫人はどんな顔をしていたのだろうか? 晴れた顔をしていたのか、哀しみに包まれた顔をしていたのか、感情の読み取れない顔をしていたのか。

 そしてあの家はどうなり、思い出はどこに行き、夫人はこれからどうしていくのだろう。

 だがそこからは、探偵の出る幕ではない。


 私はポケットからハンカチを取り出すと、それを開いた。


 中にはダイヤの指輪があった。この美しき指輪だけは、私のもとにあった。今も輝いている。

 もう必要がないからとくれたこの指輪。

 だが、この指輪は夫人に返そう。外の世界に出てきた時に、渡してやろう。


 私が受け取るにはなにもかも早すぎる。


 そのあと、彼女がこの指輪をどうするか決めればいい。捨てるか金に変えるか、それとももう一度身につけるのか──


 答えを急ぐ必要はどこにもないのだ。たっぷりと時間はある。探偵(いぬ)にダイヤは似合わない。だからせめて、大切に保管しておこう。

 そうして時々、この指輪を見ながら二人を想い、ライウイスキーを飲もう。もちろん、ちゃんとレモンを搾って。

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ほんの少しのお別れ タマ木ハマキ @ACmomoyama

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