第15話 託された贈り物

 夫人は立ち上がると、カウンターテーブルの方に向かった。ゆっくりとした動作だった。旦那との生活の今までを、考えているのかも知れない。考えてしまうのかも知れない。

 カウンターテーブルの中に入ると、夫人は酒を作り出した。コトコトと酒が注がれていく音が聞こえた。やはり、レモンが落ちる音は聞こえなかった。だが耳をすませていると、かすかにっと何かが落ちる音が聞こえた。


 夫人はグラスを持ち、カウンターテーブルから出てくると、歩きながら言った。

「犯人を特定した探偵さんは、私をどうするの? 警察に?」

 私は夫人がソファに座るのを待ち、そうして言った。「私は探偵だが、警察ではありません。警察に教えてやる道理はない。どうするかは、あなたが決めればいい」

「決める、ですか──」夫人は悲しみをおびた笑みを浮かべ、呟いた。自分に投げかけているようだった。


 それから大きな沈黙があった。とても大きな沈黙だった。

 鳥のさえずりが聞こえ、夫人と私の息遣いが聞こえ、酒で頬が熱を持っていることに気づき、影の位置が来た時よりも少し変わっているのにも気づいた。それらに気づくだけの大きな沈黙だった。


 すると夫人は言った。「私、次第──そうですよね。私次第ですよね」やはり自分に投げかけているようだった。

 夫人はグラスを両手で掴むと、一気に酒をあおろうとした。なにかを決心したように。


 私は飛び跳ねるように立ち上がると、夫人が持っているグラスをはたき落とした。

 グラスは床に落ち、けたたましい音と共に割れた。床にこぼれたライウイスキーが、だんだんと広がっていった。


 夫人はびっくりする様子もなく、下を向いた。私は言った。


「これからどうするかは、あなた次第です。だが私の目の前で自殺するのはやめてもらいたい。さっき音が聞こえた。ぽちゃっと。あれはクスリを落とした音だ」


 夫人は顔を上げたが、床に落ちているグラスも私も見ようとせず、空虚を見つめた。

 そこにはなにが映っているだろうか。


 私は残っているライウイスキーを飲み干すと、息をつき、グラスをテーブルに置いた。


「では、私はこれで失礼します」

 立ち上がるときに落とした帽子を拾い上げ被ると、私は扉に向かった。

 数歩進み、扉を開けようとしたところで、夫人は言った。

「探偵さん。ちょっとお待ちになって」


 私は後ろを振り返った。夫人は薬指につけている指輪を外そうとしていた。


「今回の一件で、あなたはなにも得ていません。だからこれを」夫人は指輪を抜き取ると言った。

「いいんですか──?」

 夫人は静かに頷いた。「私にはもう、必要のないものですから」


 なにか言おうと思ったが、上手い言葉は見つからなかった。そもそも、私が彼女にかけてやれる言葉などなにもないのだ。


 少し考え、私は言った。「では、ありがたく」


 夫人は微笑み頷くと、指輪を差し出した。私は近づき、それを受け取った。旦那のものとは違い、綺麗に手入れされ、錆もなかった。

 その存在を確かめるように指輪をきつく握り閉めると、私はもう一度、これで失礼しますと言い歩き出した。


 扉を開けると、その場で少し立ち止まった。今度は呼び止められなかった。呼び止められるのを期待していたわけでもないのに、どうして足を止めたのか自分でも解らなかった。

 私は部屋を出ると、後ろ手に扉を閉めた。少しのあいだ、その体勢でいた。廊下はしんと静まり返っていた。そして廊下を歩き出した。


 扉を開け、外に出た。陽の光に目を細める。相変わらず空は蒼天で白いものはなく、相変わらず向かい側の家の庭では、子供たちが遊んでいた。まだまだ元気な様子だった。今はボール遊びをしている。先刻と違うのは、それくらいだった。


 私は握り閉めている拳を開き、指輪を見た。夫人の薬指についていた時より、輝きが失われている気がした。質屋に入れた時の代金は変わりやしないのだろうが。

 ハンカチを取り出し、指輪を包むと、ポケットに入れ歩き出した。そしてシガーレットケースを取り出した。蓋には、『LongGoodbye』と刻まれていた。

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