第4話 和解
あの日、冬休みに十真に相談を持ちかけてから、雄和の心は随分と軽くなった。
冬休み中は特に進展はなく、冬休み明けも直ぐに状況は変わらなかったが、大人の味方が出来たことはとてもありがたい話だと感じた。更には『中尾くんに返しな』と双葉に捨てられた漫画も買ってくれて、これでようやく心残りをひとつ減らせると思うと、ほんの少しだけ安心した。
始業式の日。霜がおりているせいで、道を歩くとザクザクと音がする。登校班の人と特に話すことも無く、白い吐息を漂わせ教室に向かった。
久しぶりに見かけるクラスメイトは、特に雄和に話しかけることは無い。その事実に少し胸が痛むが、極力気にせずそのまま中尾を探すことにした。もちろん漫画を返すためである。
八時過ぎの現在、まだ中尾の姿は見受けられないが、自分の席で読書をしながら待つこと数分。教室に入ってきた中尾を見つけて、慌てて呼び止める。
「……なんだよ」
明らかに低い声が雄和に向けられて、思わず怯んだ。それでも退くことはせず、ランドセルから取り出した漫画を手渡す。
「……なかなか返せなくて、ごめん」
僅かに震えた手で差し出した袋を怪訝そうに受け取った中尾は、袋の中身を確認したあとぽつりと呟いた。
「今更かよ」
「……ごめん」
やはりこの程度で許される訳ではないらしい。未だに罪悪感が雄和の胸の内に残っているが、ひとつ大きな気がかりを解消できたと考えることにした。今更と思われようが構わない。本来ならば、今でも漫画を返すことは出来なかったのだから。
学校での変化はそのくらいで、家では両親に何かを言われることは一切ない。それが逆に不気味だった。
両親はもうすぐ海外に仕事に行かなければならないため、そういったことに時間を割いている暇がないということだろうか。聞いてみることも怖くてなにもしない。何も起こらないことが恐怖と感じるとは思わなかった。
雄和が孤独な学校生活を送る中、十真は何度も学校と話し合いをしてくれていたようだった。定期的な連絡で、十真がどんな風に学校とやり取りをしているかは知っていた。雄和の話を信じてほしいと訴え、汚名をすすごうと必死になってくれていた。
『時間がかかってごめんな』――電話越しに十真はそう言っていたが、雄和としては、時間がかかることなんてあまり気にしていなかった。十真が自分の味方であってくれることが、本当に嬉しかったのだ。
それから日数が経過した一月下旬。昼休みに担任に呼ばれた雄和は、緊張した面持ちで職員室に向かう。教師たちの会話を聞き流しながら担任の元に向かうと、なにやら書類に向かっていた年配の担任がこちらを向いた。
「あぁ、市河、悪いね休み時間に」
「大丈夫。……あの、話って、なんですか」
下手くそな敬語で話しながら目線を泳がせていると、書類を置いた担任が困ったように眉を下げて、話を切り出す。内容は、十真が何度も学校に伝えているという中尾との問題だ。
担任曰く、彼は雄和の母が非常に厳しいこと、本を返したくても返せない状態であることなどを信じていなかったといい、それを謝罪したいという話だった。
「事情も理解せず、君が嘘をついてると思ってしまって……ごめんね。先生が悪かったよ」
苦々しい顔つきで少し頭を下げた担任に少し驚き、動揺した。十真のおかげでかつての自分の主張を信じてくれたのは有難いが、こうして謝られると胸のあたりがしくしくと痛み、複雑な気持ちになる。
――先生、僕が何言っても全く信じてくれなかったのに……。僕が無視されてるのもなにも言ってくれなかったのに……。
この結果は、十真が訴えたからなのか、それとも、自分がもっと必死に言わなかったからなのか。いや、十真がどれだけ必死に担任などと話し合いをしたかはよく理解している。それなのに、口にしづらい悔しさがある。
それに、雄和は、信じてくれなかった担任をそう簡単に許したくない。担任が全て悪いなんて極端な思考は持っていないが、先生が味方してくれなかったから――とたらればを言いたくなる気持ちがあるからだ。そんな相手でも、ごめんねなんて言われたら『いいよ』と言うしかなくなってしまう。そんなやり取りは自分の心に
だが、ここで拒否をするほど馬鹿ではないつもりだ。
「……いいよ、僕、気にしてないから」
「……市河、ごめんな」
ぎこちない笑みを浮かべてそう返すと、担任は心底安堵したように口元を緩めた。
それから、クラスメイトにも雄和に関する話がされた。具体的には、もう雄和を仲間外れにするのはやめよう――そういった話だ。席につく雄和本人は、居心地悪く感じながらクラスメイトの様子を横目で見る。反応はバラバラで、真剣に聞いている子もいれば、罪悪感を抱いたのか悲痛な面持ちの子もいる。しかし中にはどうでもいい様子で全く話を聞いてない子もいた。
ちらりと、斜め後ろの方にいる中尾に目を向けた。彼はどこか不機嫌そうに座っているだけだった。
その後、担任に呼び出された雄和は、中尾からの謝罪を受けた。とはいえ、明らかに機嫌が悪そうな中尾に謝罪の気持ちなんてこれっぽっちもないのだろう。そんな相手から無理に謝罪してもらわなくてもいいのに、とりあえず儀式のようにこういったことをして『解決』としたいのだろうか。
「……いじわる、して、ごめん」
「………………別にいいよ。僕の方こそ、ごめん」
――僕のこれって、何に対する『ごめん』なんだろ。
つられて口にした結果、謎の謝罪になってしまったが担任は満足げだ。教室に戻る時も、中尾は随分と悪態をついていたが、一旦解決したのだからよしとしようと考えた。
次の日からは、少しだけ教室の状況が変わった。まず、登校して真っ先に女子数人が駆け寄ってきて、今まで無視してきたことを謝ってきた。それまでも言うほど交流がなかった相手だが、罪悪感はずっとあったのだろう。雄和は、穏やかな気持ちでいいよと言えた。
他にも、謝ってくる男子、謝罪はなくても普通に遊びに誘ってくる男子、そういったものが数日、数週間掛けてじわじわと増えていった。
二月頭、このことを十真に報告する為に電話をした際、彼はかなり安堵したようだった。時間がかかってしまったことを詫びられたが、雄和にとっては特筆して気にする点でもなかった。十真が信じてくれたから、動いてくれたからこそ、こうして解決に向かったのだ。いくら感謝してもしきれない。泣きそうになりながら伝える。十真は落ち着いた声で言葉を返すものだから、ふとした拍子に涙腺が緩みそうになる。
「ありがとう、おじさん……」
『雄和くんのためになったならよかったよ』
大したことはしていないとそういうスタンスで穏やかに話す十真の声に、必死に感泣くのを我慢しながら謝の意を伝えた。
それから、比較的平和な学校生活を過ごし三年生になり、雄和が無視をされていたことは過去の出来事になった。人によってはすっかり忘れていた事件だが、雄和はこんな事件が二度と起こらないように細心の注意をはらっていた。当然友人から軽率に漫画やゲームを借りることは一切なくなった。
学年が変わるとクラスが分かれ、中尾や浜野と話す機会は激減し、たまに会っても話すことはなかった。
それから数年後。小学校を卒業し、私立の中学に進学した雄和は、勉強にも部活にも尽力し大会でも上位の記録を残せるほどの成果を出すほどになっていた。
相変わらず双葉は厳しいが、なんとか折り合いをつけて過ごしていた。
そんな中学一年の九月のある日の夕方。部活帰りにスーパーに寄って、用事を済ませ店を出たその時、聞きなれぬ声に呼び止められる。
「……市河?」
「え? あ、中尾?」
「そ、そう。久しぶり、俺の事、覚えてる?」
「そりゃ、まあ……」
振り向いた先に居たのは中尾だった。小二以降クラスも重なることはほぼ無く、ほとんど交流もなかった。そのためか、自分の記憶と随分異なり、一瞬誰か分からずたじろいだ。地元の公立中学の制服を身に纏う彼は、幾許か背が伸び体格も良くなったように思う。――実際には、雄和の方が随分と背が高いのだが。
硬い表情で声をかけた中尾は、雄和を見上げたあと呆然と呟く。
「相変わらず、でっけぇな……」
「うん、まぁ、うち家族みんなでかいし……」
「へ、へぇ……何センチあんの?」
「確か、今は……170ちょいくらいかな」
「すげぇ……」
中尾の問にぎこちないならがらも答えると、相手もまた硬い表情で感想を口にする。
そこから暫く息苦しい沈黙が二人の間を支配する。ただ仲が良くなかった訳では無い相手との突然の邂逅は、非常に居心地が悪い。盛り上がれる話題もなく、かといって立ち去るにも後味が悪い。しかしいつまでも突っ立っている訳にもいかない。駐車場の片隅と言った一応広い場所ではあるが、いつ通行の邪魔になるかもしれない。さっさと切り上げて帰宅しようと考えて、一歩足を動かしたその時。
「あ、市河、待って! 俺、あんたに聞きたいことがあるんだ」
「え、なに、ちょっとまって」
突然の中尾の声に足を止めた。ちらりと周りを見回すと、近くを通った主婦がちらりとこちらを見たが、それ以外特に人はいない。邪魔にならない事や周囲に人が居ないことを確認して改めて向き直る。
不安げに立つ中尾が、逡巡した後、おもむろに口を開く。
「あー、あのさ、市河。えーと、小学校の、二年くらいのときのこと、覚えてるよな」
「うん、そりゃ、まぁ。覚えてるよ」
忘れるわけもないあの時の出来事に触れられ、反射的に目をそらす。中尾は聞きたいことがあると言ったが、今更何を聞くつもりなのだろう。分からないが、やたら緊張しながら相手の言葉を待つ。
暑いな、と額の汗を拭きながら待っていると、ようやく中尾が口を開く。
「あのさ、俺、あの時、先生から話をされても結局信じてなかったんだよな。あんたが、おかしなこと言ってるって、ずっと思ってたんだよな」
「……うん、まぁ、仕方ないやろ」
「でも、最近、あんたの友達からあんたのこと聞いてさ。そいつと話してたら、つい、小二の時のこと話しちゃったんだよな」
中尾は、どうやら雄和のクラスメイトと同じ塾らしい。そこで仲良くなり、共通の知り合いとして雄和の話をしたらしい。その際に小二の時の例の事件を話した。『市河はおかしなやつだ』と少し悪態をついたら、そのクラスメイトがそれを否定したという。
『市河の家はお母さんが凄く厳しいらしいから、それは別に嘘じゃないかもしれないよ』――そんな話を聞いて、考え直したという。
別にすぐに考え直した訳では無いが、当時の事や担任が言っていたことを思い出し、自分も悪かったのかと考えるようになったという。
「つい最近突然思い出しただけなのに、小学校の時は全然なんも思わなかったのに、えーと、なんか、調子いいけどさ、教えてくれないかな。……やっぱり、あれ、市河が言ってたことは全部本当なのか?」
目を泳がせながら、口にした言葉に、雄和は目を丸くする。まさか、てっきり忘れられていると思っていた五年程前の出来事を思い出し、自分の行動を省みるなんて。そして、偶然会ったからとはいえその話題に言及するなんて。どれほど勇気が必要だったろう。思わずその行動を賞賛したくなる。
だが、今はそれには触れず、中尾の質問を肯定した。
「……うん、オレは、嘘ついてないよ。母さんに勝手に捨てられたのも、新しいのを買うことができなかったのも本当の話」
「じゃ、じゃあ、なんで冬休み明けに返してくれたんだ?」
「あれは、事情を知った叔父さんが買ってくれた。親にバレないようにオレも必死だった」
「…………そう、なんだ」
掠れた声でそう言った中尾は、狼狽した様子で目を伏せる。そこからまた沈黙が訪れて、雄和は水筒の水を一口飲んだ。額に滲んだ汗が鬱陶しくてそれを拭う。
直後、中尾が短く雄和の名前を口にし、潔く頭を下げた。
「ごめん! ほんっとごめん!」
「えっ、なに、なんなん、中尾どしたん」
「いや、だって俺があんたの話を信じなかったせいで、市河クラスで浮くことになったじゃん。あれ、思えば結構酷いことしたって言うか、今更だけど申し訳なかったなって、思って……」
「中尾、とりあえず頭あげて。周りがなんかチラチラ見とんの気になるから」
周りを見れば、遠方からではあるがこちらの様子を伺う人達がちらほらいる。中にはこちらを指さす子供もおり、少しいたたまれない。このいたたまれなさから逃れるためにもせめて頭をあげてほしい。そう訴えると納得した中尾は姿勢を正し、再びごめんと口にした。それは、五年前のあの言わされたような謝罪とは違う本当の謝罪だった。
これは、雄和もすんなりと受け入れることができた。
「……いいよ。もうええよ。あんな話、信じてもらえやんのも仕方なかったし、それに、今信じてくれたみたいで、よかった」
「いや、でも今更すぎるってか……」
「それはそやけど、こんな何年も前のこと思い出して謝るなんて、なかなかやれることじゃない。凄いよ。……だからもう、それで充分やな」
「でも、ほんと悪かった」
「いやいや、オレだって、漫画借りなかったらこんなことになってなかったんだろし……ごめんな」
「あんたが謝る必要はねぇだろ」
重苦しいような雰囲気から、だんだんと落ち着いた空気に変わっていく。軽口を叩き合うように話す雄和の心はかなり晴れ晴れとした気持ちになっていた。今更なんて些細なことだ。こうして自分の非を認めてくれたことで今ようやく真の意味で解決し、和解できた気がする。
そんな雄和に対し、中尾は少し動揺しながら別れを切り出す。
「あー、えっと、じゃあな、市河。あんまりもう会うことないかもしれないけどさ、また、機会あったら遊ぼうな。浜野とか、あんたの友達も誘ってうちでゲームでもしようぜ。あんたの母ちゃんにバレないようにな」
「せやな、また、やろうな」
その言葉は雄和にとっては、例えお世辞でも非常に嬉しいものであった。帰宅してからメールで十真に報告すると、彼も中尾の行動に驚き、真の和解を喜んでくれた。
そしてその数週間後、中尾の認識が改まるきっかけとなった共通の友人を介し、ゲームをするというあの言葉が実現した。浜野とも久々に会話をし、およそ数時間ゲームを楽しんだ。雄和と中尾や浜野の接し方はぎこちないところもあるが、時間をかけて、普通の友人のようになりつつあるのだ。
それは、とても、幸せなことだと感じた。
(完)
トカゲのしっぽ 不知火白夜 @bykyks25
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