最終章 ルヴァルフェンサ

一 魔術の実験



 このところ悪夢続きで、よく眠れていない気がする。


 エテンはまだ日が昇り始めたばかりらしい外の色を眺め、窓を開けようかどうか迷ってやめておいた。今日は曇りらしく、上層にある師匠の部屋は夜が明けて青から白に変わりつつある雲の中だ。手を突っ込んでみたい気がしたが、ここは書斎だ。窓なんて開ければあっという間に奥までに雲が入り込んで、部屋中の書物を湿気でだめにするだろう。


 まだ少し熱を持っている瞼を指で触る。昨日眠る前に、濡らしたタオルで冷やすくらいすれば良かった。しかし今更どうしようもないので、エテンはそろそろと音を立てないように居間へ続く扉を開け、暖炉で紅茶でも淹れようと薪を手に取った。火口ほくちになりそうな紙屑でもないかと研究室から屑籠くずかごを持ってきたところで、奥の扉が開いて寝室から師匠が顔を出した。


「あ、おはようございます」

「おはよう、エテン……どうしたんだい、ゴミなんて抱えて」

「暖炉に火を入れようと思って、紙屑を」

「戻しておいで。暖炉は私がやっておこう」


 師匠があくび混じりに暖炉へ手をかざすと、手のひら半分くらいの小さな火の魔法陣が描かれて、メラメラと暖炉に炎が立ち上がった。


 あんなに小さな陣で、あんなに大きな炎──


 師匠は魔法陣の研究者だけあって、魔力効率の良い最先端の術をいくつも知っているし、自分で編み出してもいる。エテンが塔に来たばかりの頃には、賢者様と顔を突き合わせて難解な術をああだこうだといじくり回している姿も見たことがあった。


 それだけの知識と技術があれば……それこそ暖炉に火を入れるくらいの小さな陣で、部屋中を覆い尽くす業火を生み出せるのではないだろうか?


 術者というより学者としての研究ばかりしているから、あまり強い人だという印象はない。けれど師匠だって白ローブだ。魔力はすごい量を持ち合わせているし、魔法に見せかけた魔術を生み出したり……そうだ、それこそ魔力変換式はどうだろう。エテンの加速増幅陣は強い光が回りながら点滅して「目」の一族にとってはこの上なく目立つらしいが、魔力を影の色をした気の魔力に変換してから使えば、全く光らずに増幅できるのではないだろうか? 小さな陣を、気の魔力で発現して……力を増幅させてから、火の魔力に変えて術を爆発させる。そういう魔法陣を開発すれば──


 そんな風に考え始めると身の回りのありとあらゆる人間が怪しく見えてきて、エテンは頭を振った。だめだ、疑心暗鬼になってる。誰もが怪しくて、誰もが怪しくなくて、一体何を信じればいいというのだろう。


「エテン、紅茶とココアどちらにする?」


 師匠に尋ねられて、エテンは「ココア」ともごもご答えた。どうして師匠は、こんなに朝早くに起き出してきたのだろう。もしかして、何かエテンに見られてはならないものをこの部屋に隠してあるとか? いや、師匠には初めの事件の時のアリバイがある。いや、本当にあるのか? あの夜エテンが研究室で一緒だったと思っているのも、全部犯人の催眠術かもしれないじゃないか。


「はい。ココアと、これを目蓋に薄く塗っておきなさい」

 湯気の立つマグと、ガラスの小皿に入った淡いクリーム色の軟膏が目の前のテーブルに置かれた。


「……これ」

「タナエスの魔法薬だよ。腫れや炎症をしずめてくれる。ファロットが起き出してくる前にその目をどうにかしておきたいだろう?」

「ありがとうございます……聞こえてましたか?」

「私が最後に入浴したからね。居間を通った時に……娘には聞こえてないと思うよ」

「そうですか」


 人差し指で掬って目蓋に塗りつけると、すうっと冷たい感触がして熱が抜けていった。師匠が渡してくれたファロットのものらしい手鏡を覗くと、相当腫れていたに違いない目の周りはすっかり元通りになっている。


「すごい」

「だろう? 彼は薬に関しては天才だよ。彼の塗り薬も風邪薬も、本当によく効く。いやもちろん、一番凄いのは魔力回復薬だけど」

「水に魔力が溶かされている飲み薬でしたよね」

「そう。人工的に魔石以外へ魔力を封じ込めるというのは、彼以外の誰にも成すことのできなかった技術だよ。魔力を極限まで圧縮して急激に注ぎ込む。やっていることとしてはそれだけだけど、その魔力を圧縮するという術の開発がどれだけ凄いことか……そうだ。少し前に魔石の使用量が多い術者が誰かと聞いてきたね? 現時点では確かにタナエスが一番多いかもしれないけれど、彼は水に魔力を封じる技術を使って、魔石の代替品の研究開発にも携わっているんだよ」

「え、そうなんですか? ……やっぱり、生き物を殺して石を奪うのは良くないことだから?」


 漠然とエテニア記について考えながら言うと、師匠は「どうだろう」と首を傾げた。

「順当に考えれば、魔石がとても高価な素材だという理由の方が先に挙げられるだろうけど。今のままでは、一般に魔導具を広めるのは難しいからね。でも、彼はああ見えて結構優しい人だからね、そういうことも考えているかもしれない」


 話を聞いてみるといいよと微笑む師匠に頷いて、エテンはココアを啜りながらまた考えに沈んだ。魔石を道具として利用せざるを得ない現状を憂い、代替品を作ろうとする人間からすると……魔石をおもちゃにしているトナなんかは憎くて仕方がないんじゃないか?


「……師匠は、誰が犯人だと思います?」

 尋ねると、師匠は困ったように腕を組んだ。

「私かい? いや……そういうことは、あまり君の前で口にしたくないんだけどな」

「大丈夫です、鵜呑みにしたりしませんから」

「そうじゃなくて……師として、塔の仲間を疑っている姿をあまり見せたくないというか」

「僕が尋ねたことです。敢えて、敢えて言うならでいいですから」

「いいや。悪いけど、憶測で話すのはやめておくよ」


 きっぱり首を振られ、エテンは大人ってつまらないなと思いながら渋々頷いた。ココアをもう一口。ファロットが作ったやつの方が美味しい。師匠のはミルクが多すぎて薄い。けれど、あたたかくてほっとする。





 ふっと目を覚ました。テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。肩から毛布がずり落ちそうになるのを手で押さえ、エテンはひとまず冷たくなったココアの残りを飲み干した。その物音に、暖炉の火を調節していた師匠が振り返る。


「起きたね、エテン」

「あ、はい」

「昨夜は眠れなかった?」

「……いえ。夜中に何度か目は覚ましましたけど」

「最近少し居眠りが多いけど、ぐっすり眠れないならタナエスに薬をもらうかい?」

「そこまでじゃありません」


 エテンは「魔術の実験はまた今度にしようか」とか言い出しそうな師匠に慌てて首を振ってみせた。顔でも洗っていたのか浴室の方から出てきたファロットがくすりと笑って「エテン、髪すごいわよ」と言う。


「えっ……ちょっと師匠、教えてくださいよ」

「さっき鏡を見せたろう」

「あ……確かに」


 エテンが顔をしかめて髪を撫でつけている間に、ドアがノックされて朝食が運ばれてきた。顔を覗かせたファリルが「一応毒見はしてありますけど、食べる時はできるだけ複数人でお願いします……あっ、また跳ねてる」と言って笑う。


「ありがとう、ファリル」と師匠。

「どういたしまして。もし何かあったらその場で大声出してください。すぐに誰か来ますから」

「わかった」


 師匠が話している間、ファロットが彼女にしては珍しく隣に立って挨拶もせず、テーブルに並べられた朝食を不安そうに見つめていた。毒の可能性なんて匂わせられればそりゃあ食欲はなくなるよなあと思って、エテンは腫れの引いた目で微笑みかけた。


「大丈夫だよ、念のためってことだろうから」

「でも……エテンは狙われてるのよ。確かに考えてもみなかったけど、可能性は十分あるわ。昼食は私が作る」

「……作れるの?」

「たぶん……やったことないけど」

「厨房にはしばらく鷲族以外立ち入れないよ」


 師匠がそう言いながら戻ってきて、皆で席に着く。食前の祈りを終えてエテンがスープの腕を引き寄せると、師匠がさっと片手を上げて制し、自分の匙をエテンの腕にひょいと突っ込むと素早く口に入れた。


「……うん、大丈夫だね。これで安心かい?」

 師匠がファロットに言うと、彼女は「お父さんに何かあっても嫌よ」と首を振った。

「おやおや、お姫様は心配性だね。そんなに何もかも心配していても仕方がないよ」


「ねえ、一時的に塔を出ることはできないの、お父さん? みんなで逃げればいいじゃない」

 ファロットが少し涙ぐんで言う。


「『白』の私は難しいけれど、君とエテンだけなら無理じゃないと思うよ。でも、外に出れば狙われないという確信もなく飛び出すのは、却って危険かもしれない」

「……お父さんが一緒じゃないなら、このままでいいわ」


 少女がそう言ってエテンの方を見る。エテンも、皆を置いて自分だけ逃げ出す気はなかったので頷いた。自分が塔を出れば自分を狙っているルヴァルフェンサも一緒に外へ出せるのではないかと一瞬考えはしたが、そんな保証はどこにもない。


「……それはそうと、師匠」

「ん?」

 話題を変えようと話を振ると、師匠はパンとチーズを同時に口に放り込んでもぐもぐしながらエテンを見た。


「鷲族の人達が、ルヴァルフェンサの魔力の色について色々言ってましたけど……そもそも、魔力の色から個人を特定するってどこまで正確にできるんですか?」

「本人が目の前にいれば、かなり正確に」師匠が口の中のものを飲み込んで言う。


「魔力の量、つまり鷲族から見た光量や巡る速さ、体を巡る経路の形、それから色合い。どれも個人によって異なるものだ。ただその日の体調によって変わる部分もあるし、速さや何かについてはある程度操作できるから、一番信頼性が高いのは色合いだね。エテンも聞いたことないかい? 明度いくつ、彩度いくつ、赤青緑の比率はいくつ、みたいなの。あの人達は子供の時からそういうのを見分ける訓練を積んでるから、魔石なりで混ざり物にされていないルヴァルフェンサの魔力を見ることができれば、簡単に特定できるのではないかな」

「なるほど……」


 ならばどうにかしてルヴァルフェンサを罠にかけ、あれこれ小細工している魔力を元の状態に戻させれば、あとは鷲族が特定してくれるということだ。彼はきっとまたエテンを襲ってくる。それまでに、何か作戦を考えないと。


「エテン、お行儀悪いわよ」

 ファロットの嫌そうな声がして我に返った。手元を見ると残り少なくなったスープを匙でぐるぐるとかき回していて、確かにこれは行儀が悪いと気まずくなりながら手を止める。それを見ていた師匠が言った。


「……やっぱり、少しぼうっとしているね? エテン、私は鷲族のように全てを見通せる目は持っていないけれど、これくらいはわかる。君のそのハシバミ色の目がほんの少し緑よりも茶色に近く見える時は、相当疲れているか悩み事があるんだ。魔術の実験はまた後日に──」

「やります! それは絶対やります!」

 あんまり慌てて遮ったせいで声が裏返った。ファロットがくすりと笑って「エテン、可愛い」と言う。


「可愛いはやめてよ……」

「どうして? 褒めてるのに」

「いや、うーん……」


 それが「かっこいい」の対極にあるような言葉だからだ、と思ったが、そんな風に言えばエテンがファロットにそう思われたくて仕方がないとバレてしまうので、半端な笑みを浮かべてごまかしておいた。


 少しだけ残ったまま冷めてしまったスープとパンのかけらを食べてしまって、エテンは食器を返すついでにファリルへ「警報の魔術を実験します」と伝えた。ファリルがエテンの頭の後ろの方をにこにこ見ながら「わかった。頑張ってね」と言う。


「ええ、ありがとうございます」

「ふふ、可愛い。ぴょんぴょんしてる」


 全くどうして、女の人って簡単に男の自尊心を踏みにじるようなことを言うんだろう? 自分達だって「かっこいい」より「可愛い」とか「綺麗」って言われたいんじゃないのか? いや、実際はそうでもないのか?


 唇を尖らせながら居間に戻り、師匠とテーブルの端と端を持って部屋の隅に移動させると、エテンは立ったままやるかあの時の状況を再現するか迷って腕を組んだ。とりあえず体勢はそのままやってみようと結論を出し、カツンと足で蹴って床に部屋中を埋め尽くすような魔法陣を描く。


 少し力を込めて魔力を注いだ。これはいつも通り順調にできる。次は呪文だ。エルート語ではなく故郷ヴォーガリンの言葉で。


「いきますよ」

「うん」

 師匠とファロットが頷いて、両手で耳をしっかり塞いだ。エテンは一度目を閉じて大きく息を吸って吐き、そしてカッと魔法陣を睨むと吠えるように唱えた。


「──ロゥルアイ!」


 魔法陣の中の魔力が熱を持つように活性化し、それをぐるりと回すように力を込めると、途中でガツンとぶつかるような感触があって魔法陣は霧散した。何の音もしない。


「……だめですね」


 呟くと、ファロットが「あの時は立ったままじゃなかったんでしょう? 姿勢も再現してみたらどうかしら」と言った。


「……うん。うん、そうだね。師匠、ちょっと馬乗りになって僕のお腹に向かってナイフ構えてもらえます?」

「えっ?」


 師匠が目を丸くして、そして「ナイフはだめだけれど、上に乗るくらいなら」と言った。エテンが横になろうとすると、ファロットが「待って」と言って魔法で床を浄化してくれる。


「明かりは消す?」

「うん、お願い」


 そう頼むと、ファロットがランプと暖炉の火を消し、窓のカーテンを引いた。暗いなか、幽かに残る浄化の魔法の気配。床に横たわると、師匠が「この辺かな?」と言いながら脚の上に膝を乗せて少しだけ体重をかけた。暗闇の中、男に見下ろされる──


 瞬間、エテンは息を呑んで腕を振りまわし、自分の上から驚く師匠を払い退けた。師匠がすかさずエテンを抱き起こして、頭をぎゅっと胸に抱き込むと背中を叩く。ごめん、ごめんエテン。私が無理をさせた。大丈夫だから、落ち着いて。


 部屋に明かりが灯ったところで、エテンは夢から覚めるように冷静さを取り戻した。肩で息をしていると、師匠が袖口で頬の涙を拭ってくれる。


「すまなかった、エテン。私が馬鹿だった。この実験はやめておこう。君の魔術は、また別の方法を探せばいい」

「……そうみたいですね」


 なんとか泣き出さずに肯定の言葉を返して、エテンは暖炉の前のソファに座り込むと両手で頭を抱えた。俯いたまま背中を探って、フードを下ろして顔を隠す。今は誰にも見られたくなかった。二人に聞かれないように細く、けれど深く、腹の底からため息をつく。できると思ったのに。悔しい。情けない。


「エテン……」

 ファロットの声がして、次いで師匠が「今は研究室に行っていなさい、ファロット」と言うのが聞こえた。ファロットのことは好きだが、今は正直ありがたい。


「嫌よ。だってエテンがこうなったのは私のせいだもの」

 けれどファロットはそう言って、エテンの複雑な気持ちなんかお構いなしに軽い足音を立てて近づいてきた。やめてくれ、今はそっとしておいてくれ。そんな同情したような感じで、肩に手を掛けないでくれ。君には、君には僕のこんな姿──


「エテン……ねえ、ちょっと温室へお散歩に行きましょう? きっと気分転換になるわ」


 えっ、それってデート?


 咄嗟にそう思ってしまって、エテンは急いで気持ちを暗い方に引き戻した。おい、こんな時に舞い上がるな。わかってるさ、どうせ師匠と鷲族とみんなで一緒にピクニックなんだろ。


「いいよ……みんなでお散歩なんて気分じゃない」

「わかってる」


 ファロットが囁くように言った。そして顔を上げて、彼女は師匠に向かって言う。


「お父さん、ちょっとエテンとふたりきりにして」





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