二 小瓶



 月の塔の温室は上から数えて二階層目、長老の部屋のすぐ上にある。なぜそんな高いところにと思わないでもないが、魔力を持った特殊な花がたくさん植わっているとかで、ここに置くことに魔術的な意味があるらしい。


 階段を上がってすぐ、樹門じゅもんと呼ばれる二本の木の枝の上の方が絡み合ってアーチになった場所で立ち止まり、ファロットが言う。


「ファラフィル達はここで待っててくれる? 話が聞こえないくらいの距離で」

「はいはい」


 笑いながら頷いた「目」の青年がぐるりと上下左右を見回して「ここと最上階には誰もいないから、この入り口を張ってればおおよそ安全だと思う」と隣の「耳」に言う。

「そうね。じゃあこの辺にいるから」


 にっこりして籠からクッキーと温かい飲み物を取り出した彼らに礼を言って、エテン達は温室の中へ足を進めた。


 温室といっても、ここは魔法の塔だ。花屋の裏手で見かけるようなガラス張りの壁ではなく、床に仕込まれた魔法陣で温度や湿度が管理されている。それ故に、この一層分をまるまる使って作られた広い広い部屋は、少し歩くごとに肌に感じる空気が変わった。この辺りは春の草原のようで、少し向こうに行くと亜熱帯の湿った熱気、右の奥側は砂漠の乾いていて寒暖差の激しい気候──それだけでも十分面白い場所ではあったが、そうして世界中の木々や草花が植えられ、目まぐるしく風景の変わる森のようになっているここは、やはり特別美しい場所だ。


 けれど今のエテンに、そんな情景を楽しむ余裕など一切ない。今まさに彼の左の手が、愛する少女にぎゅっと握られているからだ。


 手を繋いで、てをつないで満開の薔薇の小道を散歩するなんて!


 エテンは静かに深呼吸して、身悶えも小躍りもしないようじっと耐えた。胸が痛いくらいドキドキして、もうどうしたらいいのかわからない。ああ、手に汗をかいてきた気がする。一度確かめてハンカチで拭いたい。でもそのために手を離したら、ファロットはもう手を繋いでくれないかもしれない。でもどうしよう、もし彼女に気持ち悪いと思われてたら──


「エテン、大丈夫? 顔が真っ赤よ」

「えっ……ああ、それね。うん、大丈夫大丈夫。さっき暖炉に当たってたから……今は涼しくてちょうどいいよ」

「そう? 部屋を出た時からそんなだったかしら」


 ファロットが片手で前髪をかきあげて、エテンが状況を把握するよりも早く、さっと背伸びをして自分の額をエテンの額に重ね合わせた。綺麗な綺麗な水色の瞳が間近できらめいて、薔薇色の唇が「熱はないわね」と可憐な声で言葉を紡ぐ。


 手のひらじゃなくて、おでこをくっつけてくるとか!


 これはもう、ファロットは僕のこと好きなんじゃないか? 告白してもいいかな? と浮かれ上がりかけたが、危ないところで師匠もエテンが風邪を引いた時は同じように熱を測っていたことを思い出し、どうにか勘違いをせずに済んだ。


 すでに少しふらふらしながら、ファロットの後に続いて温室を歩く。小さな薔薇園を過ぎて、立派なナナカマドの木の脇を通り、名前も知らない白い花が群生している場所を通り過ぎた。


「ここにしましょう。一番気に入ってる秘密の場所だから、みんなには内緒ね? ひとりになりたい時、よく来るの」

「光栄だよ、そんな特別な場所を僕に教えてくれる、なん、て──」


 ちょっとタナエスみたいな感じを意識して微笑みながら王子様っぽい台詞を決めようとしたところで、ファロットが座り込んだ場所を見つめ、エテンは思わず続きの言葉を飲み込んで真顔になった。


「ねえ……それ、トリカブトだよね?」

 薄紫色の美しい花畑を見つめて、ぽつりと言う。


「ええ。この花、大好きなの」

「……結構強い、毒草だと思うけど」

「食べなければ大丈夫よ?」

「まあ、うん……そうだね」


 ファロットが腰掛けている岩の隣に腰を下ろす。水辺の植物だからか、座ると空気がかなりじめじめしている。膝を抱えると、顔の高さに猛毒の花。雰囲気はほぼ最悪だった。


「ファロットは……この花が好きなんだ」

「一番好きよ。私、結婚式は絶対この花の冠を被るって決めてるの」


 それはちょっと、色々な意味で無理じゃないかな……とエテンは思ったが、ファロットの花嫁姿を想像してかなり気分は持ち上がった。うん、ファロットが結婚してくれるんなら、お嫁さんが毒草姫でも全然ありだな。


「ええと……毒のないトリカブトとか、品種改良してみたらどうかな? 薬効を残せれば薬にも使いやすくなるし」


 将来は薬学の道に進みたがってる彼女に提案すれば、ファロットは「それ素敵ね!」っと言って花のように笑った。もちろんトリカブトじゃなく、スズランとかスミレとかの可憐な花だ。


「……いや、どっちも有毒だった」

「なあに?」

「なんでもない」


 苦笑すると、ファロットは「変なの」と言った後に「少し元気が出てきたみたい」とエテンの瞳を見つめてにっこりした。


「ほんとに、エテンの瞳って苦しいと茶色くなって、元気だと緑色になるのね。全然気づかなかった……でもどうしてかしら? 不思議ね」

「わからない。自分じゃ見えないし」

「鏡で見えるでしょ?」

「鏡自体をあんまり見ないから」

「だからいつも髪が跳ねてるのね」


 エテンが渋い顔になり、ファロットが「ふふっ」と軽やかな声で笑った。赤と金が混ざり合った朝焼け色の髪が、窓から差し込む光でキラキラしている。普段はぱっちりした瞳の可愛さが目立つファロットだが、彼女はこうして時々、泉で踊る妖精のように美しく見える時があった。


「……私も、ちょっと元気が出たわ。ずっと大人に見張られていると、息が詰まるもの」

 少女が岩の上ににごろんと寝そべってため息をついた。手を伸ばして、蝶が羽を休めているような形の花弁にちょんちょんと触れる。


「え、ちょっと……あんまり触らない方が」

「だから、食べなければ大丈夫よ」

 ばかね、と微笑んだ彼女がゆっくり起き上がって、エテンをじっと見つめる。


「……エテンは賢いから」

「ん?」

「エテンは賢いから、今までだって色々工夫してきたんだと思うの。だから、一度のきっかけで何もかも上手くいくようになるものなら、もっと早くにそうなっていたと思うわ」

「あ、魔術の話?」

「うん」


 ファロットが俯いて、小さく「悩んでいないんなら、余計なお世話かもしれないけど」と呟く。


「でも……やっぱり、夢ってそうすぐに花開くようなものじゃないって思うわ。私がエテンと同じくらい難しい魔法陣を作り出そうと思ったら、エテンよりもずっとずっと努力しないといけない。エテンが私と同じように魔術を使おうと思ったら、エテンもすごく努力しなきゃならない……でも、持っていないものを目指すからこそ楽しくて、嬉しいこともあるわ。きっと、そういうものなのよ」

「うん」


 心の奥の方がふんわりあたたかくなって、エテンは微笑んだ。

「大丈夫、努力をやめる気は全くないよ。自分の魔法陣を自分で使うのは、僕の目標だから」

「なら、よかった」

「うん」


 微笑み合っていると恥ずかしくなってきて、エテンは目を逸らすと目の前の花をちょんと触ってみた。香りを確かめてみようか迷って、花粉が鼻に入ったら怖いと思ってやめておく。けれどこうして見ていると、普通の可愛らしい花だ。中に猛毒を隠しているなんて、そんな風には全然見えない。


 塔の誰かも、そうして優しかったり愉快だったり偏屈だったりする人柄の奥に、あのルヴァルフェンサを潜ませているのだろうか。エテンはそう考えながら、ポケットから魔石を取り出して中に刻まれた円環紋をじっと見る。石の真ん中に絵柄が浮かんでいるような、不思議で精緻な彫刻。あれからトナの電離気球をよく見てみると、これと同じような技術で魔石の玉の中心に小さな魔法陣が描かれているのを発見した。使い慣れた技術を使って、咄嗟に、彼女はエテンに何を伝えたかったのだろう。


「ねえ……私が余計なこと言ったせいで、エテンを傷つけた?」


 ファロットが囁いたので、エテンは物思いに沈んでいた顔を上げて首を振った。

「ううん、そうじゃないよ。彼女が僕に遺したものを、受け取れてよかった……期待が重いなとは思わなくもないけど」

「マシエラの円環紋ってことは……やっぱりエテンに向けて」

「うん」


 石を渡してやるとファロットはそれをそっと手のひらで包むように持って、中の紋様を見つめた。


「……私でも、エテンに何か残すと思う」

「え?」

「エテンは……何か、信じたくなるようなものを持っているもの。エテンが加速増幅術式を作った時もそうよ。時々、大人でも辿り着けないような道筋を見つけたりするの。そういう雰囲気が、なんとなくある」

「そ、そうかな……」


 エテンが照れに照れて赤くなった顔を隠そうとしている間、ファロットは彼の方をちらりとも見ず、少し遠くを見るように温室の木々を眺めていた。


「だから……きっとルセラも、エテンにメッセージを残したんだわ」


 そしてぽつりとそう言った。


「ルセラとは、ほとんど面識がなかったけど」

「ルセラがあなたを思い浮かべてあの魔法陣を描いたって意味じゃないわ。小瓶に詰めて海へ流した手紙は宛名がないけれど、エテンが拾い上げたら、それはエテンへ向けた手紙になるでしょう? そんな風に、きっとルセラの言いたかった何かも、他の誰でもなくて、エテンが見つけることになるんじゃないかって思うわ」

「ファロット……」


 ああ、好きだなあと思った。こんなに可愛くて、真っ直ぐで、優しくて、賢くて、何もかも完璧な女の子は他にいない。魔石を返してくれるその指先がほんの少し触れる。やわらかくてあたたかい。


「……ちょっと、歩いてから帰ろうか。せっかく散歩に来たんだし。最近運動不足だしさ」


 もう少しだけ逢引き気分を味わいたくて言うと、ファロットは「そうね」と頷いて立ち上がった。揺れる薄青ローブの裾には、花の咲く蔓草模様の刺繍。エテンの服は南方風の幾何学模様があしらわれているものが多いが、彼女にはこういう繊細な柄がよく似合う。


 窓の外が曇っているので、温室の中はいつもより薄暗い。けれど薄暗いからこそ、少し青みがかった光がこの場所を幻想的に見せていた。季節に関係なく咲いている花々に、魔力の気配がする不思議な薬草。よく見ると、暗がりで淡く光っているものもある。草の青い匂いに混ざる甘い花の香り。揺れるファロットの髪。


「……あ、ツシ」

 奥の方に馴染みのある人影を見つけて、エテンは呟いた。


「長老様もいるわ。ここには他に誰もいないって、ファラフィル達は言ってなかった?」

「長老の部屋からの入り口があるから、そっちから来たのかな?」


 ツシと長老は、何か真剣な顔で話し合っているようだった。ツシはこの温室全体の魔術的な調整を色々とやっているので、たぶんそこに何か問題が起きたとか、新しい植物を入れるための準備をしているとか、その類だろう。ファロットと二人でいるところをちょっと彼に自慢したいなと思って、エテンは声をかけるために彼らの方へ踏み出した。とその時。


「待って」

 ファロットが押し殺した声で言って、エテンの前に手をかざした。

「どうしたの」

「静かに。足音を立てないで、ゆっくり下がって」

 まるで鷲族の人達のように、ファロットが姿勢を低くしてじりじりと木の陰に下がった。


「どうしたの、ファロット?」

 もう一度尋ねると、彼女が黙ったまま前を指す。

「え? ツシ達が何か──」


 言葉を止めて、じっと見る。ツシが持っている、指先くらいの大きさの青い小瓶──特殊な保存瓶で、彼がいつも植物の種なんかを入れているものだ──を長老が受け取り、窓にかざして中に入っている何かを透かし見ている。老人が嬉しそうに微笑んで一言二言何か喋り、そして瓶の栓を抜くとその何かをコロンと手のひらに出した。


 そうっと一歩、ファロットの前に出る。彼女の盾になるように。少し晴れ間が覗いたのか、窓からの光が強くなって木々の葉を透かし、あたりが美しい緑色に染まる。


 長老の手のひらで、淡い木漏れ日の緑を映した乳白色の小さな石がふたつ──きらりと、まるで頬を流れる涙のように光った。





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