六 欠けた円環



 夕食の後、エテンは書斎の書き物机の上にペンと紙を広げ、神殿の人達に渡してしまった資料の中身を、思考の整理も兼ねて丁寧に書き起こしていた。


 ルセラの本棚にあった蔵書は、確か左から……順番までは思い出せないが、詩集や恋愛小説や学術書がごちゃごちゃに並んでいて、そして表紙の擦り切れた、かなり読み込んである様子の聖典が置いてあった。魔石を利用した人の罪と神罰について記された『エテニア記』──街を滅ぼした神のいかずちを表して彼女はかみなりの魔法陣を描き残したのではないかと、ラグじいさんは言っていた。


 それがもし本当だとしたら、そのメッセージは一体誰を指していたのだろう。あの話の中で一番罪深いのは誰だ? はじめに魔石に関する知識を広めたエテニアの夫か、乱獲を扇動した領主か、鹿を狩り尽くした狩人か。それとも、森を豊かにさせようとした神の期待を裏切り、全ての悲劇の発端となったエテニア自身か。


 エテンはそこでペンを置いてじっと腕を組み、そして立ち上がって部屋の本棚の背表紙を端から順に目で追った。師匠の書斎なので魔法陣に関する専門書がほとんどだが、基本的な魔術書の類や、ファロットがもう読まなくなった児童書なんかも並べてある。


「……これかな」


 そっと呟いて、『魔法魔術大全』と書かれた分厚い一冊を手に取る。魔術のことだけでなく、著名な魔法使いや魔術師についての記述もあるものだ。


「アイセナン・ルゴール=イヴァレッド、ルールミルエルマルーシュ=デール・リファール、ザラガンド=マグレアン……へえ、ラグじいさんって本名ザラガンドっていうんだ」


 思ったより洒落た名前だったが頑固そうな響きはかもしれないとにやつきながら、今度は背伸びをして上の段からルア語辞典を引っ張り出す。立ったまま最後の方のページを捲って、人名一覧に目を走らせた。


 彼らの名前がルア語、つまりエテニア記の原書と同じ言語ならばどのように呼ばれるのか調べる。ルールミルエルマルーシュはエルフ語なので該当するものはないが、人間の言語ならある程度推測できるはずだ。「エテン」という名前が隣国フォーレスに行けば「エシアーノ」と呼ばれるように、聖典を原書で読んでいたルセラなら容易くルア語名への置き換えが可能だった可能性がある。


 乱獲を扇動した領主か、鹿を狩り尽くした狩人か。それとも、森を豊かにさせようとした神の期待を裏切り、全ての悲劇の発端となったエテニア自身か──


 とその時、どこかからファロットの声が聞こえた気がしてエテンはハッと顔を上げた。耳を澄ますと、扉の外から「エテン、もう寝ちゃったの?」と小さな声が聞こえてくる。

「ごめん、すぐ行く!」

 慌てて本を棚に戻すと、駆け寄って扉を開けようとし──エテンはそこでぎくりと立ち止まった。


「エテン?」

「……ああ、いや、ごめん」


 大丈夫、ここは師匠の部屋だと自分に言い聞かせてから扉を開けた。外にいたのは、ちゃんとファロットだった。


「どうしたの、ファロット? 珍しいね……こんな遅くに」

 もしかして、危うく幼馴染を殺されそうになって初めて彼のことを愛していたのだと気づいた少女は、いても立ってもいられず愛の言葉を──


「夕方にね……エテンが神官様に事件の資料を渡してた時、少し中身を見てたでしょう? それを後ろから見ていて、気づいたことがあるの」

「あっ……うん」

「何?」

「なんでもないよ」


 こういう期待外れはいつものことなので、エテンはすぐに気持ちを切り替えてファロットを部屋に招き入れた。「探偵」として「助手」の意見はいつだって真摯に聞かねばならないし、それに彼女が映像的な記憶について特別な才能を持っているとわかった今、彼女の「気づいたこと」というのは絶対に聞き逃せない価値を持つ。


「それで、何に気づいたの?」

「待って、いま探してるから」

「あ、はい」


 壁一面の本棚を左端から真剣な顔で見ていたファロットは、一冊の本を取り出してエテンの方を振り返った。

「これよ」

「マシエラシリーズの一巻?」

 エテンの好きな探偵小説である。ここに一巻しかないということは、ファロットはあまり気に入らなかったようだが。


「題名じゃないわ、表紙の絵を見て」

「うん、円環紋だね。マシエラの首飾りだよ」

「『円環』紋だけど、右上が少し途切れてるでしょう」

「ああ……確か、彼の首飾りが少し欠けてるんだったかな。ちょっと覚えてないけど、あれはマシエラの父親の形見だから古いものだし、何か傷があったとかそういう設定だった気がする」

「トナの握ってた石の中の円環も、同じところが欠けてた」

「……ほんとに?」


 エテンは眉を寄せ、資料を全部渡してしまったことを悔やんだ。ファロットと一度顔を見合わせ、すぐに書斎を出ると居間を通って廊下に繋がる扉を開けて、廊下の端に立っている鷲族に手を振った。


「はいはい、どうしたの?」

 軽い動作で駆けてきたのはプラディオだ。この人いつもいるけど、全然休んでいないんじゃないか?


「トナが握っていた魔石のスケッチか何かが見たいんです。もらいに行くのに同行してもらえますか?」

「そのくらいならここに届けてあげるよ。護衛対象に移動されるより手間が少ない。今必要なの?」

「できれば」

「わかった」


 伝令鳥を呼び出したプラディオに礼を言って、エテン達は一度部屋へ引っ込んだ。すると居間には寝室から出てきた師匠が待っていて、呆れた顔で「もう寝なさい」と言った。


「プラディオに届け物を頼んだんです。それを受け取ってから」

「受け取ったらすぐに寝るんだよ。調べ物はまた明日だ」

「わかりました」


 少し残念だったが頷いて、居間のテーブルの周りに皆で腰掛ける。するとファロットが「私、ココアが飲みたいわ。他に欲しい人は?」と言って立ち上がったので、師匠と二人で手を挙げた。


「……あの、師匠。何の現象も引き起こさずに魔力だけを変換する魔術って、どうして作ったんですか?」


 少女を見送ったエテンが尋ねると、師匠は「そうだね」と思い出すように少し遠くを見た。

「最初は、塔の医務室に各色の魔石を取り揃えておきたいと思ったからだよ。ここの人間は無茶な実験をして魔力欠乏症になることが多いから……そういう時に属性の違う人から直接魔力を分け与えるのと、自分と同じ色の魔力を取り入れるのとでは、馴染みが全然違う。各個人が自分の魔石に自分の魔力を保存しておくのが一番いいんだけど、みんなずぼらだろう? 今では、ありがたいことに神殿治療院でも使ってもらってるみたいだね。治療院だけは、そんなに魔導を忌避しないから。いついかなるときも人命優先なんだ」

「へえ」

「まだファロットも生まれる前の研究で、それがきっかけで白の衣をいただいたんだ。エテンも術さえある程度使えるようになれば、加速増幅の研究で候補に入れると思ってる」

「あっ、そうだ。魔術」


 色々あって忘れていたが、そういえば魔術の実験をまだやっていなかった。エテンはガタッと立ち上がるといそいそと棚の上から燭台を持ってきて師匠の前に置き、「見ててください」と言って蝋燭の先端を狙って手をかざした。


燃えろヴァフラ!」

 母国語で唱えると同時に小さな魔法陣が黒い線で描かれて──ゆらっと揺れて消えた。おかしいなと思って今度は正規の呪文を唱え、もう一度はじめと同じように唱え……そして、手を下ろす。


「……あれ、おかしいな」

 すごく弱々しい声が出て、エテンはその恥ずかしさにも苛まれて俯いた。師匠が顎に手を当てて「うーん」と言うと、考え込むようにテーブルに頬杖をついて言う。

「生命の危機が一時的に力を覚醒させたのか、それとも君が警報の術に特別相性がいいのか……今日はもう遅いから明日になったらもう一度、成功した術そのものを試してみよう」


「あの……信じてくれるんですか、僕が魔術を使えたって」

 ぽつりと言うと、師匠は目を細めて優しく微笑んだ。

「もちろん。弟子の可能性を信じるのが師匠だし、君は信頼に値する人間だ」

「……ありがとうございます」


 師匠に言う礼にしては失礼なくらい小さな呟き声で言って、戻ってきたファロットからココアを受け取る。椅子に戻って口をつけると、濃厚な甘さで少しだけ元気が戻ってきた。大丈夫、明日また試してみればいいんだ。


 そう自分に言い聞かせていると、控えめなノックの音。師匠がふうふうと冷ましていたカップを下ろして「はい」と応じた。


「あ、ルルピルです。エテン君に届けもの」

「はいはい」

 立ち上がろうとするエテンを制して師匠が扉を開け、紙束でも封筒でもなく小さな紙の箱を受け取る。


「エテンの資料はまだ使うからって、実物の方をもらってきました。あの石の絵が描いてある紙には他にも色々考察とか書いてあったみたいですね」

「いいのかい?」

「ええ。もう一通り記録は取ってありますから」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

 師匠の後ろから礼を言うと、プラディオは笑って「お礼はいいから、僕のことルルピルって呼んでよ」と言った。


「……ルルピル、あの時は助けてくれてありがとう。あなたが来てくれなかったら死んでました」

「えっ、エテンが素直になった……」


 目を丸くしたプラディオがぱあっと笑顔になって「野良猫が懐いたみたいだ。かわいい!」とこの時間にしてはかなり大きな声で言った。彼はわりかし冷静な方の人間だと思っていたが、やっぱり鷲族は鷲族なのだろうか。


「そうだろう? いつもはむすっとしているけれど、こうして時々擦り寄ってくるのが可愛いんだよ」と師匠が頷く。

「ちょっと師匠」

「はは」

「そのまま大きくなるんだよ! エテン」


 プラディオがにっこり言うのに渋面を返すと、彼は「あ、また不機嫌エテンになっちゃった」と楽しそうに笑った。まったく大人というのはどうして、エテンがとっくに小さな子供じゃなくなっているといつまでも気づかないのだろう。頭は悪くないはずなのだから、いい加減にしてほしい。


 とはいえ彼らの馬鹿みたいな会話を聞いて少し気持ちが明るくなったのも確かで、エテンは師匠から紙の小箱を受け取ると、皆に就寝前のの挨拶をして書斎に下がった。急遽運び込んだものにしてはなかなか立派な寝台に腰掛けて、菓子の箱でも使ったのか小さなスミレの花の絵が描いてある蓋を取る。


「……あ、ほんとだ」


 細い細い線で描かれた円環紋、ただの丸ではなく上下に小さな星模様が連なっている──その円の右上のところ。ほんの少しだけ線が途切れていた。もう一度本を取ってきて、表紙の絵と見比べる。丁寧に銀で箔押しされたそれと魔石の絵柄は、大きささえ合わせればぴったり重ねられそうなくらいだった。それを交互にじっと見つめると、思わず独り言が漏れる。


「マシエラの……円環紋の首飾り。そんなもの、ルヴァルフェンサが描くはずない。あの日の晩にトナが描いたんだ。じゃあ、これは」


 この絵は、次の容疑者を指し示す手掛かりなんかじゃない。死に際のトナが、エテンに向けて遺した言葉だ。あの日、その場にいたのはトナとエテンとファロット、鷲族のラプフェルだけだ。犯人が知り得ない情報を刻むことで、ルセラの雷の紋も被害者が残したものだと伝えるのがひとつ。そしてもしかしたら──


「マシエラみたいに僕に謎を解いてくれって……犯人を捕まえてくれって、そう言いたかったのかもしれない」


 そう声を絞り出したエテンの脳裏に、鮮やかな映像がまるで閃光のように走った。推理小説について楽しげに話すトナ、電離気球の光を自慢げに見せるトナ──そして、ルヴァルフェンサに腹を裂かれながら必死にエテンを思い出すトナ。全てが灰になった部屋で骨だけになったトナ。


 握りしめた魔石の上に、ぽたりと透明な雫が一滴落ちた。それが二滴になり、三滴になって、そしてエテンの視界は全てが潤んで雨の日の窓のように何も見えなくなった。


「トナ……どうして、トナ」


 食いしばった歯の隙間から囁き、すぐに顎が震えてその歯も食いしばれなくなって、エテンは寝台に飛び込むと枕に顔を押しつけた。師匠に、ファロットに聞かれたくなかった。


 涙と一緒に、何か心の中の大きな氷の塊のようなものが溶けてゆく気がする。その晩エテンは事件が始まって──否、六年前に家族を失って以来初めて、悲しみと喪失感の前に全てを投げ出すと心の底から声を上げて泣いた。






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