二 家族
エテンはルヴァルフェンサの施した術が解け切るのも待たずに、彼を助け起こしたマシュに縋って、掠れた声で必死に言った。
「ファロットが、ファロットが無事かどうか確認してください! あいつはここに来た時、ファロットが襲われたって言って僕に扉を開けさせたんだ!」
マシュはすぐに頷いて、扉の外に向かって「薄青、ファロットの安全を確認!」とよく通る声で言った。そして抱えたエテンの顔を覗き込んで、「負傷は本当にない? 立ち上がれそう?」と尋ねる。
「大きな負傷はありません。倒れた時に後頭部をぶつけたのが痛いくらい。でも気の術がまだ効いていて……立ち上がるのは難しいです。たぶん僕が風持ちだから、破られないように相当深く侵食された。あと一時間くらいはまともに動けないと思います」
「わかった。医務室に連れて行くから」
そう言ってマシュは軽く目を伏せてすうっと息を吸い、小さな声で「ハルマ=レヴィエ」と唱えた。すると彼女の体がふんわりと幽かに赤く光を放って、ひょいと簡単にエテンを横抱きにして立ち上がる。
「うわっ」
細くて小柄な女性に抱き上げられてしまったエテンは驚きと羞恥心で思わず逃げ出そうともがいたが、彼の体はほとんど言うことをきかず少しばかりぴくりとしただけだったので、幸いにも落とされずに済んだ。
「……内炎魔法が使えるんですか」
肉体を強化する魔法のことである。
「短時間だけだけどね。ちょっとだけ火も持ってるのよ」
マシュが少し自慢げに言って、腕の中のエテンを見下ろすと目を細めて笑った。背筋が冷たくなるようなルヴァルフェンサの笑みと違って、ホッとするような優しい笑顔だ。それに強ばった笑みを返して、ぎゅっと目を閉じるとファロットの無事を祈る。
「あ、報告が来た」
マシュの声がしてパッと目を開けると、淡い緑色の光でできた小鳥が、すうっと滑空して彼女の肩にとまるところだった。伝令の術だ。スズメ大の小さなミミズクが、嘴を開いて人間の声で喋る。
「薄青、ファリア・ルティア=エルレン。魔法名及び愛称ファロットの安全を確認。周辺、異常なし」
「うん、ありがとう」
返事をすると、ミミズクはは小さくホーと鳴いて空気に溶けるように消えた。胸を撫で下ろしているエテンを見て、マシュが「良かったね」と言う。
「はい」
「上の医務室に向かうから」
「えっ」
灰色用の医務室は食堂と同じ階なので、上の医務室と言えば白の区画になる。どうしてと思っているうちにマシュは昇降機に乗り込んで、中のソファにエテンを寝かせた。ふわっと独特の浮遊感と共に銀の鳥籠が上昇を始める。
「あなたの師匠にも事情と容体を説明しておく必要があるから。それに被害者の保護に成功した場合は、守護の堅牢な場所に移ってもらうって決めてあるの。ルヴァルフェンサは『仕切り直し』って言ってたし」
どうやら仕切り直しのようだ、エテン──
笑みと共に告げられた言葉を思い出す。また来るかもしれないと思うと指先が冷えてゆくような感覚がしたが、今は殺されずに済んだ安堵の方が大きかった。手を数回開いたり握ったりして少しずつ体が動くようになってきたことを確かめると、ゆっくりソファから体を起こす。と、吹き抜けの最上部に辿り着いた昇降機の扉へ、さっと駆け寄る人影があった。
「エテン」
「ファロット」
ふらふらのまま立ち上がったエテンは、扉をこじ開けて駆け寄ってきたファロットをぎゅうと抱きしめた。少女が「怖かったのね、もう大丈夫よ」と言う耳元で、「無事でよかった……!」と声にならない声で言う。
「何を言ってるの? それは私の台詞よ。ほんとに、本当に無事で良かった」
「すぐに、部屋へ戻るんだ。君がもし……もし君まで失われてしまったら、僕は生きていかれないよ」
「エテン?」
「ファロット……絶対に、ルヴァルフェンサに君を傷つけさせたりしない」
小さく「エテン、どうしたの?」と呟いた彼女が困ったように見上げた視線を追うと、師匠が立っていた。「私もいいかい?」と囁くので首を傾げると、ファロットと二人まとめて抱きしめられる。
「し、師匠」
師はエテンの呼びかけに応えず、ただ無言のまま回した腕の力をぎゅっと強めた。
「師匠……あの、僕、魔術が使えました」
「君には、私の部屋に来てもらうから」
「え?」
「書斎を君の寝室にできるよう、後で寝台を運んでもらう。鍵もあるし、しばらくそこに住みなさい」
「だめですよ」
エテンがきっぱり首を振ると、師匠は腕を解いて体を起こし、眉を寄せた。
「師弟で同室なのは窮屈かもしれないが、こういう時は我慢しなさい」
「そうじゃありませんよ。ルヴァルフェンサはまだ僕を殺すのを諦めてない。狙われているのに、ファロットと同じ場所で生活するなんてできません。研究室にも、しばらく通いませんから」
「狙われていればこそだ。命の危険から弟子を守らない師匠なんていない」
バシッと言われて少したじろいだが、しかしエテンは譲らなかった。
「僕は絶対に、ファロットを危険には晒さない」
「エ、エテン」
その時ファロットがエテンの寝巻きの袖を引っ張ったので、師弟は揃って彼女を見た。注目を集めた少女は少しだけ頬を赤くして、小さな声で言う。
「エテン……お部屋に来て。あなたが私のために一人になって、それでもしあなたが殺されたりしたら、私は一生後悔するわ。守られて大事な家族を失うより、危険でも一緒にいる方がいい」
どこまで見つめ返しても真っ直ぐで、師匠そっくりの頑固な視線にエテンは負けを悟った。そして心の底で「家族かぁ……」とこっそり落ち込む。彼が譲歩したのがわかったらしい師匠が「決まりだ」と言った。
「……はい」
「じゃあ、医務室に移動します」
マシュが場を仕切るように言って再びエテンを抱えようとしたので、ファロット前でそんなこと絶対にされたくないエテンは慌てて「もう歩けます!」と言った。
「一時間はほとんどまともに歩けないって、君が言ったんじゃない」
「いや、大丈夫。思ったより早く治ったというか」
後ずさろうとして後ろにひっくり返りそうになり、師匠に受け止められた。
「女性に抱えさせるのもなんだし、私が背負って行こう」
師匠が「ほら、乗って」と背中を向けてしゃがむ。助かったと思っておぶさると、師匠は「おや、重くなったなあ」と言いながら立ち上がった。魔術師らしく筋肉なんて全然ついていなさそうな見た目をしているが、思ったよりもぐらぐらしない。
「それで、魔術が使えたというのは?」
歩きながらの師匠の問いに、笛の音の術について詳しく話す。師匠はそれを聞いて「ふむ」と興味深そうに少し上を向いた。
「
「はい!」
エテンが声を弾ませると、師匠達の護衛をしていた数人と小さな声で話をしていたマシュが振り返った。
「それ、やる時はきちんと申請してからにしてくださいね。白の区画であの音量の警報を鳴らされたら、三秒後には扉が蹴破られますよ」
「わかってるさ」
師匠がまだどこか堅さの残る声で笑い、ファロットが「すごいわ、エテン」と微笑んだ。
「本当に……本当によかったわ。エテンがずっと悩んでたの、知ってるもの。それで、エテン、エテンが」
唐突に綺麗な水色の瞳が透き通った水の膜に覆われて、エテンは焦って師匠の背から顔を上げた。彼女の隣を歩いていたマシュが、近寄って背に手を添えてやる。
「ファロット」
エテンがそっと声をかけると、ファロットは唇を震わせながら言葉になっていない泣き声で何か言って、そしてわっと声を上げて泣き出した。それを見ていたエテンもなぜか……唐突に恐怖と安堵が一度に襲ってきたような心地になって、師匠の首にしがみつくと肩に顔を埋める。
「……よく頑張ったね」
師匠が静かに言って、そばにいた鷲族の誰かの手が泣き伏すエテンの頭をぽんぽんと撫でた。
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