第三章 隠された姿

一 意思



 カーテンを半分だけ開けて、真っ暗な部屋に月明かりを入れる。時計を見ると、真夜中を過ぎたところだった。


 エテンはのそりと寝台から起き上がり、喉の渇きを感じて水差しからグラスに半分だけ水を入れた。何か嫌な夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。誰かに強く警告された気がして、それで逃げなきゃと思って走り出したら目が覚めた。何に追われていたんだったか、旅の途中で襲ってきた魔獣、家族を皆殺しにした殺人鬼、それともルヴァルフェンサだったかもしれない。


 その時廊下を走ってくる軽快な足音が聞こえて、エテンはさっとグラスを置くと身を固くした。いつもならば気にも留めないようなことだが、こんな時には何か非常事態ではないかと警戒してしまう。じっと耳を澄まして、足音がどちらからどちらへ向かっているのか──


 コンコンコン、と素早く扉がノックされた。小さく息を呑んで「はい」と答えると、扉の向こうから「エテン、開けてくれ」と聞こえてくる。この声は、たぶんプラディオだ。


「え、どうしたんですか」

「ファロットが襲われた。すぐに上へ来てくれ」

「ファロットが!?」


 裸足のまま部屋を駆け、飛びつくように戸を開けた。とその瞬間、背の高い人影に見下ろされたエテンは反射的に扉を閉めようと取っ手を全力で引いた。

「だ──」

 誰か、と叫ぼうとした口が手のひらで塞がれ、足を払われたエテンは床に転がった。廊下の明かりで逆光になった人影が彼の上にのしかかり、瞳を覗き込んで言った。

「『動くな。声を出すことも禁ずる』」


 ぎゅうっと頭の奥を締め上げられるような感触がして、全身から力が抜けてゆく。相手の服を掴んでいた手がずるりと滑り落ちて投げ出され、口は息をすることしかできなくなった。


 人影がゆっくりと立ち上がって部屋の扉を閉め、そして再びエテンに向き直った。横たわった彼のそばに膝をついたルヴァルフェンサが、耳元で囁くように言う。

「『部屋の外に聞こえない声量ならば、許可しよう』」

「ファロットに! ファロットに何かしたのか!!」

 大声で叫ぶつもりだったが喉は震えず、必死な囁き声のようにしかならなかった。


「落ち着きたまえ」

「答えろ!」


 自分でも驚くほど、恐怖ではなく怒りに支配されていた。魔力が身体中をすごい速さで巡って、皮膚の内側がピリピリと痛い。


「彼女は無事だ、君を陥れるための嘘だよ。嘘を本当にしたくなければ、抵抗をやめることだ」


 その言葉を聞いて、エテンは腹の奥底から息を吐き出した。良かった──そう思った途端に冷えた床の温度がぞっと全身を冷やして、手足がカタカタと震え始める。


「そう、いい子だ」

 月光に照らされた男がゆったりと、褒めるように目を細めた。顔の下半分は布で覆われているが、瞳は──茶色か、青か、緑か、つり目か、垂れ目か、どんなに見つめても認識できない。男だというのはわかる。見下ろされたから、エテンより背は高いはずだ。声は……高いだろうか、低いだろうか?


「……誰だ」

「ルヴァルフェンサ」


 殺人鬼が面白がるような声音で答えた。その感情は伝わるのに、やはり顔立ちも体格もわからない。太っているのか、痩せているのかすらも。


「……ツシじゃないよね?」

 気づくと願うようなか細い声で、そう言っていた。


「それを口で教えるつもりがあるならば、はじめから姿を見せている」

 ルヴァルフェンサの目が再び細まった。物腰にはどこかやわらかさを感じるのに、向けられるのは毒のある鋭い笑みだ。


「どこかに私の名でも書き残されたら困るのでね、少年探偵」

「あなたの正体を暴こうとしたから、僕を襲ったのか」

「いいや、違う」


 ルヴァルフェンサが優雅な仕草で首を振り、手のひらでそっとエテンの腹に触れた。

「無論、私はここへ宝探しに来た。私はルヴァルフェンサ、遺石蒐集家なのだから」


「僕を殺すのか」

 全身はひどく強張って震えていたが、声は辛うじて震えなかった。


「殺す、という言い方は美しくないな」

「美しくない、だって?」

「そうだ、ラグ翁には良い名をありがとうと言っておかねば」

「次は彼を殺す気なのか」

「『君、少し黙りたまえ』」


 その一言で、エテンは再び口が利けなくなった。喉を塞がれているというより、声を出す気力を奪われているような感じだ。耐性がある風持ちのエテンにこれほどの術をかけられるのは……いや、なんだか頭がよく回らない。逃げ出すための、抵抗する意志すらも段々と奪われてゆく。


「この美しい時間を台無しにされては困るのだよ。また黙らされたくなければ、私を興醒めさせないよう気を配ってくれたまえ。──さあ、質問だ。君は、生命とは即ち何であると考える?」


 ルヴァルフェンサがゆっくり一度瞬くと、エテンは再び声が出せるようになった。質問に答えるべきか、否か──今はできるだけ時間を稼ぐべきだ。鷲族の誰かが気づいてくれるまで。


「──意思だ」

「ほう?」

 エテンの答えに、暗い色のマントを着込んだ男が先を促すような視線を寄越す。


「そんな質問をするということは、あなたは遺石こそが生命であると、そう言いたいのかもしれない。けれど僕は違うと思う。魔力は魔力、石は石だ。僕は失った家族の石を持っているけれど、あれは彼らの形見であって彼ら自身じゃない。生命とは笑い、悲しみ、考え、感じる意識だ。その人をその人たらしめる人格にこそ生命は宿ると、僕はそう思う」


「ふむ……思った以上の逸材だな」

 ルヴァルフェンサが不意に手を伸ばしてきたのでエテンは恐怖で身を竦ませたが、彼はエテンの頬に手を添えて瞳を覗き込んだだけだった。


「言葉になかなか趣がある。これはルセラにも、トナにもなかった才能だ。それに、君の考えには一理あると言わざるを得ない──もちろん、生命とは魔力であるという私の持論を変えるつもりはないがね。しかしその上で君の考えを尊重すると、『魔力とは意思である』という新たな可能性が浮かび上がる。つまりそれこそが人や竜、動物が植物よりも強い力を持つ理由であり、植物が魔石を作らぬ理由であり、魔法使いに想像力が求められる理由であると」


 それを聞いたエテンはちょっと興味深いかもしれないと思ったが、殺人鬼の考えを肯定なぞするものかと何も言わなかった。


「……共犯者はいるのか」

「おっと、またくだらない質問が始まってしまった」


 ルヴァルフェンサが楽しげにも聞こえる声で「『静粛に』」と言って、エテンはまたしても無力になった。体は震えているのに、腕や足を動かす方向には力が入らない。殺人鬼の懐から月光を青く反射するナイフが取り出されるのを見ていることしかできない。


「……さぞ美しいだろうね、君の石は。大粒で、透明で、ほんの少し濁っている……絶望の濁りだ。気づいているかね? 先程から君の瞳は、ハシバミ色ではなく深い灰色になっている。普段は君の思考を高めたりしているのだろう潤沢な魔力が全て、私の術を破ることに専念しているということだ。君の魔力は、おそらく君が自覚しているよりずっと多い。測定器では正確な魔力量を計測できぬ体質の者が存在するのを知っているか? 君はきっとそちらだろう。故に塔の正式な記録から推定されるより、『君の意思』はずっと大きな宝石になる」


 ルヴァルフェンサの指がエテンのローブの帯を解いて前をはだけ、下履きをナイフの刃先ですうっとなぞって腹部が露出するように切り開いた。恐怖で叫び出したいのに、めちゃくちゃに暴れたいのに、体が動かない。逃げられない。殺される。


 嫌だ、嫌だ、いやだ──!


 するとその時、身体中を焼き切るような勢いで巡っていた魔力が術の一部を弾き飛ばし、右の手がぴくりと動いた。エテンは必死にそちらへ魔力を動かして──


「『動いてはいけない』」


 また深く重い術が、エテンの全身を拘束した。しかしエテンは既に気づいていた。体は動かないが、魔力なら動かせる。


 ルヴァルフェンサは屈み込んでいた姿勢から一度膝立ちになると、どこか祈るように腹に手を当てて首を垂れた。そして静かな、優しげにも感じる声で「スクラゼナ=イルトルヴェール」と呪文を唱える。青い光が巻き起こって、部屋中が浄化された。水持ちの光に、魔法。


「見せてあげよう、君の生涯で一度きりの、美しい奇跡だ」

 そして黒い影がエテンの上に落ち、ルヴァルフェンサがうっとりとした目で彼の腹に刃を滑らせようとした、その時。


 突然部屋中を覆った大きな魔力の気配に、殺人鬼が弾かれたように顔を上げた。


「魔法陣……そうか、これはしてやられた」

 部屋中を覆い尽くすような巨大な魔法陣が、床につけたエテンの手のひらを起点に黒い影の線で描かれていた。


「しかし残念だな、ここへ来るにあたって見張りの『目』達は一通り無力化してある」

「ただの目印じゃないさ」


 エテンは強がって言ったが、本当は恐怖のあまり呪文を思い出せずにいた。どうせ使えまいと専門分野以外の魔法陣や呪文の暗記を疎かにしてきた罰なのか……いや、けれど目の前のこいつは魔力のことを意思だと言った。意思こそが力になるなら、別にどんな言語だっていいじゃないか。思いを伝えるのが、言葉なんだから。


鳴り響けロゥルアイ!」


 エテンが母国語で絶叫した瞬間、耳をつんざく音量で角笛のような音が真夜中の塔に鳴り響いた。ルヴァルフェンサが跳ねるように立ち上がり、次の瞬間、吹き飛ぶような勢いで扉が蹴破られて黒い小柄な人影が飛び込んできた。


 小さな銀の光が流星のように部屋を横切り、パンと赤い光がそれを弾いた。鷲族がナイフを投げて、ルヴァルフェンサが盾の術でそれを弾いたのだ。水の浄化の後に、火の術を使った。腹に手を当てて佇む男の目が、血のように赤く輝いている。水持ちであり、火持ちでもある?


「応援要請! ルヴァルフェンサを発見!」

 女性の声がそう叫び、今度はナイフが三本連続で投げられた。顕現陣は容易くそれを弾いたが、しかし彼女の目的は犯人の制圧ではなかったらしい。目にも留まらぬ速さで部屋を駆け抜け、『目』のマシュがエテンの前に滑り込んだ。


「……君は見張りではなかったはずだがね」ルヴァルフェンサが呟く。

「見張りのように見える者だけが見張りだとは限らない」

 一緒に鑑識をした時の明るくて女性らしい話し方とは別人のような、冷たい刃物のような声が答えた。

「それはまた、優秀なことだ」


「負傷は?」

 前を向いたままのマシュが短く、エテンに問う。

「ない。けど、動けない」

「わかった」


 エテンを背にした彼女は小さく頷き、ナイフを構えて腰を落とした。その様子を冷静に眺めていたルヴァルフェンサが、ふうとため息をつく。

「……どうやら仕切り直しのようだ、エテン」


 またの機会にしよう、と肩を竦めた男がふらりと部屋を出ようとしたその時、軽い足音と共に二つの影が彼に躍りかかった。飛び込んできたのはプラディオと、ファロルだ。叩きつけた短剣は顕現術に弾かれ、その反動で飛び上がったプラディオが壁を蹴って空中で一回転し、ルヴァルフェンサの背後に着地する。


「……おっと」

 本に挟んだ栞でも落としそうになったかのような気軽な声と共に、ルヴァルフェンサの背中が二枚目の顕現陣で守られた。

「ほどほどにしてくれないかね? 私はあまり反射神経が良い方じゃない」


 無言でファロルがナイフを投げ、何か魔法らしき気配を纏って飛んだそれが、今度は顕現陣の中心にビィンと突き立った。ルヴァルフェンサが「おやおや」と困った声を出し、そしてすうっと息を吸う。


「『動くな』」


 ゆらり、と蝋燭の炎が揺れるような不思議な声音が命じて、全員がその場に崩れ落ちた。ルヴァルフェンサは少しの間黙ってそれを見下ろし、そしてエテンに向き直って微笑んだ。


「この中で最も魔力が多いのは君だね、エテン。勝手にすまないが、少し姿を借りるよ」


 背の高い人影が再び祈るように腹に手を当てると、赤く輝いていた瞳の色がすうっと元に──何色なのか記憶できない曖昧な色に戻った。そして彼の周囲の空間が陽炎のように揺らめいて、すぐにはっきり像を結ぶと、そこにいたのはエテンと瓜二つの少年だ。


「借り物の礼にひとつ教えて差し上げよう。魔力の操作を極めれば、体内の力をまるで遺石を作るかのように中心に向かって凝縮させ……姿を偽るだけでなく、鷲の目からも身長差をごまかせる」


 金茶色の髪の少年がエテンそっくりの声でそう言って微笑み、しゃがみ込むとファロルの懐から細い呪布を取り出して、淡く光る緑の目を覆い隠した。マシュにも同じようにすると立ち上がってもう一度振り返り、にっこり笑う。


「じゃあ、借りていくね」


 僅かに南方訛りのあるエテンの癖を見事に再現して言うと、ルヴァルフェンサが灰色の寝巻きの裾を翻し、部屋の外へ駆け出してゆく。遠くから「鷲族の人達が交戦中で、苦戦してる! 僕はツシの部屋に避難してるから、早く行ってあげて!」と、いかにも必死な声が聞こえてきた。


 それから間もなく、あちこちから駆けつけたらしい鷲族の人間が次々に部屋へ飛び込んできて、中の人間の話を聞くと慌てて飛び出してゆく。名前の出たツシはもちろん、眠っている魔術師達もみんな叩き起こして隅々まで捜索が行われたが、ルヴァルフェンサは見つからなかった。





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