八 ツシ
その夜エテンは久しぶりに自室へ戻り、夕食も久しぶりに灰の食堂へ来た。ファロットと一緒に食べられないのが残念ではあったが、やはり一人の方が落ち着くなとも思って、毎日続くならどちらの方が良いかと無意味に悩む。考えながら鍋から自分でスープをよそって盆に乗せ、チーズを少し大きめに切り出す。うん、やっぱりファロットがいる方がいいな。もし彼女と結婚したら……一人の時間なんてなかなか持てないだろうから、今から慣れておく必要があるかもしれない。
大きめの皿にサラダとソーセージを山盛りにすると、籠からパンを取って隅の方の人が少ない席を探した。そういえば、明後日はエテンが食事当番だ。めんどくさいなあ。
「あ、エテン」
その時、後ろから小さく声を掛けられてエテンは振り返った。彼の声だ。
「ツシ」
「久しぶりだね。師匠のところに行っていたんでしょう? 僕は下層に部屋をもらってたから」
「うん……そうだね」
スープに浮いているキャベツの切れ端をちらちら見ながら歯切れの悪い返事をすると、ツシは不思議そうにエテンを見た。
「……あの、ツシ」
「ん?」
いつも通りの控えめな、優しい微笑み。今まで誰に対しても平気でしていたこの問いかけが、なぜか今はなかなか口から出ない。
「……食事の後、少し時間をもらえるかな」
少し掠れてしまった声で尋ねると、彼は迷いなく頷いた。
「いいよ。談話室でいい?」
「いや、自室の方がいいな。あまり、他に聞かれたくないから」
「わかった。じゃあ君の部屋へ行っていいかい? 今散らかってて」
ツシがエテンの隣の席に盆を置きながら言った。いや、君の部屋を見せて欲しい──そう言うはずだったが、言えなかった。
「……うん」
俯いたエテンに、ツシがそっと微笑みかけた。髪も目も薄い色をしているからだろうか、笑っていても常にどこか儚い感じの雰囲気はとても殺人鬼には見えない。やっぱり違う、絶対に違うから大丈夫だと、エテンはこっそり自分を励ました。
「……おいしいね、このパン。誰が焼いたんだろう?」
気まずそうなエテンを気遣ってか、ツシがさりげなく食事に気を取られたふりをして話を変えた。形の整った丸いパンは少し皮が硬めだが、確かに中がしっとりしていて美味しい。
「さあ……でも、時々すごく出来のいい日があるから、たぶん同じ人が焼いてるんだと思う」
「うん、僕もそう思うよ」
おずおずと微笑み合って、そして沈黙が降りる。これではいけないとスープの具や何かについていくつか盛り上がらない話をしながら、エテンは味のしない食事を終えた。パンもスープも残りが明日の朝食になるから、さっさと今夜のうちに聞き込みを済ませて、朝にゆっくり味わおう。そう考えて静かに呼吸を整え、心の整理をつける。いつもならワインを飲んでいるツシをちょっと羨ましく思ったりするのだが、今日はそんな余裕もなかった。
どちらからともなく立ち上がって、食器を片付けると食堂を出た。エテンの部屋はここよりも六階層上だが、昇降機は混んでいたので階段の方へ向かった。
透き通るような月青石の廊下を並んで歩く。まだ背丈はツシの方がだいぶ高いが、歩幅は同じくらいだ。彼がエテンに合わせているのではなく、もともとこういう控えめな歩き方をする人なのだと思う。
ツシの歳は……確か十九歳とか、そのくらいだったろうか。エテンより少し年上なくらいだが、魔法の才能が豊かで仕事も丁寧なので、塔の最上階付近にある温室の管理の一部を任されている。流石に毎日ではないが、定期的に散水の設備がきちんと動いているか点検したり、木々が病気になっていないか診察したり、部屋の空気を浄化したりしているのだ。灰ローブの中でも数少ない白の領域へ立ち入りが許されている人間で、最も白に近い人物だとも言われている。
そう、彼は塔の中で最も強い水の力を持っている魔法使いだった。魔力の量自体はもっと多い人間がたくさんいるが、自在に魔法が使えるくらい魔力が緻密に体表を巡る体質で、水の神の祝福を得た青い魔力を持っている者となると塔には彼くらいしかいない。部屋をざっと綺麗にする程度なら例えばファロットにも可能だが、指紋まで消し去るような徹底した浄化を魔法陣なしで、それも残滓が出ないような無駄のない塩梅で使えるとなると、エテンには彼しか思い当たる人間がいなかった。
水持ちの魔法使い、樹医としての知識、遺石に関する論文──
「どうぞ」
「お邪魔します」
「お茶淹れるから、待ってて」
部屋にツシを招き入れて椅子を勧めると、エテンは帰りがけに給湯室からもらってきたお湯で紅茶を淹れた。部屋に魔導式の小さいポットを置いている人も多いが、エテンには使えないのでいつもは談話室の暖炉を使ってお湯を沸かしている。今日はツシが代わりにやってくれたので、かなり時間を短縮できた。
「砂糖は? あ、ミルクは取ってくるのを忘れた」
「砂糖だけでいいよ。ふたつ入れてくれる?」
「わかった」
エテンはツシのカップに角砂糖を二つ放り込み、まあツシだからいいかと思って自分のにも二つ入れた。ファロットがいる時はちょっと格好つけて紅茶はストレートか、二杯目でもミルクだけにしているが、本当は甘いのが好きなのだ。
「はい、砂糖ふたつ」
「ありがとう」
ツシがカップを受け取って口をつけ、「美味しい」と微笑む。エテンも向かいに腰掛けて、白磁のカップの耳を指先で落ち着きなくいじった。
「ツシ、その……事件のことなんだけど」
「うん。いろんな人に尋ねて回っているんでしょう? 僕のところにはなかなか来ないなあと思っていたよ」
「……あ、そうなの?」
なんでも訊いてくれていいよと笑顔で言われて、かなり気が楽になった。
「あっ、でももちろん、僕は疑ってないよ。でもラグ爺さんが色々言ってたし……ツシは遺石にも詳しいみたいだから、ほんとに参考だけ、参考にするためだけに、話を聞きたいって」
「うん」
ツシがクスッと笑って、「そこまで言わなくても、エテンが僕を信じてくれてるのはわかってる」と言った。
「そう? なら良かったけど……」
「エテンは心配性だね、友達じゃないか」
「うん」
その言葉には素直に頷いたが、エテンは密かにツシのことを友というよりも家族のように思っていた。彼はエテンが師匠に引き取られて初めてできた友達で、全てをなくして泣き臥せっていたエテンをずっと隣で励ましてくれた、優しい兄のような存在だ。
「じゃあ、一つずつ……二つの事件があった夜、どこにいましたか」
「自分の部屋で眠っていたね。あ、火事が起きてからはエテンと一緒だった」
「うん。……じゃあ、催眠術の魔法が使えますか」
「使えない」
「そっか! そうだよね、ツシは風持ちじゃないから」
これで一つ彼に有利な情報を得られたと、エテンは笑顔になった。それからいくつか基本的な質問を重ねて、証拠になりそうなものが出てこないことにホッとする。
ツシは質問に答えるだけでなく、鷲族の人達に話した内容についても丁寧に思い出しながら教えてくれた。魔力の量、使える魔法、魔術はそこまで得意ではないこと、ルセラやトナとは特に研究でも私生活でも関わりがなかったこと、過激なデモを行うような魔獣保護団体には所属していないこと。ついでに遺石の論文を読むかと尋ねられたので、それはもう目を通してあると首を振る。彼の隠し立てしない態度に触れて、エテンも次第に緊張がほぐれてきた。
「ツシは火の術が使えないけど……火と水の術を両方すごい威力で使えるというのがそもそも有り得ないことだから、これはアリバイにはならないかもしれない。犯人は複数だろうってみんな予想してるだろうし、僕もそうじゃないかって思う。少なくとも二人はいるはずだ。ルセラの部屋を浄化した人物と、トナの部屋を焼き払った人物」
エテンが言うと、ツシが「君の加速増幅陣を光持ちか風持ちが使ったって可能性は?」と首を傾げる。
「それも検討したけど、違うだろうって結論に至った。魔力を増幅させながら回転するのが『目』の人達にはすごく目立って見えるらしくて、どんなに小さくても見逃すことはないだろうって」
「じゃあ、その『目』の人が犯人ってことは?」
「え?」
思わぬ言葉に、一瞬思考が止まる。
「鷲族は魔法の使い手と呼ぶには魔力が少ない人が多いけど、『白』の血が入っているファロットはかなり強い魔法使いでしょう? 塔の術者と違って彼らは魔力量の測定が義務じゃないから、知られていないだけで強い力を持った人物がいるかもしれない。そうじゃなくても、魔石を使えば魔力の不足は補えるし」
「確かに……犯人が魔法を使ってないっていう手がかりは、目の一族の情報だけで成り立ってるね」
エテンは目を丸くして、けれどすぐに眉を寄せた。待てよ、鷲族は土持ちだから、そうなるとルセラの動きを封じた風の催眠術は使えない。あれは魔術で再現不可能と言われている術だから……いや、でも鷲族の中にだって、土持ちじゃない人がいるかもしれない。ファロットは土と水を持っているけど、師匠は色持ちじゃないし。
魔力の量や質は両親から遺伝するものだとずっと思われてきたけれど、最近の研究ではむしろ育ての親に似るとも言われているのだ。つまり神の祝福は本人の気質や能力に応じて得られるもので、血筋はなんら関係ない可能性がある。
「じゃあ、目が緑色に光らない『目』の人を探せばいいってことか」
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
そのツシの声があんまり静かだったので、エテンは「まず、事件の日の見張り当番から調べて……」と考え始めていたのを中断して、彼に向き直った。
「ツシ?」
「なに?」
問い返す彼の声も表情もいつも通りだ。少し雰囲気が変わったと感じたのは気のせいだったのだろうか?
「いや、なんでも」
「そう?」
いや、よく見るとやはり不自然だろうか? 自分が容疑者に上がっているにしては落ち着きすぎているような、そうでもないような……しかし、彼が慌てふためいているところなんてそもそも見たことがないじゃないか。
「神殿に関わりが深い人って可能性も考えてるんだけど」
エテンが気を逸らすように言うと、ツシは「ああ、あの火の顕現陣か」と納得したように頷いた。
「炎が広がらないように抑えていた、あれを見てそう思ったんでしょう? それもわかるけど……僕はむしろ、犯人はあの部屋の近くの住人じゃないかって思ったな」
「自分の部屋が燃えないようにってこと?」
「うん。エテンはその……ああ、外国生まれだから知らないかもしれないけど、ヴェルトルートなら盾の顕現術は自衛用に街の衛兵とかでも覚えてるような術だし、わざわざ魔術で代用しようとする人なんていないんだ。だからあの辺りに住んでる人と、強い火を使える白炎様を、鷲族の皆も気にしてたみたいだよ。白炎様は遺石に関する論文も発表していたし……まあ、彼がそんなことをするような人だとは僕も思わないけど。見かけは怖いけど、根は優しい人だよ」
そう声を沈ませるツシは、どうやら白炎と面識があるらしい。エテンも挨拶くらいはしたことがあるが、彼の人となりを知るほど喋ったことはないし、論文を読んだこともない。
魔法で
「……人間の石ってさ、ツシはどう思う?」
尋ねると、ツシは穏やかに微笑んだまま答えた。
「他と同じだよ。人も、魔獣も、鹿も、兎も、鳥達も、みんな死ねばお腹の中に宝石ができる。人の遺石を大切にするように動物の遺石も道具として利用されない道を作れないかって、そう思って僕は植物の魔石に関する研究をしてるんだ。いまのところ、石を残す植物は発見できてないけどね」
「人の遺石ってさ……少し白く濁るよね、他の動物と違って。それは?」
「エテン、詳しいね? ああそうか、ご家族の……そうだね、少しだけ白く濁る。それを透明度が低くて醜いと言う人もいるけど、僕は悪くないと思うよ。人間の複雑さというか、煩雑さというか、そういうのをよく表してると思わない?」
「……うん、僕もそう思う」
そんな石が欲しくなったりしないのか、という問いは心の中に仕舞い込んだ。そして友を信じると決めたエテンは、次の質問もまた口には出さない──君は魔獣や幻獣の魔石を研究のために大量に消費する人間を、憎んではいないよね?
彼がハッと顔を上げたのは、そう苦い思いで二つの質問を封じ込めた直後だった。突然エテンは思考がさっと晴れ渡るように、その可能性に気がついた。そうだ……これまで物的証拠を追うばかりで、犯人の動機については不思議なくらい浅くしか考えてこなかった。もしかすると、じっくり思案するのは今日が初めてかもしれない。
それから、被害者の共通点にもだ。エテンはそう考えて無意識に拳を握りしめた。魔獣の研究者として魔石を使うルセラの手のひらに残された雷の魔法陣は、雷の術者トナの殺害を示していた。魔石を使ったおもちゃを開発していたトナは、大気の神を示す円環紋の描かれた魔石を握らされていた。次に狙われるのが風持ちだとしたら──
「ツシ、ごめん。続きはまた今度でいいかな」
ガタッと立ち上がったエテンを、ツシが驚いたように見た。
「え、構わないけど……どうしたの?」
「やらなきゃならないことができた」
エテンは目を瞬かせているツシの背中を押して部屋に帰し、廊下を一気に走り抜けて昇降機に飛び乗った。白の区画の一層下で降りて本人確認を受け、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
「師匠! 師匠!」
扉をドンドンと叩くと部屋の中で物音がして、驚いた顔の師匠がすぐに顔を出した。
「どうした、エテン」
一歩下がってエテンを部屋に招き入れ、ソファに座らせる。
「何かあったのかい」
「師匠、風持ちの中で一番魔獣の魔石を消費してる人って誰ですか?」
「……魔石の消費量? それを知りたくてこんな時間に?」
訝しそうにする師匠へ、焦りながら言い募る。
「次の標的かもしれないんです!」
その言葉を聞いた師匠は、さっと真剣な顔になって顎に手を当てた。
「……難しいところだけど、タナエスが多いかもしれないね。彼の研究している凝縮陣は、ずらっと一列に魔石からの供給回路を繋ぐから。エテンも彼の研究室で見なかったかい? 紙の端から端までながーく連なってる魔法陣」
「そうか……タナエスに、すぐ知らせなきゃ」
エテンが部屋を飛び出そうとすると、師匠が「待ちさなさい!」と彼の腕を掴んだ。
「私も一緒に行く。夜に一人で歩き回ってはいけないよ」
それに頷いたエテンは師匠と連れ立って、早足にタナエスの部屋へ向かった。何も言わなくてもファロットが残る部屋の前と、エテン達の後ろに護衛がつく。歩きながら師匠が事情を話すと、すぐに『頭』の女性が廊下の向こうに声を飛ばし、鷲族の長が駆け降りてきた。
そして祈るような思いで、タナエスの部屋の戸を叩く。
すぐに「なんだね」と返事が返された。ほうと安堵の息をつく。戸を開けた彼は風呂上がりらしく髪が湿っていたが、羽織っているのはやはり部屋着には見えない豪奢な刺繍入りのローブだ。いつも通り、なんの負傷も騒動もないタナエス。ひとまず皆で無事を喜んで、手早く彼の護衛体制を整える。
◇
そこまでの全てを終えてから、エテンはようやく安心して自分の部屋へ帰った。犯人がわからずとも次の被害者さえわかっていれば、そこで被害を防ぐことはできる。流石に鷲族全員が犯人なんてことは有り得ないだろうし、手練れの彼らが集団で待ち伏せていれば、ルヴァルフェンサだってきっとすぐに捕まるだろう。
そう、思っていたのだ。
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