二 神殿監察医
「エテン、なぜここに?」
そう問われたエテンが必死に事の経緯を説明すると、師匠は「ふむ」と頷いてから首を捻った。
「参考人が集められているのはこの一層下だよ。部屋を間違えたのかな……まあ何にしろ、昨夜の君は私と一緒だったのだから大丈夫だ。私がきちんと証言してあげるから、君は心配しなくていい」
「はい」
大きな手がかき回すように頭を撫でて、保護者を得た少年はようやく肩の力を抜いた。思わず白いローブの袖口を握ると、神官様の方に向き直っていた師匠が振り返って微笑む。
「──間違えてないよ。容疑者の群れの中にこんな子供を置いとけないから、こっちに連れて来たんだ」
先程の会話を拾ったらしいプラディオがそう言うと、師匠は「そうか、ありがとう」と頷いて神官様に尋ねる。
「それで、遺体の場所まですぐにでもご案内できますが……少し休まれますか?」
すると、弱々しい声がそれに応えた。
「……そうさせていただけますか? 一人で乗馬する時は酔わないんですが、その、目が回ってしまって……もう少し目眩が治まるまで」
そこにいたのはひょろひょろに痩せた、かなり不健康そうな青年だ。思っていたよりずっと若くて、たぶんエテンより三つ四つ上とか、そのくらいだろう。しかしエテンが祝祭の日に見たことのあるやたら布の多い神官服ではなく、全身に細かい蔓模様が刺繍された細身のローブを着ている。もしかして浄化の
「治療用の、汚れない服なのですか?」
思ったらすぐに、エテンは神官様へそう疑問をぶつけていた。しまった、挨拶もなしに質問してしまうのは悪い癖だと言われているのに、またやってしまった。彼は反省の気持ちを込めて首を竦め、「すみません」と小さな声で謝ったが、神官様はエテンに向かって青い顔で実に感じ良くにっこりした。
「そうですよ。病原菌や何かを次の患者さんに移さないように、或いは自らを感染症から守るために、治療院では皆このローブを着ています」
「やっぱり」
予想が的中して笑みを浮かべると、師匠が手のひらで軽くエテンの後頭部をはたいた。
「あっ……失礼しました、ファーリアス様。この度は……ええと、月の塔へ足をお運びいただき……?」
何かそれらしい挨拶をしようとしたが、途中でよくわからなくなって眉を寄せる。するとファーリアスはふふっとおかしそうに笑って「どうぞよろしく、エテン」と言った。
「好奇心旺盛な、良い子ですね」
ファーリアスが顔を上げて師匠を見る。すると師匠は「才能ある子です。きっと将来は白の衣を得るでしょう──残念なことに、挨拶のできないところは私に似てしまったようですがね」と笑う。
師匠の着ている白ローブは、月の塔でも格段に優れた大魔法使い、もしくは大魔術師に与えられる特別なローブだ。それを着られるのは何百人と才能ある者が集まっている塔の中でもほんの数人で、全ての術者の憧れであり、またエテンにとっては叶わぬ夢でもある。
「師匠……僕は術が」
「エテン、その話はしない約束だろう? 君のその優れた」
「──そろそろ、お願いします」
雑談を始めたエテン達を遮るように、プラディオが言った。水を飲んで少しスッキリした顔になったファーリアスが、頷いて床に置いていた往診用のような鞄を持ち上げる。目で追われているのに気づいたのか、彼は目を上げてエテンに微笑みかけた。
「手袋や、その他にもこまごまと色々。それから解剖用の道具です。かわいそうですが、死因をきちんと特定するために」
「へえ」
中を見たいなと思いながら感心して頷いていると、大人達が連れ立って廊下の方に出ていった。と、振り返った師匠が「君も来るかい?」と尋ね、プラディオが慌てた様子で首を振る。
「ダメに決まってるでしょ、子供なんだから」
「大丈夫だね、エテン?」
「はい」
迷わず頷いた。プラディオは彼に死体を見せたくないのだろうが、本当に平気だった。エテンの感受性は「あの時」から、どこかおかしくなってしまっているのだ。
「子供といっても、来年には成人だ。君達はこの子が『風持ち』だからここへ連れてきたのだろう? 叡智の祝福持ちというのはただの催眠術師じゃない。この子の洞察力には光るものがある。何か手掛かりを掴んでくれるかもしれないよ」
「……『白のお方』が、そう仰るなら」
プラディオが不満そうに許可を出し、エテンは彼らの後ろをついて魔術師達の居住層へ向かった。部屋の前に柵がしてある、あそこが犯行現場なのだろう。
「人払いは、もっと広い範囲にした方がいい。最低でもこの階層全て、可能なら上下数層分を。犯人が逃げる途中で何か痕跡を残しているかもしれない」
そう言うと大人達が振り返ってエテンを見つめ、師匠が「ほらね」と言った。プラディオが部屋の前で見張りをしていた「目」の若者に頷きかけると、彼は虚空に向かって「上下三層ずつを封鎖」と言った。どこか遠くから「はぁーい!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
「開けますよ──エテン、怖くなったらすぐ言いなさい」
プラディオが言って、部屋の戸がギィと開かれた。皆がぞろぞろ入ろうとするのを、慌てて呼び止める。
「だめですよ! そんな大人数で。現場にどれだけの汚染物質が落ちると思ってるんです?」
先頭のプラディオが足を止め、困った顔で振り返る。そんな彼に、エテンは畳み掛けるように言った。
「そもそも、神殿の方をお呼びするならなぜ『火竜』の風持ち部隊を呼ばないんですか? 現場検証はあの人達の役目でしょうに」
「……月の塔と神殿は、あまり上手くいっていないからね。『魔術嫌い』の可能性がある人間を簡単に中へ入れるわけにはいかないよ。何かきっかけを与えてしまえばすぐに、事件にかこつけて異端審問官がぞろぞろやってくる」
ルルピルが肩を竦めて、手振りでファーリアスだけ中へ入るよう促した。犯罪に限らず死因調査の専門家である神殿監察医は部屋の外に往診鞄を置き、中から取り出した帽子に髪を全て押し込んだ。そして靴に樹脂の袋を被せると端を紐で縛って、やわらかい紙製のマスクで鼻と口を覆うと、薄い手袋を嵌める。
「水の祝福によって我を清め給え、スクラゼナ=イルトルヴェール」
祈り文句が聞こえ、ファーリアスの全身を淡い浄化の光が取り巻く。彼はエテンの方を向いて「どうですか?」と問うた。
「完璧です」
エテンが言うと、ファーリアスが頷いて現場に足を踏み入れた。
「床を保護するための板はね、置きません。塵の落ちない服ですし、足も都度浄化できますからね、砂や何かを移動させることもありません。水持ち以外が立ち入る時は、そこの鞄に入っていますから使ってください」
そう言いながら、ファーリアスが慎重に足を進める。よく見ると一歩踏み出し、足を持ち上げる度に足裏を浄化しているようだ。
そうして彼は、遺体の下に広がっている血溜まりまで辿り着いた。難しい顔で手に持っていた画帳に鉛筆でさらさらと何か描き、それを机の上に置くとそっとかがみ込む。
「腹部の傷以外に損傷はなさそうですね。これが致命傷でしょう。縦に一本……位置といい長さといい、帝王切開の傷に酷似しています」
「いつ頃亡くなったのかわかります?」
プラディオが問うと、ファーリアスは床に転がったルセラの服を捲ったり目を覗き込んだり、少し腕や脚を動かしてみたりして「死後五、六時間といったところでしょうか。けれど……出血量からして即死ではありませんね。かわいそうに、苦しかったでしょう」と言った。そっと冷たくなった蒼白の額に触れて「天の国で、神々があなたを慰められるように」と呟く。
「下着まではだけられていますが……性暴力の痕跡はありません。胸元は乱れていませんし、そういう意味で体には触れられていない。ただ開腹するために……ええ、手術のように正確に切り込みを入れるために、そうしたのだと思われます。切り口が、医療用のメスを使った時にそっくりです。そうでなくとも、相当切れ味の良いものを使っていますね」
そこまで考察すると、ファーリアスは立ち上がって「ここから先は解剖になりますから、別室で」と言った。
「……足跡がありまんね」
その様子をじっと見守っていたエテンが呟くと、ファーリアスが頷いた。
「ええ。この血溜まりは別として、その他に飛び散ったり滴ったりした血痕も、血を踏んだ足跡も一切ありません。浄化の術の使い手でしょうね」
「浄化の術なんて、ある程度は月の塔の住人なら誰だって使えるよ」
プラディオが言った。師匠が「火持ち以外はね」と補足する。
「けれど、犯人は火持ちではないということがまずひとつわかりました」
エテンが言うと、プラディオが「君、本当に探偵みたいだね……なんでそんなに落ち着いてるの?」と目をぱちぱちさせる。
「僕、こういうの全然怖くないんです」
「……過去にもこういう経験があるの?」
「家族が全員殺されてるんですけど、悲しいだけで遺体自体は別に怖いとか気持ち悪いとか、そういう感じはありませんでした」
「殺された?」
プラディオが眉をひそめ、師匠が口を開いた。
「『時の管理者』っていただろう。全く同時に何人も殺されて、でも目撃情報はいつも一人っていう。エテンの家族は三番目に襲撃された旅の吟遊詩人の一家だったんだけれど、この子はその生き残りでね」
「ふうん……そうか、だから南の方の血が濃い顔してるんだ。けど、こういうのは『怖くない』っていうのが逆に良くない兆候なこともある。アルラダ、君がきちんと見ててあげなよ?」
プラディオがエテンの浅黒い肌や金茶色の髪を眺めながら言うと、師匠は困った顔で頷いた。
「そうだね……まあ多感な時期だから、今は『怖くない自分』がちょっと自慢なくらいでいいんじゃないかな」
「別に自慢にしてません」
言い返したが、師匠は「そうだね、よしよし」と取り合ってくれなかった。子供扱いにふてくされていると、現場から出てきたファーリアスが、鞄から予備の装備を取り出しながら「エテンも入りますか?」と首を傾げる。
「入ります。遺体を運び出す前に、きちんと記録しておかないと」
いかにも鑑識員らしい装備を身につけて少しわくわくしたエテンは、水の神官の助手を連れて現場に足を踏み入れた。まずは部屋の中の遺体の位置を記録して……と思っていると、ファーリアスがぱらりと画帳を見せてくれる。
「このくらいは、
「うわ、上手い」
本職の画家だろうかという巧みさで、部屋の見取り図と遺体のスケッチが描かれていた。血溜まりの広がり方まで正確に。
「じゃあ、あとは入り口までの床と絨毯を少し調べてから、遺体を運び出してもらいましょう」
エテンはそう頷くと、まずはしゃがみ込んで床の上を部屋の端から──とそこで、あれっと首を傾げたエテンは絨毯の毛を指先で念入りにかき分け、そして部屋のあちこちに行って同じことを繰り返した。
「……繊維の隙間まで、塵ひとつない。それも、部屋の隅から隅まで。こんな浄化の術を使えるなんて、水持ちじゃないと有り得ない」
「それか、妖精並みに魔力が強いか」
エテンの呟きに、ファーリアスが可能性を付け足した。
「白ローブに、エルフの方がいますよね。ルーフ様と、その伴侶の」
さっとエテンが振り返って尋ねると、プラディオがなぜか遠い目になって「ないない」と胸の前で手を振った。
「一度エルフと話してみるといいよ。彼らはこんな不気味な殺人なんてしないってすぐわかるから。ものすごく平和というか、のんびりした種族なんだ」
「けれど、エルフは基本的に人間を嫌ってる。目に見える穏やかさだけが全てじゃないかもしれない」
「いやあ……ないない。こないだも、かわいいお花が咲いたから見においでとか、ラグのおじいちゃんに言ってたし」
「ラグ翁に……それはそれは」
師匠が苦笑いで言った。ラグ爺さんは塔の中でも特別偏屈な老魔術師で、いつも不機嫌そうにぶつぶつ独り言を言っている人だ。
「……それで、見に行ったんですか?」
ちょっとだけ気になって尋ねる。
「いや。『花なんぞ眺めとる暇はないわい。この魔法陣が完成すれば世界にどれだけの……」とかぶつぶつ言いながら通り過ぎていったよ」
「そうですか」
なんだつまらないとちょっぴりがっかりしたところで、担架を抱えた鷲族の人達がやってきて、ルセラの遺体は布を掛けられ運び出されていった。ファーリアスが往診鞄の中からいくつか道具を取り出してエテンに手渡し、彼らを追って足早に立ち去る。
それを見送ってから、エテンは渡された樹脂の袋やピンセット、指紋を採るための薬品と特殊なランタン、巻尺などを並べて現場に向き直った。
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