第一章 浄められた部屋

一 呼び出し



 何か緊迫したような空気を感じ取り、エテンは目を覚ました。寝台で布団を被ってはいたが、胸の上には分厚い魔法陣学の本。また読みながら寝てしまったらしい。寝ぼけ眼で見回した狭い自室の中はいつも通りだが、早朝にも関わらず部屋の外が騒がしかった。エテンはのろのろと起き上がって水差しに手を伸ばし、寝起きの頭をシャキッとさせるために一杯の水を飲み干して、廊下へ続く戸を開けようとした。


 とその時素早く三回、乱暴ではないが性急なノックの音。


「エテン、開けてくれ」

「はい」


 溌剌はつらつとした……誰の声だったかな。


 記憶を漁りながら戸を開けると、鮮やかな赤毛を馬の尻尾のように結った、かなり小柄な青年が立っている。雰囲気はすらっとしているが、十四歳のエテンとだいたい同じくらいの背丈だ。

「……おはようございます、アル・プラディオ」

「おはよう。ルルピルでいい」

 青年がそう言ってにこっとするが、女の子がぬいぐるみに呼びかけるみたいな愛称を口にするのが嫌だったエテンは、曖昧に瞬いてその場をやり過ごした。


「それで、どうしたんです?」


 青年の後ろに小さな金髪の少女が隠れているのを見つけて、エテンはよく見ようと少し首を傾けながら言った。五歳かそこらの彼女は青年とお揃いのぴったりとした黒い装束に身を包んでいる。この服を着ているのだから、鷲族わしぞくの子なのだろう。


 マントでもローブでもなく動きやすさ重視の格好をした彼らは、このイカれた研究者だらけの「月の塔」で、確かもう何百年も前から魔法の使い手達の護衛と世話役をこなしているらしい。みんな子供のように背が低くて可愛らしい感じの顔をした、明るい一族だ。そんな鷲族がこんな深刻そうな顔をしているなんて、一体何があったのだろう。


「……ルルピル、そのひとも風持ちだ」

 すると少女が震える小さな声で言った。顔が月夜の蝋燭みたいに真っ青だ。勿論、火をつけていないやつ。

「純度は」

「彩度ゼロ、明度二・五くらい」

「……なかなかだね」


 なんだか聞き慣れない単語が聞こえるが、「風持ち」と言ったので、おそらくはエテンの魔力の話だろう。眉をひそめて見守っていると、プラディオが同じ顔をしてこちらを見た。


「部屋を出るなと言いに来たつもりだったんだが、事情が変わった。一緒に来てもらおう。ローブかマントを羽織っておいで」

「行くってどこへ? 何が起きているんです?」


 問いながらも、言われるがままに椅子の背に掛けてあったローブを寝巻きの上から羽織り、部屋を出て施錠する。こういう時に、魔術師は決してもたもたしない。その場に突っ立って本日のご予定やら何やらについて質問を重ねている間に、何か最高に面白い──或いは歴史を変えるようなものすごい──現象を見逃してしまったりするからだ。


「殺人だよ」

「え?」


 ポロリと鍵を取り落としそうになって握り直し、振り返る。てっきり、誰かが実験に失敗して研究室を吹き飛ばしたとか、そういう話かと思っていたのに。まるっきり予想外の言葉に、エテンは目を丸くしてきょとんとした。


「殺人って……この塔で?」

「そう。ルセラってわかるかい? 魔獣の研究をしてる」

「女性魔術師ですよね、金髪の。こないだ学会で居眠りして椅子から転げ落ちた……え、まさか彼女が殺されたとか、殺したとか」

「殺された方だ」

「誰に? なぜ?」

「わからない」


 よく見ると青褪めて憔悴した、しかしエテンを安心させるためか淡い笑顔で首を振るプラディオの後ろをついて、長くて複雑に入り組んだ階段をいくつも下りる。


 この見渡す限り階段だらけの月の塔は、魔法魔術分野における世界最大にして世界最高峰の研究施設だ。つまり居住者は研究バカの学者ばかりで、こんな状況でも悲鳴を上げたり現場を見ようと詰めかけたりするような人間はいない。


 とはいえみんながみんなお行儀良くてお利口かといえば、全くそんなことはなかった。半数はのこのこ廊下に出てきて腕を組んだり壁に寄りかかったりとそれぞれ頭が良さそうに見えるポーズを決め、「これは魔獣愛護派による犯行ではなかろうか」とか「私も検死に立ち会うべきではないかね?」とか「まさかエテン少年が重要参考人とは」とか好き勝手言っている。向こうの角からバタバタ走ってきた別の鷲族の女性が、大きな声で「だから談話室で大人しくしててくださいってば! じっとしていられないとか、子供ですか!」と言った。


「……もしかして僕、容疑者なんですか?」

 小さな声は、思ったよりも石造りの廊下に響いた。ざわざわしていた廊下がすうっと静まって、皆が耳を澄ましたのがわかった。それをプラディオが呆れた顔で見回して、皆にも聞こえる声で言う。


「状況的に、犯人は風持ちである可能性があるそうだ。だから一応君にも話を聞くことになるけど、流石に子供まで疑ってないよ。君は特に問題児でもないし……その髪型は余程ぐっすり眠ったんだろうしね。人ひとり殺めたようにはとても見えない」

「えっ」


 慌てて頭に手をやると、髪の毛が雨上がりの草むらの如く跳ね放題になっていた。うわっと思ったが、ここで必死に直すのも恥ずかしいので、肩を竦めて気にしないふりをする。


「……状況的にって、どういう」

「争った跡が見当たらない。少なくとも、僕らが見た感じ」

「……なるほど」


 推理小説ではよくある展開だ。風持ち、つまり大気と叡智の神エルフトの祝福を受けて生まれた「気の魔力持ち」は、彼らの得意とする巧みな催眠術で被害者を動けなくして、その間に殺人なり窃盗なりを犯す。思考を操られていると傷つけられても叫ぶことができないから、誰も助けに来ない。


「いつ殺されたんです? 死亡推定時刻は?」

 尋ねると、プラディオがちらっと振り返って言った。

「流石にそこまでは素人じゃわからないから、今は専門の医者を呼んでいるところだよ。……よくそんな言葉を知ってるね」

「……好きなんです、推理小説。探偵ものとか」

「エテン、これは遊びじゃないよ」

 たしなめる声に「わかってます」と返す。

「それがわかっているなら、僕のアリバイを確認できるかと思っただけです。昨夜は遅くまで師の部屋で論文を手伝ってましたから」

「アリバイねえ……何時ごろまでだい?」

「夜中の、確か黒の二時くらいです」

「また子供にそんな時間まで……」


 夜更かしはほどほどにしなさい、とため息をつく青年を見て、エテンはどうやら本当に疑われていないらしいとひっそり息をついた。少しだけ、疑わしいからと地下牢に入れられたりしたらどうしようと思っていたのだ。

 いや、この塔に地下牢なんてものがあるかどうかは知らないが、しかし文字通り雲を貫いている呆れるほど巨大な建造物だ。内部は迷路のようになっているし、床面積はたぶん小さな村なら三つ分はある。どこかにはそんな、暗い歴史の封印された秘密の部屋くらいありそうではないか。


 少し目が回るくらいぐるぐると階段を下りたところで、比較的広めの廊下に出た。この辺りはエテンもあまり来たことがなかったのできょろきょろしていると、ルルピルが「こっちだ」と短く言って心なしか早足になった。無意識なのか拳がぎゅっと握られていて、エテンも静かにそれに続く。


「談話室で話を聞くから──フィルルは見回りの方へ戻ってくれ。広間に戻ればファロルがいるはずだから、指示を仰いで」

「……うん」

 ずっと無言でついてきていた金髪の少女が、涙目で頷くと小走りに廊下の奥へ駆けていった。彼女がノックをする前に突き当たりの部屋の戸が開いて、同じような金髪の人間が出てくると同胞を迎え入れる。たぶん、扉越しに廊下の人影を見ていたのだろう。

 鷲族の中でも緑の瞳が特徴的な「目」の一族は、不思議な千里眼の能力を持っている。けれど普段はその視力を特殊な目隠しで封じているので、彼らがああいう非凡な動きをしているところをエテンはあんまり見たことがなかった。ああ、本当に非常事態なのだなと思う。


「百五十から六十層の伝達は終わった。風の子をひとり連れてきたよ」

 プラディオがテキパキと告げながら入室すると、鷲の装束を着た小柄な女性が振り返った。茶髪なのでこっちは多分「耳」の人だ。無言で観察しながら一人掛け用のソファに腰掛ける。


「あ、ルルピル。お医者様が来たよ。今昇降機に乗ったとこ」

「早いね、どこから連れてきたんだい?」

「馬車じゃなくて、特別一角獣の血が濃い有角馬ゆうかくばに直接相乗りしてもらったから。水のファーリアス様」

「は? 神殿の人間以外でって話だったじゃないか。しかもファーリアスってわりと高位だろ」

 プラディオが突然厳しい顔になったので、ミルクチョコレート色の髪を編んだ女性が叱られた子供のような顔で首を竦める。エテンも一緒に少しだけビクッとしながら、大人達の会話を右、左、右……と、首を右往左往させて聞いた。


「だって、ファーリアス様は魔術友好派だって長老が」

「ほんとに? そんなの聞いたことないけど」

「ほんとだって。『あの子は信頼できるいい子じゃよ』って言ってたもん」

 長老とは、月の塔の長のことである。白い髭を長く伸ばした好々爺で、光の魔法を得意とする大魔術師だ。

「はあ……まあ、呼んじゃったものは仕方ないか。あんまり頑なじゃない人だといいけどね」

「大丈夫でしょ、おじいちゃんのお墨付きなら」


 テンポ良く話す彼らの口調はおおよそいつも通りだが、表情は強張っている。二人以上集まっているのに冗談の一つも言わないしにこにこしてもいない鷲族なんて、今まで一度だって見たことがない。そう思っていると、エテンは段々と胃のあたりがしくしく痛むような気持ちになってきた。脳裏をうろ覚えなルセラの顔がパッと通り過ぎては消えてゆく。金髪を長く伸ばしていて、美人だけれど目の下に濃い隈があって、それから……声はどんな感じだっただろう。本当に殺されてしまったのだろうか? もう、彼女はいなくなってしまったのだろうか?


 考えがどんどん暗い方へ行ってしまいそうだったので、エテンは目の前のテーブルに置かれている火のついていない燭台をじっと見た。周りの大人達がエテンに構うどころではなさそうなのを確かめると、蝋燭の先端に魔力を使って小さな魔法陣を描く。


「フルム=フラナ」

 炎よ燃えろ、と古い言葉で唱えると、魔法陣は一度だけゆらりと揺らいで消え失せた。相変わらず煙も出やしない。エテンは塔で暮らし始めてから毎朝欠かさず同じ練習をしているが、ずっとこの調子だ。陣に魔力を注ぐところまではできている。呪文も正確に唱えている。それ以上することなんてないはずなのに、なぜか術はエテンに応えない。その理由も、だれにもわからない。


 少しずつ俯きながらじっと火の気のない蝋燭を見つめていると、廊下の方がざわざわと騒がしくなって、複数の人間の足音が近づいてきた。プラディオがさっと戸を開けると、神殿の神官様らしい人が鷲族の護衛に囲まれて入ってくる。


「あ、師匠」


 客人の案内役をしていたらしい白ローブ姿の男に、エテンは小走りに駆け寄った。そこそこの歳のはずなのにいつまでも青年のような雰囲気のその人が、さっと顔を上げて不思議そうにこちらを見た。





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