終章
「……とりあえず報告だけ」
数日後、俺は琥珀の元を訪ねた。
日を跨いだ理由は二つ。
一つはそのまま遠くまで行って話を聞いてきたから。
もう一つは全力疾走して筋肉痛になり、動けなかったから。
『結城は演技力歌唱力はあるが、基礎体力がない』
いつも学校で言われているお決まり文句だ。
緊張しているのか、少し固い表情をした琥珀を前に、俺は事実を簡潔に告げた。
「この間の子は本人じゃなかったよ。あの子の妹の、お孫さんだった。本人は亡くなったって……とっくの昔に」
「とっくの昔?」
「あぁ。彼女が学生の頃の夏休み――交通事故で亡くなったって」
勢いに任せて女子に話しかけたせいで散々な目に遭ったが、事情を説明すると少女は厚意で俺を家に招いてくれた。
琥珀が間違えたのはきっと、血縁関係で気配が似ていたからなんだろう。
当時のことを話してくれたのは、少女と同居していた探し人の妹だった。
「夏休みの帰省中、事故に遭ってそれっきりだったみたいだ。だから帰って来なかったし、図書館にも来れなかったんだ」
約束を忘れていたわけではなかった――それが知れただけでも、俺はホッとした。
でも――
「そうか……」
肩を落とす琥珀。
何となくこうなる予感がしたから、本当はあんまり言いたくなかった。
「……」
かける言葉がない。
先に口を開いたのは、琥珀だった。
「……いてた」
「え?」
聞き返す俺に、「……気づいてた」と琥珀は顔をあげた。
「彼女に、残された時間がないことぐらい。信仰者のいない力もない神に話しかけられる者など、強い者か死期が近い者ぐらいだから」
そう言って無理矢理笑みを作ると、俯いた。
「そうか……分かってはいたが、亡くなっていたか……そうか……」
繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせるようにして呟く琥珀。その琥珀色の瞳から、静かに涙が零れる。
「琥珀……」
俺はいたたまれなくなって、アヤメさんからもらったリストを広げる。
今回の女性もこの中に入っていたが、肝心の名前までは探せなかったらしい。
当時の様子と、車に跳ねられて死亡という文字が素っ気なく載せられていた。
――この人じゃないといいなって思ってたんだけどな。
悪い予感ほどよく当たる。嫌と思えば思うほど。
かける言葉が見つからず、鉛のような沈黙が続く。
しばらくして、琥珀が再び口を開いた。
「……本が何故好きか、聞いたことがある。すると彼女は答えた。『本は出会いを運んでくれるから』と」
前にチラッと聞いた内容だ。
文字を一緒に勉強するきっかけになった問い。
昔話を語るように話し出した琥珀は、本棚におさめられていた下巻を手にした。
「いろんな世界へ連れていってくれる、この世界じゃ出来ないことだって出来る、勇気だって感動だって怖さだって教えてくれる。……本の世界は出会いの世界なんだって、あらゆる世界への扉なんだって」
下巻を開き、パラパラとめくる。
それは何十年もずっと残された、彼女が愛した物語。
かつての少女も、琥珀のように頁をめくっていたのかもしれない。
「私は本を読んだことはないが、ある意味この本が彼女と出会うきっかけになった。……私にとっても、この本が出会いを運んでくれたんだ。だが――」
言葉を切る琥珀。俯いていた顔をもう一度あげると、ゆっくり微笑んだ。
「出会いは同時に、別れも生んでしまうのだな。……私は、あの子が名付けてくれた『琥珀』という名が忘れられない」
「忘れられないのだ」と本をパタンと閉じて紡がれた言葉は、寂しそうに震えていた。
出会いは同時に、別れを生む――その言葉が、俺の胸にじんわりと響く。
出会いと別れは表裏一体だ。永遠なんて、ないのだから。
でも――
「琥珀、これ……」
渡すタイミングが掴めないまま、ずっと鞄に入れていた『預かりもの』を取り出す。
琥珀は目を丸くして、受け取ったものを眺めた。
「これは……上巻……」
「あの子が借りていった本の上巻。遺品の中にあったみたい。ずっと返せなくて、困ってたんだって」
家に伺った際、琥珀のことに触れると、彼女の妹は『あぁ!』と膝を叩いた。
『姉さんが夏休み中、ずっとこの本とにらめっこしてたから、記憶に残ってて。お相手さんに渡してあげて。姉さん、一緒に勉強するんだって、凄く嬉しそうに話してたから』
皺の刻まれた手で、しわくちゃの笑顔で、かつての少女の妹はそう言っていた。
「……例え別れが訪れても『出会い』がもたらしたものは、なくならない。俺はそう思う」
これは希望論だ。
アヤメさんが言った通り、人の繋がりは不安定で不確かだから。物みたいに形がないから。
だけど俺はやっぱり、希望論でも信じたい。
――その上巻がきっと、何よりの証拠だと思うから。
「なくならない……」
呟いた琥珀がすっかり埃にまみれた上巻を開く。すると、何枚か紙がはらりと落ちた。
「これは……」
拾い上げられたその紙を、俺も横から覗き込む。
落ちた紙は原稿用紙のようだった。本文を丸写しし、漢字の部分に平仮名が振ってある。
どうやら『分かりやすく』とはこのことだったらしい。
「最初の一章ぶんまで書いてある。完成しないまま、亡くなったんだ」
きっと彼女はまた一緒に勉強する日を夢に見て、この本を琥珀用に訳していたのだろう。
でも、その日が来ることはなく、彼女の夏休みが終わることはなかった。
それは、約束を待ち続けた琥珀もまた――
「……約束を、忘れたわけではなかったんだな」
本と原稿用紙を交互に見た琥珀は、ため息をついた。
「今何しているか分かったら、腹いせにこの地を呪ってやろうかと思ったんだが。……あいつが好きだと言ったこの場所を、今更呪うなどできるはずがあるまい。壊すには、思い出が増えすぎた」
「残念だ」と言うわりには嬉しそうな琥珀。
つくづく素直じゃないな、と思っていると、俺を正面に見た。
「彼女との思い出も、カンナとの縁も、全てはこの本の出会いがもたらしたこと。別れがあっても、出会いがもたらすものはなくならない……そうだな、その通りだ」
頷いた琥珀は本を大事そうに抱えると、一礼した。
「ありがとう、カンナ」
「……うん」
素直に頭を下げられると、それはそれで琥珀らしくなくて気持ち悪い。
それでも、その言葉に嘘偽りのない真っ直ぐな気持ちが込められているのは伝わってきた。
本が繋いだ、出会いという名の縁。
その中に俺が入っていることが、少しだけ嬉しい。
「世話になったし礼をせねばな。何がいい? 祟りたい奴がいたら、全力で祟るぞ?」
「土地神なのになんでそんな物騒なんだよ……あ、その本読み終わったら借りてもいい? 読んでみたいんだ、俺も」
彼女が愛した物語を、この目で見てみたい。
本は様々な出会いの扉。いつだって、その頁が開かれるのを待っている。
この古めかしく分厚い本は、いったいどんな出会いを運んでくれるのだろう。
俺に、どんな世界を見せてくれるのだろうか。
「琥珀って、本当の名前は何なんだ?」
「教えない。名を手がかりにあれこれ調べられても困るからな。琥珀色の瞳だから『琥珀』って、あいつも安直なもんだ」
とろりと滑らかな蜂蜜のような、優しい琥珀色の瞳を細める琥珀。その表情はすっきりと穏やかだ。
本の裏表紙から貸し出しカードを取り出すと、俺に見せてきた。
「この紙に書かれているのは、彼女の名前か?」
すっかりシミだらけになってしまった、セピア色の貸し出しカード。
その最後の欄には、原稿用紙と同じ丸くて可愛らしい文字が書かれていた。
「そうみたいだ。名前が書いてある」
「私に漢字は読めない。読んでくれないだろうか。彼女の名は、何と言うんだ?」
本がもたらす彼女の新たな一面との出会い。
それは数十年経った今、ようやく明かされる謎。
俺は深呼吸すると、緊張した表情の土地神に向かって、その名を静かに読み上げた。
「彼女の名前は――」
――Fin――
いつかの頁 有里 ソルト @saltyflower
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