「言葉、表現」の話

 私のような者がこういうことを言うのは烏滸がましいかもしれないが、言葉とは流動的なものであるべきだ、と私は思う。

 何を言っているのか、判然としないだろうと思うので、まず一つ例を紹介して説明していく。昨今のインターネット上において、「独擅場どくせんじょう」が正しいか、「独壇場どくだんじょう」が正しいか、という論争を目にしたことがある人は多いのではないだろうか。この例に関しては、元来の読み、漢字は「独擅場どくせんじょう」が正しいとされている。それに基づいて、「独壇場どくだんじょう」という言葉を使っている場面を見ると「誤用だ!」と騒ぎ立てる輩もいる。ここで議論したいのは「どちらが正しいか」や「こうした輩は間違っているか」などではなく、「そもそも受け手側が理解しているのならどちらでもいいのではないか」という事だ。「どくせんじょう」と言って、すぐに受け手が分からなければ意味はないし、「どくだんじょう」と言ってすぐに受け手が理解できるのであれば、それは「正しい使い方」ということにならないだろうか。

 また違う例を出そう。「風がびゅうびゅう吹いている」という一文があったとする。しかし実際には、風は「びゅうびゅう」という音を立てていたのだろうか。「びゅうびゅう」という語を使用したのは、「風はびゅうびゅうと吹くものだ」という、従来からの固定観念にとらわれた結果ではないだろうか。もしもこの文を書いた人間の耳に「びょうびょう」と聞こえたのなら、「風はびゅうびゅう吹くもの」という凝り固まった考えに左右されることなく、「びょうびょう」という表現にするのが「正しい」のではないだろうか。

 私が言いたい流動的、というのはつまり、「その場その場にあった使い方をしていて、さらにそれが受け手に理解されるのであれば、どんな言葉を使っても、どんな使い方をしても良い」という意味である。言葉の使い方はある程度決まっているものの、たとえその使っている言葉が少し違ったとしてもそれは書き手の勝手であるし、表現にしても使い手がそのように感じているのであれば、正しいか間違っているかといった議論というのは不毛である。

 ここで注意してもらいたいのは、私は別に「間違った使い方をしてもかまわない」と言っているわけではない、ということだ。確かに従来とは違う使い方をしてもいいのではないか、という趣旨のことは言った。しかしそれはあくまで「使い手にその使い方をしたいという意思がある」ことが前提になっている。例えば先ほどの「どくせんじょう」と「どくだんじょう」の例で考えると、何か確固たる意志があって「私は『どくだんじょう』という言葉を使います!」というのならその用法の正誤を論ずるのは不毛であるが、「あっ、本当は『どくせんじょう』が正しいのか。でもまあわかるでしょ」というような妥協したような使い方を認めているわけではないのだ。

 さて、ここまで言葉や表現の話を長々語ってきたが、「そもそもなんでそう思ったの?」ということを説明していこうと思う。これは一言で言ってしまうと「つまらない」と感じたからだ。私たち人間というのは無数の感情、感覚というものを有している。しかしながら、それを表現するための言葉というのは非常に少ない。同じ「楽しい」でも、場面によって感じ方が違うということはままあることである。そうした場面において、その感情を表現するために「楽しい」という言葉しか存在しないのであれば、せっかく人間が感じている細かな感情のニュアンスというものが、「楽しい」という言葉の枠にはめるためにそぎ落とされてしまう。それではあらゆるものが一律の表現になってしまって、非常に退屈であると言わざるを得ない。故に、あらゆる言葉を駆使して、時にはそれまで結びついていなかった言葉と言葉をつなぎ合わせて、より繊細に内面を表現していくことが重要である、と考えるようになったのだ。

 言葉、というものは有限ではあるが、組み合わせや新たな用法によって無数の表現が眠っている。最初に言ったように私のようなものがこういうことをつらつらと並べたてるのはおこがましいと思うかもしれないが、今までの言葉の枠というものを超えて、様々な表現が出てくれば面白いなと私は思う。

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紙飛行機 芹沢カモノハシ @snow_rabbit

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