「嫌いな人間」の話

 自分は人が嫌いである。

 より正確にいうのなら、自分は他人との関わり、会話などというものが煩わしくてしょうがない。できる限りは回避したいと思っている。

 今回は、自分が嫌いな人間を吐き出すことで、自分の中のものを整理していく。こうした目的を前提とするので、ほとんど愚痴のような形になってしまう事をここに明記しておく。こんなものを読んでくださる読者の方々には、この文章が非常に不快なものに感じる危険性があることをご理解いただきたい。

 

 自分が他者との関わりの中でまず何よりも嫌なのが、感情に任せてものを言い、全く冷静な議論・口論が成り立たない人間である。

 例えば何か気に入らないことがあったとして、それに対して自分としては冷静に状況を把握して、相手が何に怒っているのか、何が気に入らなかったのかを推測し、こちらに非があると判断すればこちらが謝罪することも視野に入れ、相手と会話をしていこうとする。そういった場合に、相手が冷静なままならばまだいい。しかし、こういった場合相手は感情を露わにして、ヒステリックに喚き散らしていることが多い。その場合最悪である。何せ会話が通じない。大人と大人の会話であるはずなのに、こちらはまるで赤子を相手にしているかのような錯覚にすら陥る。こういう相手との会話においては、自分の方が冷静になっているため、たいていの場合自分の方から非を認めなければ鎮火しない。これが非常に気に入らない。

 こういった相手はそもそも口論に対する意識が根本から異なっているのだと思う。彼らは冷静に話をしたいわけではなく、非がどちらにあるかを判断したいなどとは微塵も思っていないのだ。彼らのこういう場合の基本原理とは、すなわち「相手に謝ってほしい」である。つまりきわめて自己中心的な考え方に基づいて、「自分に非はなく、相手がまず謝るべきである」と思い込んでいる人間がこうしたヒステリーを起こすのだ。こういう相手は非常に厄介だ。なまじ今までの人生で他人に気を遣われてその腐った考えを叩き直す機会を与えられなかったばかりに、その子供じみた甘えた発想をより強固に自身の芯に根付かせ、もう既に他人の言葉などでは変化しないほどにがちがちに固めてしまっている。そんな自分のやったことやら現実やらに責任も持てない精神年齢が幼いまま年だけ取ったような人間なんぞにかかずらっている暇などまともな大人にはない。しかしながらこちらが下手に出てやればまるでそれが当たり前のことかのように機嫌を直すのである。世の人間はお前の顔色を窺わねば生きていけないわけではない。

 さらに厄介なのがこういうヤツが徒党を組んでやがる場合である。この場合非常にたちが悪い。だいたいこういった徒党を組んでいるときはリーダー格のやつがこういう腐った奴であることが多い。なぜならこういう奴らは半端なリーダーシップを持っていたばっかりに自分が偉いのだと勘違いして、自分の行いや考えやらを変えようとも思わずに育ってきた人間が多いからである。さらにこういう奴に付き従う人間というのはだいたいがグループに所属していることを最上の目標に設定して、リーダー格の奴の顔色を逐一伺いながらびくびくしている奴らで、リーダー格の人間に意見をすることなどまずない。故にこういう徒党という小さい世界で大将を気取っている蛙というのは、すべての世界がそうであるという幻想を抱きながらこちらへ接触してきて、自分のいうことがすべて正しいとでも思っているように意見を言い出すのである。こちらとしても一対一であればまだしも、徒党で来られてはどうしようもないし、まして関係ない奴らだった場合どうすればいいかわからない。数とは力だ。こうした奴らに絡まれた場合、嵐が過ぎ去るのを待つほかない。

 

 次に自分の嫌いな人間は、自分の考えを押し付けようとしてくる人間である。

例えばそれは趣味であったり、生活様式であったり、仕事であったり様々である。本人たちとしては所謂「良かれと思って」というヤツなのだろうが、こちらからすれば「大きなお世話」というものである。こういう輩は善意を持っていることがほとんどなので非常にたちが悪い。なにせ無碍に扱えば角がたち、逆にその意見を受け入れたのならその次はこう、その次はこうと親切の押し売りがエスカレートしていく。こちらとしてはいくら善意だとはいえそんなものはいらない。故にこちらとしては丁重に断る、という行動をとる必要があり、慎重に言葉を選んで相手との関係を悪いものにしないように努めなくてはならない。そんな努力をしてやるほど、お前に義理はない。

 また、「お前は間違っている。こうするのが正しい」といった意見を押し付けてくる奴というのは非常に厚かましく厄介なものである。他人の事なんぞに意見する暇があるのなら自分のことに集中していろと言いたくなるが、こういうやつらは大抵の場合自分が正しいのだと信じて疑わない。別にこちらは正しいとか間違っているとかで判断して生きているわけではない。そもそも正誤の定義などどこにもない。だというのに一方的に意見を押し付けて一歩も退かない。 

 こういうやつらは想像力にかけているのだ、と自分は思うことにした。こういうやつらは物事を一つの側面からしか見ていない。否、見えていない。その側面が何なのかは知らないし知りたくもない、そして何だろうとかまわないが、ともかく他の側面が見えていないのである。例えば本ばかり読んでいないで勉強しなさいなどと子供に言うのは、勉強が至上の学習材料であるという考え方でしか判断していないからであり、実際には小説だろうと漫画だろうとゲームだろうとネットだろうとある程度の学習材料にはなる。こうした側面というものにこだわりすぎると新たな発見や重要な要素というのを見逃すことにつながる。その考えの立場から改めてこういうやつらを見ると哀れにすら見えてくるから不思議なものだ。


 最後に、妙に上から接してくる奴である。

 ここまで読んでいただけた読者にはわかっているかもしれないが、自分は随分ひねくれねじくれた人間である。故に自分は例えば教師や上司などの目上の人間に褒められるなどしても上から目線に感じ不快になるのだが、ここで取り扱うのはあくまで立場もないのに上から接してくる奴である。

 こういう奴はもっと自分の考えを隠す努力をしろと言いたい。こちらを下に見ているという意識が透けて見えるようで非常に腹が立つ。そんなに下手糞な内心の隠し方でよくもまあこちらを下に見ることが出来るものである。自分が思うに、こういう奴は自尊心ばっかり高いナルシスト気質の人間なのだろうと思う。自分が一番上であるという意識のもとに人と接するが故に他者にそのねじれ狂った根性を見抜かれていることにも気づかず、嫌われているはずなどないと自分を正確に評価もできない馬鹿の成れの果てがこういう奴である。

 こういう奴は周りを見ない。しかし周りを見ないが故に自分の他者からの評価に気づかず、さらに露骨な態度をとり、どんどん一人で増長していく。バベルの塔でも立てるつもりかというほどの高い不安定な足場の上に立つがゆえに、足元の様子が見えず、また空にも届かない。そして他者からの評価が現実的な指標(例えば数字、出世など)で明らかになると、その砂上の楼閣はもろくも崩れ去る。こういう事態に陥った奴に対してはもはや何の感情も抱かない。


 ここまで自分の嫌いな人間というのを見てきたが、ここに書き連ねたものはほんの一部である、ということが分かった。結局自分の中では、一番嫌いな人間や二番目などはいるものの、どいつもこいつも団栗の背比べであった。やはり自分は人間と接するのが嫌いである、というのが一番正しいであろう。

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