俺を置いて行かないで
萩野 智
俺を置いて行かないで
その日は、朝から妙に蒸し暑くて、息苦しいくらいの日だった。
気温が高すぎてクーラーの効きがかなり悪い。
玄関でスニーカーを履くと、お決まりの学生鞄と野球道具が入ったバッグを肩にかけて立ち上がった。
手を掛けたドアノブが熱を帯びている。思わず手を離して、その手をズボンの太もも辺りで拭いていると、後ろから声を掛けられた。
「ほら、お弁当、忘れてるわよ」
振り返ると、目の前に水色の布があった。俺の方にぐいっと伸ばした母さんの手に、弁当箱が入った水色の包みが握られている。
「あ、うん」
弁当を受け取ろうと右手を伸ばした。
「あ、」
そう言って、不意に母さんが腕を引っ込める。
「え?」
俺の手は当たり前のように空を切った。思わず瞬きをして母さんを見た。
「いやだ、今日は学校お休みだったじゃない」
母さんがそう呟いた。
――え?そう、だっけ?今日は休校だったか?
うろ覚えのスケジュールなので確信がない。母さんがそう言うならそうなのだろう。
「あ、でも、学校が休みでも部活はあるから」
俺は脱ぎかけた靴を履きなおした。そう、学校が休みなら朝から昼過ぎまで野球部の練習に参加しなくてはならない。
「部活も今日は休みでしょ」
「は?」
「そう聞いてるわ」
「……俺は聞いてない」
部活が休みってことは、めったにない。それこそ雨が降ろうが槍が降ろうが部活はある。コーチが恐ろしく本気だし、規律も厳しい。
「とにかく、一度行ってくる。もし休みだったら、帰ってくるから」
「でも、こんなに暑い日に野球なんて……」
確かに熱中症になってもおかしくもない暑さだ。でも、それでも、部活はあるかもしれない。勝手に休もうものなら、どんな制裁が下るか分からない。
「行ってきます」
俺は母さんの伸ばした手を振り切るようにドアを開けて外に出た。
外に出ると、風があるだけ少しはましなような気がした。
玄関先では、庭で放し飼いにしている柴犬のシロが尻尾をちぎれそうなほど振りながら纏わりついてきた。
シロにくっつかれると暑さが倍増する。それでも、シロの期待に満ちた瞳を見返しながら、わしわしと頭を撫ぜた。
「ごめんよ。これから学校に行くんだ。散歩はまた今度な」
シロはいつも俺と散歩に行きたがる。俺がリードを握っている時は、母さんや妹の時とは違って勢いよく走っても大丈夫だと思っているようだ。
後ろ足で立って、前足で必死に俺の脚に縋りついている。
「ほら、シロ。離せ。部活に遅れちゃうから」
それでも、シロの足はがっしりと俺の脚を抱き締めている。黒くキラキラした瞳で俺を見ていた。
ああ、でも。もう、行かないと。
俺はもう一度、シロの頭を撫ぜると、無理やりシロの前足を俺の脚からはがした。
「くうう」
諦めたように、シロが鳴いた。
強い日差しが照り付ける中を、いつものように中学校への道を歩いていた。幸い俺の中学は家から近く、歩いて20分ほどで着く。
住んでいる地区の住宅街を抜けると、大きめの通りに出る。ガードレールのある歩道を心もち急ぎ足で歩くと、途端に汗が噴き出してきた。
でも、まあ、部活の始まる時間には余裕で間に合いそうだ。
突然、プップーと前からくる車にクラクションを鳴らされた。
見覚えのある車に、思わず立ち止まる。
急ブレーキを踏んだかのように俺の横に停まったのは、うちの車だった。
運転席には父親が乗っていた。助手席の窓が自動で開く。
「何やってんだこんな所で。遅れるぞ」
運転席から身を乗り出すようにして、少しきつい口調が降ってきた。
「……大丈夫だよ」
ぶっきらぼうに言い捨てる。
「もうすぐ着くし」
「いや、まだけっこうあるぞ」
そんなことない。学校までもう少しだ。
「乗れよ」
父親がドアを開けようとする。
「いいよ」
「乗れって。時間がない」
「いいっ」
俺はそう言って駆け出した。学校に車で乗り付けるなんて、かなり恥ずかしい。まだ、時間もそんなに切羽詰まっていないはずだ。
暑い中走ったせいで、滝のような汗が背筋を伝っていく。
すぐに車通りをそれて、商店街が並ぶ通りに入る。
昔ながらの商店街。八百屋の隣には肉屋、肉屋の隣には酒屋、酒屋の隣には花屋。こぢんまりとした店が並んでいて、かなり歳がいったおじいさんやおばあさんが店を切り盛りしている。
朝早くから開いている肉屋のコロッケの匂いに魅かれながら歩いていると、背後から声を掛けられた。
「お兄ちゃん」
振り返るとそこに妹が立っていた。妹はまだ小学校二年生だ。母さんと一緒に来たのだと思って辺りを見まわしたが、母さんがいる様子はなかった。
一人で来たのだろうか。
「これ、持ってて」
捧げるようにした両手の上にちょこんと乗っていたのは、小さいうさぎの人形だった。
「え?」
唐突な申し出に、俺はとっさに動けずにいた。
うさぎの人形は白いシャツに短い黒いパンツ、白いスニーカーを履いている。ちょうど、俺の中学の制服に似ていた。
妹が首をかしげながら続ける。
「お母さんうさぎとお父さんうさぎはおうちにいるから。これはお兄ちゃんうさぎね」
ああ、そう言えば、最近、妹はうさぎの家族ごっごに夢中になっていた。
家のリビングの一角は、ずいぶん立派なミニチュアの家と庭に占拠されている。家具とか調理器具とか全部がそろっている。とういうか、そろえようと思えば、いくらでもオプションがある。その分、お金がかかる仕組みだ。
「いや、これも家に置いとけよ」
なんで俺がこのうさぎを持って学校に行かなくちゃいけないんだ。
「でも……」
妹がうさぎの人形をキュッと握って、泣きそうな顔で俺を見た。
「わ、わかった。分かった。持ってくよ」
思わずそう言っていた。
妹の手からうさぎの人形を受け取る。なんだかんだ言って、この年の離れた妹には弱い。
「お兄ちゃん、早く帰って来てね」
妹が首をかしげて俺を見た。
「ああ、うん」
「私たち、もうすぐ、出かけちゃうから」
「どこか行くのか」
「うん、だから、早く帰ってきて。お兄ちゃんも一緒に行こう」
「もし部活があったら、そんなに早く帰れないよ」
「……そうなの?」
「早くて昼過ぎだよ」
「ええっ、待てないよ」
「先行ってていいよ。俺は行かなくてもいいし」
どうせ、買い物か何かだろう。
「いやっ、お兄ちゃんも一緒に行くの。だから、早く帰ってきて」
怒ったように頬を膨らませる。
「……分かったよ。なるべく早く帰る」
「約束ね」
妹が右手の小指を出したので、自分の小指を絡めた。妹の小指がびっくりするほど熱い。小さい子は体に熱がこもりやすい。大丈夫だろうか。“熱中症”の文字が頭の中に浮かんだ。つないだ小指を小さく揺すりながら、妹の表情を伺う。
妹の顔は、それほど火照ってはいないようだった。少しほっとして、俺は指を離した。
妹はちょっと瞳を伏せてからニコッと笑って、小さい手を振った。
――着かない。
いつまでたっても学校に着かない。
さっきからすっと歩いているのに、一向に学校が見えてこない。
途切れなく続く商店街。見覚えのある店ばかりだが、終わりが見えない。同じ店が繰り返されているわけでもないのに、いつまで経っても道の両側に店が連なっている。
商店街を過ぎれば、学校は目の前のはずだ。
でも、商店街が終わらない。
――何だ。いったい、どういうことだ。
俺はつんのめるように駆け出した。懸命に腕を振って、無理やり足を出して、ただひたすら走った。
このまま突っ切るように走れば、走り抜けられるのではないだろうか。
この、永遠に続くような商店街から出られるのではないか。
ふと、汗をかいていない自分に気が付いた。いくら走っても、何故かもう、暑くはなかった。あんなに高かった気温が一気に冷えたようだった。
しばらく走って、俺は足を止めた。膝に両腕をついて、はあはあと引き攣れたような息を吐く。
どうやっても、商店街から出られない。
荒い息のまま顔を上げると、西の空に太陽が赤く薄くにじんでいた。そんなに時間が経ったはずはないのに、もう、夕暮れなのだろうか。
「……なのよ」
ふいに、聞き覚えのある声が聞こえた。
――誰、だっけ?
首をまわして声のする方を見た。
八百屋の前で、二人の女性が話している。ああ、一人は隣の家のおばさんだ。そうか、おばさんの声だったのか。
話に夢中のおばさんは俺には気付かない。話相手の買い物袋から飛び出たネギの先端が、おばちゃんのスカートに刺さっているが、二人とも気にしていないようだった。
興奮気味のおばさんの声が耳に響く。
「……それでね、もお、大慌てよ。とりあえず元栓確認して、非常用袋なんてどこにしまったんだか分からないし」
「ほんと、私も分からないわ」
「でしょ、めったにって言うか、ぜんぜん使わないから、しまい込んじゃうのよ」
めったに使わないから非常用なんじゃないか。俺は、眉間に皺を寄せるようにしておばさんを見た。
「それで、主人とバタバタと外へ逃げ出してね。家から少し離れて茫然としてたら、消防車がやって来て」
「はああ、大変、お家、大丈夫だったの?」
「幸い、うちは耐火用に家を建て直したばかりだったから、少しの被害で済んだのよ」
「ああ、良かったわね。結構な火の勢いだったんでしょ」
「そうよお。気が付いたらお隣がもう火の海で」
――お隣?
おばさんの家の隣。俺の家じゃないとすると、反対隣りか。
火事?火事になったのか?
俺の家も危ないんじゃないか。ああ、でも、おばさんの家が何とか持ちこたえたんだったら、俺の家は大丈夫なはずだ。
え?でも、いつ?今、さっきか?
「今日の朝、けっこう早い時間だったわよね」
「そうよ」
はあ?そんな火事なかったぞ。
それって、俺が家を出た後ってことか。
話相手のおばちゃんが思い出したかのように口を開いた。
「ワンちゃんは無事だったの?たしか、柴犬がいたわよね」
「ああ、うん。私なんかにも懐いてくれて、すごく可愛かったんだけど……お庭で放し飼いにしてたじゃない?だから、逃げようと思えば逃げられたはずなんだけど、どうも、燃えている家の中に入っていったみたいで……家族を助けようとしたのかしら」
「犬は飼い主に忠実だっていうしね……」
おばちゃんの反対隣りの家は、犬は飼っていない。
「かわいそうにね」
おばちゃんのその言葉に、ふいに視界が揺らいだ。
足が、小刻みに震えている。
目の前が白く、時に黒く霞んでいく。
「奥さんも美人なのに気さくで良い人だったから……」
そうか、俺は今日、学校休みだったんだよな。
「旦那さんもしっかりとした方で」
車に、乗ればよかった。
「お嬢ちゃんもまだ小さかったのに……」
早く帰るって指切りしたのに。
おばちゃんが歩き出したみたいだ。だんだんと声が遠くなっていく。
「……素敵な……ご家族だったのに……」
俺だけが、残されてしまったのだろうか。
みんな、いってしまったのか。
呆然と見つめた地面が歪んでいく。
――そうだ、帰ろう。
家に帰ろう。
みんな、家にいるはずだ。
早く帰ろう。まだ、間に合うかもしれない。
あれからずっと商店街を歩いている。
家への道をひたすらに辿っているのに、いつまでたってもこぢんまりした商店が両側に並んでいる。
まるで、ただ一本道の迷路のように、いつまでもいつまでも繰り返される微妙に違和感のある風景。
帰れない。どこにも帰れない。ここはどこだ。
みんなどこにいるんだ。俺を置いて行かないでくれ。
遠く、微かに聞こえたおばちゃんの声が耳の奥でこだましている。
「……息子さんだけがね、焼け崩れた家の下敷きになってしまったみたいで……まだ見つかっていないのよ」
俺を置いて行かないで 萩野 智 @Naotomo51348
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