5. Interlude 〜親愛と執着〜

 ジークは寝台で寝返りを打ちながら窓の外を眺めた。ロイと共に夜の森へ出かけたエルはなかなか戻ってこない。シェスは既に隣の寝台ですやすやと寝息を立てているが、彼はなかなか眠れず、ふと、扉の向こうに何かの気配を感じて身を起こした。


 すぐに扉が開き、アルがエルを抱いているのが目に入った。見れば、エルはその腕の中で眠っているようだった。声を上げようとした彼を目線で制し、アルはそのままエルを寝台に下ろすと掛布をかけ、彼の肩を抱くと寝室を出る。その横顔はいつもと変わらず静かだったが、何かを憂うような色があるように見えた。

「エルは……?」

「大丈夫だ。また例の奴に絡まれたらしい」

「例の奴……て夕方会った奴?」

「ああ」

 学び舎がっこうからの帰宅途中、森の中で急に白い霧に包まれ、エルの姿を見失った。それは、さほど長い時間ではなかったが、彼の前に現れたエルはその腕に奇妙な文様を刻み込まれていた。

「エルは……大丈夫なのか?」

「今のところはな。無理やり連れて行く気はないそうだ」

「連れて行くって……どこへ?」

「さあな。あいつらは俺たちとは住む世界が違う。異界の住人なんて神話の中だけの話だと思っていたが、実在するならどこかにその世界もあるんだろう」


 アルはただ肩をすくめる。その端正な横顔は、やはりいつもと変わらない。森の中で育った彼らにとって、家族とイーヴァルとロイだけがほとんど世界の全てだった。学び舎に通うようになって少しずつその世界が広がることで、見えてくるものもあったけれど。


「ロイは?」

「帰った。イーヴァルもついでに出かけて行ったな。様子を見てくるとか言って」

「そっか」

「……で、どうした?」

 彼の浮かない顔に気づいたのか、頭に手をのせてそう尋ねてくる。逡巡する彼に、アルはテーブルの上のグラスを取ると、暖炉の前に手招きした。厚い敷物が敷かれた火の前は、暖かく心地よい。アルは静かに酒に口をつけながら彼が話し出すのをまっていてくれるようだった。

 そうして揺れる火を見ているうちに、ようやく決心がつき、彼はゆっくりと口を開いた。

「……俺、最近なんか変なんだ」

「変?」

「エルを見てると、なんか心臓がおかしくなるんだ」

 そう言った彼に、アルは少し微妙な顔をする。もしかしたら、とっくに気づいていたのかもしれない。


 この秋から学び舎に通うようになったのは、ロイの勧めだった。そろそろ、森の中だけでなくもう少し広い世界を見るように、と。エルは純粋にあまり知らなかった外の世界を見ることや、学ぶこと自体も楽しんでいる。だが、彼はエルがそうして他のものに興味を抱けば抱くほど、なにやら胸の内に黒い靄がかかったような感覚を覚えていた。

 他の子供たちに囲まれ、楽しげに話している姿を見ると引き剥がしたくなる。側に寄ってくれば、抱き寄せたくなる。逆に抱きつかれたときに、その柔らかな髪や頬に、そしてふっくらと赤い唇に口づけたいという衝動を感じて慌てて自分の身を引き剥がしたことは、もう片手の指では足りなくなっていた。


 それが実のところ、兄として抱くべき感情ではないことに、彼は薄々気づき始めていた。


「……何て顔してんだよ」

 困惑し切った顔で見上げた彼に、アルは呆れたように笑う。それから彼の頭をその大きな胸に引き寄せた。

「お前、エルに何か特別な匂いを感じてるだろう?」

 その言葉にジークは息を呑んだ。それこそが、彼の混乱のもっとも大きな原因でもあったので。


 小さな頃は何も気にせずくっついて遊んでいた。抱きしめることも頬に口づけることも親愛を示す行為として、ごく当然のように互いに何のためらいもなくしてきた。なのに、いつの頃からか、ふわりとエルから香る複雑な香りに気を取られ、気がつけばその身を抱き寄せている自分に戸惑うことが増えた。

 特にその首筋に顔を寄せるとその匂いが強くなる。ずっと嗅いでいると頭の芯が痺れるようなその香りは、どうしてだか危険な気がするのに、もっとずっと嗅いでいたいと、そして何よりエルにもっと触れていたいと感じてしまう。


「どうして……」

「甘いような辛いような、そんなのが混じった香り、だな?」

 問いというよりは確認のその言葉にただ彼が頷くと、アルは考え込むようにどこか遠くを見つめる。それから、ひとつため息をついて、彼の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「本来それは、近親でない同族に感じる発情の証だ」

「は、発情……⁈」

「そうだ、俺もお前たちの母親のディルもずっと互いにその匂いを感じてた。だが、違うのはお前だけがその匂いを感じて、エルはおそらく感じていないところだ」

「どういう……こと?」

「俺たちの本性の半分は獣だ。ディルは獣としての姿を持たなかったが、その血筋には確かに俺たちと同じものを引いていた。だが、それはいろいろややこしい仕掛けがあってのことだった。多分、そのせいでお前とエルの運命もこんがらがってるんだろう」


 珍しく饒舌なアルの言葉は、だがほとんど理解できなかった。彼の表情を見て、アルは困ったように苦笑する。自分でも、わかりにくい説明だという自覚があるのかもしれない。


「ディルは生まれた時から俺に出会うよう運命づけられていた。そうして出会った俺たちは——いろいろあったが——恋に落ちて、お前たちが生まれた。本来そこでその運命は完結するはずだったが、どうにもまだおかしなものが残っているらしい」

「つまり……?」

「お前のそれは、気の迷いってことだ」

「……発情、してるのに?」

「そもそもそこからが気の迷いだ、と思え」

「思えって……」

「仕方ないだろう。それとも、お前、エルを抱くつもりか?」


 あまりにあからさまな言葉に、ジークの顔が真っ赤に染まる。まだ子供だが、それでも完全に箱入りのエルに比べれば、彼はその方面の知識も一通り備えている。エルに対する感情を持て余していろいろ調べたのがその理由だったけれど。


「まあ、あいつも分化しちまったし、もう少し成長すれば落ち着くんじゃないか?」

「え、そうなの?」

 エルは彼女の母親がそうであったように、男女どちらの特徴も備えて生まれてきた。どこかの時点でどちらかに分化——確定するのだということは以前から聞いていたけれど。

「ああ、だいぶ前だけどな。その辺りからじゃないのか、お前がその匂いを感じ始めたのも」

「……かも、しれない。でも、だとしたら俺のこの状態が落ち着かなかったら?」

「その時はその時だろ。本気で口説くなら口説いてみればいいんじゃないか」

 あまりに無責任な言葉に、今度は彼が呆れる番だった。だが、アルはただ肩を竦める。

「近親の婚姻が禁忌とされるのは、それによって生まれてくる子供たちに異常が起きてしまうことがあるからだ。あるいは、ディルのように子を宿すことが負担になったりな」

 そう言いながら、わずかにアルの表情が翳る。ディルはシェスを産んですぐに亡くなった。だが、それでもすぐにいつも通りの表情に戻って癖のある笑みを浮かべる。

「まあ、何にしてもあいつはロイに惚れてるらしいから、お前の入る余地はないんじゃないか?」

 そう言った父に、ジークは深いため息をつく。確かにエルは、ずっと小さな頃からどうしてだか実の父親よりもロイに懐いていた。まさか、「お嫁さんになる」などと言い出すとは思ってもみなかったけれど。


「ロイって、何歳?」

「さあ。だが確か三百歳は超えてるはずだ」

「……え?」


 何かの冗談かと思ったが、アルの面白がるような表情は変わらない。


「あいつは大地の一族といって、長命な種族なんだそうだ。それにしたって長生きな方だとは自分でも言ってたが」

「年の差過ぎるじゃん……」

 呆れたように言った彼に、だがアルはどうしてだか含み笑いをしてその頭を撫でる。

「まあ、俺たちにとって『普通』なんてことはほとんどなかったからな。何にせよ、あいつはもう面倒な運命に巻き込まれているようだから、お前が守ってやれよ」

「俺が? ロイじゃなくて?」

「お前の方がそばにいるだろう。あのおっさんは、多分、いざという時に動けないだろうからな」

「何で?」

「ディルに心底惚れていたくせに、踏み込めなかった奴だ。同じことを繰り返す方に俺の有り金全部を賭けてもいい」

 苦笑しながら言うその言葉の本当の意味はわからなかったけれど、なんとなくエルが不憫な気がした。

「お前がエルを大切だと思うなら、いざという時に離れるな。何があっても、噛み付いてでも絶対に離れずにあいつを守れ。俺から言えるのはそれだけだ」


 その金の双眸にどこか懐かしむような、それでも強い光を浮かべて。


 アルのその助言は、やがて彼らの運命に大きく関わっていくことになるのだが、そんなことを今のジークは知る由もなかった。

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