4. 問題の先送りと、厄介事の再来
それまで伝えたことのなかった率直な自分の気持ちを宣言し、じっとその大好きな人を見つめる。真冬の空のようなその青い瞳は、どう見ても困惑を浮かべていたが、エルは、彼女にしては珍しくただ黙って返事を待ってみることにした。
——のだが。
「……とりあえず、飯にするか」
「……ええっ⁈」
名指しされた本人の問題を先送りする発言は、エルの抗議の声にもかかわらず、他の大人たちと戻ってきた兄弟たちにも受け入れられてしまった。エルは頬を膨らませたが、とりあえずは今日はもうこれ以上の混乱は不要だとばかりの皆の態度に、押し黙るより他なかった。
微妙な空気のまま夕食を終え、そろそろロイが帰ると言うので外まで見送りに出てくる。夜の空気は澄んで、暖かい部屋で少し火照った頬に心地よかった。空を見上げれば、深い森の木々の間から無数の星が見えた。月は出ていないようだったが、その空に誘われるように外へと歩き出すと、腕を掴まれた。
「どこ行くつもりだ?」
「ちょっと散歩に行くだけだよ」
「こんな夜にか?」
「平気だよ」
幼い頃からずっとこの森に住んでいるが、危険なことなどあったことはない。守られているのだ、と何となくわかっていた。それでもロイはその手を離そうとしない。
「平気なわけないだろう。夕方に変な奴に絡まれたばっかりだろうが」
「……ジークもシェスもいつも出かけてるよ」
「あいつらは大丈夫だろうが……」
その言葉の意味に気づいて、エルはまた頬を膨らませる。自分だけが認めてもらえないその理由に。それでなくとも精一杯の告白も軽く受け流され、何だか何もかもがうまくいかないような気がしていた。
手を振り払って歩き出そうとすると、ロイが困ったようにエルを抱き寄せた。
「悪いな」
「……何が?」
「過保護で」
「私が狼になれないから?」
「それだけじゃない。お前があいつに似てるからだ」
「ディルに?」
「そうだ」
それから小さな子供がそうするように、手をつないでゆっくりと森の中を歩く。その横顔はいつもと変わらずに穏やかだったが、それでも何かを考え込んでいるように見えた。だから、あえて先ほどは曖昧に流されてしまった問いを、もう一度投げかける。
「ロイはディルが好きだったんでしょう?」
じっと見つめると、今度は静かに見つめ返される。ややして、ロイは何かを諦めたかのように、ゆっくりと口を開いた。
「あいつがそう言ったのか?」
「うん」
小さな頃、寝台で寝ついていたその人が、語ってくれたことをぼんやりと思い出す。彼女のことが好きだったらしい、と言ったその口で、いつか自分に何かあったら、ロイのことをお願いね、と言っていたその言葉を。
「あの人は、きっと泣けないと思う。そうだね、きっと泣かない。そして、一人でどこかへ行ってしまいそうな気がする」
その寂しそうな背中がふと脳裏に浮かんで、小さかったエルはぎゅっと拳を握った。
「やだ」
きっぱりと言ったエルに、ディルは驚いたように眼を見開いた。それからエルの髪を撫でる。
「ロイがいなくなるのがいや?」
「やだ、絶対やだ」
「どうして?」
「わかんないけど、ずっとそばにいて欲しい」
そう言うと、そう、と頷いてそれから不意に楽しげに笑う。
「じゃあエル、もし大きくなってもその気持ちが変わらないようなら、ロイのお嫁さんになってあげて? あの人は自分で思うよりずっと寂しがり屋だから」
「そうなの? でも、いいよって言ってくれるかな?」
「わからないけどね。あなたの頑張り次第じゃないかな」
そう言って、やっぱり楽しげに笑っていたその意味を考える。ロイがディルのことが好きだったのなら、その面影を宿すエルのことをどう思っているのだろうか。好きになるだろうか、それとも似すぎていて、逆に辛い思いをさせてしまうのだろうか。
「ねえロイ」
「何だ?」
「大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」
「……お前、俺のどこがいいんだ?」
「優しくて格好いいところ。ごはんも作ってくれるし、困ってると助けてくれるし、ぎゅってしてくれると暖かくて気持ちいいし、あと声も好きだし……」
「……わかった、もう勘弁してくれ」
好きなところなんて、いくらでも挙げられるのに。彼女にとっては自分に愛情を注いでくれた人たちが大切で、それ以外の世界を知らないから、その人に好意を抱くことの何が問題なのかがわからない。
だが、ロイはエルの言葉を遮ると、額を押さえてため息をついている。
「困ってるの?」
「……そうだな」
その言葉に、驚くほど心が沈んだ。腹の中に、何か大きな塊でも落ちたかのように。その瞳は、いつもと変わらずに優しいけれど、確かに困惑した表情を浮かべるその顔に、ますます心が重くなっていく。そのまま駆け出そうとした時、上から声が降ってきた。
「なら、やっぱりもう俺が攫ってやろうか?」
ふわりと重さを感じさせない動きでエルの前に降り立ったその人は、当然のように彼女をその胸に抱き寄せた。間近に迫ったその瞳は、相変わらず星明かりでも何色とも言い難い色で、面白がるような光を浮かべている。穏やかなその顔と、背中に回された腕の温かさが意外だった。
「——エル!」
厳しい声に眼を向ければ、先ほどまでの困惑を浮かべた顔が嘘のように、強い眼差しがこちらを見つめている。その手が腰の剣にかかっているのを見て、思わず眼を丸くする。
だが、彼女を抱き寄せているその青年は、ただ面白そうに笑ってひらひらと空いている方の手を振る。
「やめておけ。そんななまくらで俺が斬れるものか」
「その手を離せ」
青年に向けられる眼差しは射抜くように鋭い。今まで見たこともないほどのその真剣な表情に、知らずエルの体にも緊張が走った。青年はそれに気づいたのか、柔らかくその背を撫でる。
「怯えるなよ。俺がお前を傷つけるわけがないだろう。ただ、お前が悲しそうだから来てやっただけさ」
「……どうして?」
「お前に刻印をしただろう。だから、お前に何かあれば俺が真っ先に気づく。お前が泣くならそばにいて慰めてやるし、抱いて欲しければそうしてやる」
その眼差しはひどく真摯な光を浮かべていて、率直な言葉に、エルは心のどこかがざわめくのを感じた。その戸惑いを感じたのか、大きく美しい手がエルの顎にかかる。
「俺ならお前をとことん甘やかして、ずっとそばにいてやる。あんな男は見限って、俺のところに来いよ」
「ふざけるな」
ついに剣を抜いて突きつけたロイに、だが青年は動じる風もない。その不可思議な色の瞳を静かに向ける。
「大した度胸だな。さすがは世界に対する呪いなんてものをかけるだけのことはある」
その言葉に、ロイが眼を見開いて、はっと息を飲んだ。青年はどこか楽しげに、エルに向けるのとは対照的な冷酷な笑みを浮かべて続ける。まるで、獲物の息の根を止めようとする狩人のように。
「なあ、お前の
その言葉に、まっすぐに向けられていた切っ先が揺れるのを、エルは確かに目にした。だが、その動揺はほんの一瞬だった。もう一度、剣を構えエルを捕えている青年を睨み据えながら、一歩を踏み出す。
「確かに俺は
強い眼差しに、エルの心臓が強い鼓動を打った。先ほどの困惑した様子など微塵も感じさせないその表情に、エルは青年の腕を振り払うとロイの胸に飛び込んだ。剣を構えたまま、強く自分を抱く腕にこの上なく安堵する。見上げると、その顔はにやりといつも通りの癖のある笑みを浮かべていた。
「——あんな男に惑わされてんじゃねえよ」
「なら、ちゃんと捕まえてて」
その胸にしがみついてそう言えば、青い瞳が驚いたようにエルを見つめる。ややしてどうしてだか呆れたような、何かを諦めたような笑みがその顔に浮かんだ。
「まったく……子供だ子供だと思ってたのになあ」
顎を捉えてかすめるように唇に落とされた口づけはほんの一瞬。それからロイはエルを後ろに庇うように前に出ると、青年に向けて剣を構えた。
「なまくらかどうか、試してみるか?」
「本当に俺とやりあえるとでも?」
「言っただろう、なんなら俺の命を賭けてでも」
低く告げる声は、さほど重くは響かないのに、それでも絶対に引かないという決意を感じさせた。その背にぎゅっとしがみつく。相手の青年はしばらく何かを考え込むように二人を眺めていたが、ややして両手を上げて肩をすくめた。
「なんだよ、俺が悪役みたいじゃないか」
「悪役だろうが」
「泣かせてたのはお前だろう? おい、お前本当にこんな奴でいいのか?」
秀麗な顔を呆れたように歪めてエルにそう言った姿に、悪意や敵意は見られない。
「……本当に、私のことが心配で来てくれたの?」
恐る恐るそう尋ねると、青年は事も無げに頷く。
「そう言っただろう? お前が望むなら、イドゥンの黄金の林檎もクヴァシルの詩の蜜酒も好きなだけ与えてやる」
「……それ何?」
「永遠の命と、最高の知識を与えてくれる秘薬さ。そうして
「……別にいい」
まだ幼いエルにとって、永遠など想像もつかなかった。ただ、目の前の大切な相手と共に過ごすことの方が遥かに価値のあることのように思えた。
青年はただ肩をすくめると、ゆっくりと歩み寄ってくる。ロイが身体を強張らせ、剣先を向けたが青年はちらりと視線を向けただけで、気にした風もなくエルのすぐそばまで歩み寄り、その前で跪いた。
「俺はあいつのようにお前を失いたくはない。それが、お前を迎えにくる第一の理由だ。それを知っておけ。イドゥンの林檎はお前に世界の終わりまで尽きることのない命を与える——どんな運命にもお前を捕えさせはしない」
「どうしてそこまで……?」
そう尋ねると、その不可思議な色の瞳が妖しく煌めいた気がした。その眼差しは愛しいものを見るというよりは、獲物を狙うそれで、だからエルは気づいてしまう。
「あなたは、私のことが好きなわけじゃない」
睨み据えるようにそう言ったエルに、青年はただ面白そうに笑う。
「さあな? だが、お前を手に入れるためなら——お前がそう望むなら、お前だけを俺の永遠の伴侶に定めたっていい。俺の名に賭けて」
——ロキ、それが俺の名だ。
真摯な声でその名がその口から発せられた途端、エルの左腕に刻まれた文様が微かな光を放つ。頬に伸ばされた手がエルの顎を捉え、秀麗な顔が間近に迫る。
「俺を望め、エルヴィラ」
どうして名を知っているのか、という言葉は声にならなかった。呼ばれた瞬間、何かに体を貫かれたような気がした。不可思議な色の瞳に惹き込まれ、目が離せない。唇が触れるほどに近づいて、重ねられる直前、だがぎりぎりでエルはその胸を押し返した。
「勝手なこと言わないで! 私はロイのお嫁さんになるの!」
そう言って、ロイの身体に腕を回す。何かの呪縛から解かれたかのように、ロイもまた一つ息を吐くと、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。
その剣は再び、ロキと名乗った青年に向けられている。青年はしばらく二人を見つめていたが、やがて両手を上げて笑った。
「俺の魔力が効かないなんて、やっぱ面白いな、お前。だが、はっきり断られちまったし、今は引いてやるよ」
「二度とこなくていいよ!」
叫んだエルに、だが青年は構わずにもう一度エルの名を呼ぶ。
「エルヴィラ」
その甘い声に、どうしてだかびくりと身体が震えたが、それでもエルはなんとか険しい表情を作って睨みつける。
「何?」
「お前の時が満ちる頃に迎えにくる。それまで、他の男に抱かれたりするんじゃねえぞ」
「そんなのあなたに関係ない」
彼の言う抱かれる、の意味をエルは正確には知らなかったけれど、そう啖呵を切った彼女に、青年はただ笑って、そうして一瞬ののちにその姿はかき消えた。
いつの間にか強張っていた体から緊張が解け、ふらついた彼女をロイが抱きとめる。見上げた表情は、なんだかばつの悪そうな表情を浮かべていて、エルは思わず首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いや、さっきの、なしな」
「さっきのって?」
問い返したが、視線を逸らされる。それで、思い出した。ほんの一瞬触れた唇の感触。頬や髪に触れたことは幾度もあったけれど、唇への口づけは、それが初めてだった。
「なんで
単純に疑問で、そう尋ねたのだがロイは珍しく顔を赤くして、それから片手で顔を覆うと、くるりと踵を返して歩き出してしまう。
「ねえ、ロイってば」
「うるせえ、とにかくもう帰るぞ」
結局、その答えが返されることはなかったけれど、彼女の気長な恋はそうしてほんの少しだけ前進したようだった。
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