Ch. 1 - 異界の王の贈り物

6. 厄介事は忘れた頃に、やっぱりやってくる

 エルがそれを見つけたのは、物置を整理していた時だった。


「ねえ、ロイ」

「何だ?」

「何かすることない?」

 後ろから抱きついてそう尋ねると、すげなくその腕を解かれる。

「こっちはいいから暇なら物置の掃除でもしてこい」

「……何で?」

「いいからあっち行ってろ」

 犬の子でも追い払うように手を振られ、若干傷ついたような気持ちになりながらも、見上げたその顔が面白そうに笑んでいるのを見れば、自然とエルの顔も緩んでしまう。

「あとでお前の好きなもんを食わしてやるから、ほら行ってこい」

「はーい……」

 そんな風にして、すごすごと家の隅にあった物置にやってきたのだった。


 この冬至が過ぎればエルは十七歳になる。学び舎も終わり、春からは何か仕事を探さなければならないのだが、今のところやりたいことも特に見つからず、父親も同居人も特に何も言わないので、畑仕事でもするかとのんびりしている。

「お嫁さん、は無理かなあ」

 三年前の言葉を、エルははっきりと覚えていたが、当の相手は、ほとんど父親代わりで、その態度は全く変わらない。どころか、最近は自分たちで家事もできるだろうと、この家への訪問も月に一度か二度程度とだいぶ間遠になってきている。寂しくないと言えば嘘になるが、それでも困らせるわけにはいかないと、こうして訪れてくれた時に思いきり甘えようとするのだが、最近は抱きつくことさえ引かれる有り様だ。


 人にしては長命なその人は、容姿もほとんどエルが物心ついた時から変わりがない。人間にしてみれば三十代半ばから後半と言ったところだろうか。アルも人間よりはゆっくりと老いていくらしくあまり変わりがないように見えるし、イーヴァルに至っては全く変わらない。

 そんな人物ばかりに囲まれていると、年齢だの立場だのというのはエルにはあまりよくわからないのだが、彼にとってはもっと複雑な心境のようだった。


 ため息をつきながら、適当に棚を漁っていると、小さな箱が一つ転がり落ちてきた。何だろうかと拾い上げると、中にはびっしりと細かな文様が透かし彫りで掘り込まれた金の腕輪が入っていた。輪の一部が切れていて、緩やかに嵌めるタイプのものらしい。年代物なのか、どちらかといえばその輝きは鈍い。それでも、その細かな細工は美しくエルの目を惹いた。

「綺麗……」

 深く考えず、その腕輪を左腕に通してみると、思っていた以上にぴったりだった。というか——。

「あれ……?」

「エル!」

 彼女がその異常に気づいたのと、慌てたような声と共にロイとジークが駆け込んできたのはほとんど同時だった。

「お前なんか変なものに触ってないか⁈」

「えーと」

「今すぐ持ってる物から手を離せ! これ以上何にも手を触れるな!」

 それまで聞いたことのないような剣幕で叫びながら近寄ってくる。

「無事か?」

 頬に触れ、心底こちらを気遣うような真剣なロイの眼差しに、そんな場合ではないとわかっていても心臓が跳ねた。だが、事態はそれどころではなさそうなことを、誰もよりも彼女自身が自覚していた。

「エル、その腕輪……!」

 後ろから近づいてきたジークがエルの腕を取り、大きく目を見開く。

「……大丈夫、じゃないみたい」


 そう言って、二人の目の前に掲げた左腕には、先ほど通した腕輪が、なぜだかエルの腕にまるで吸い付くように嵌っていた。


 その瞬間、ふっと何かの風が吹いたような気がした。あるいは地面が揺らいだような。

「エル……エルヴィラ!」

 いつになく切迫したロイの声がエルを呼んだが、何かに引っ張られるように、体が宙に浮くような感覚に包まれる。ジークが腕を掴んでいるはずなのに、その感覚が淡く擦り抜けそうになった時、ふわりとその姿が揺らいだ。黒い狼に姿を変えたジークはほんの一瞬ためらうような素振りを見せたが、すぐに覚悟を決めたのか、エルの左腕に喰らいついた。がっちりとその腕輪の上から噛みつかれ、痛みよりも驚きで目を見開く。

「ジー……」

 だが、その名を呼び終える前に、あたりの風景が一変した。


 物置にいたはずなのに、周囲が深い森に変わっている。空からは陽光が降り注いでいるというのに、白く靄がかかったようにどこか曖昧に揺らぐその森は、明らかに異質だった。

 しんと静まり返り、鳥の声一つしない。先ほどまですぐそばにいたはずのロイの姿も見えなかった。

「どうなってるのかな……これ」

 呆然と呟いて、すぐに痛みで我に返った。左腕を見れば、まだジークが黒い獣の姿のまま噛み付いていた。視線が合うと、あたりを目線だけで見回し、もう移動などの危険がなさそうなことを確認すると、ゆっくりとその顎を外す。急所は外してくれてはいるが、かなり深い噛み跡が残って血が流れ出していた。ジークは申し訳なさそうにその傷口を舐める。とりあえず水場もないし、仕方なく手巾を取り出して止血してきつく巻いておく。その間もジークは黒狼の姿のまま、じっとエルの方を見つめていた。

「ジーク?」

 声をかけたが、ただ首を傾げるばかりで人の姿に戻ろうとしない。黒狼の姿では人の言葉は話せないから、どうしたのかとその顔を引き寄せたが、金の双眸が何やら戸惑いを浮かべているように見えた。

「もしかして……人の姿に戻れない?」

 そう尋ねると、小さく頷いた。

「えーっ⁉︎」

 自分で尋ねておきながら、その答えに驚いて声を上げる。ジークは身震いしたりしてなんとか戻ろうとしているが、その姿は変わらなかった。人の姿に戻れないなど、今まで陥ったこともないから本人も戸惑っているようだった。


 実のところ、アルかロイが見れば、またその状況パターンか、と呆れたことだろうが、エルもジークもそんなことは知る由もなかった。


「さっきの、魔法? のせいかな……」

 左腕には、ぴったりと金の腕輪が嵌っている。痛みや違和感はないが、元々は切れ目のあったはずの腕輪が今は完全な輪になり、きつくはないが絶妙に手首からは外れない大きさになっている。

 あたりは見慣れない森の中で、一人なら不安を覚えたかも知れなかったけれど、誰よりも近しい双子の兄が——獣の姿とは言え——そばにいてくれることは随分と心強かった。


 やがて何かの蹄の音が聞こえてきた。明らかにこちらに近づいてくるその音に、身を隠すべきか少し悩んだが、おそらくはまっすぐに彼女を目指してやってくるその「何か」から逃げられるような気もしなかったので、そのままその音がする方を向いて立ち尽くしていると、奇妙に脚の多い馬がこちらに駆けてきた。

 恐ろしいほどの速度で駆けていたその馬は、彼女の姿を捉えると急に減速し、その正面でぴたりと止まった。見れば、馬上から大きなつば広帽子をかぶった男がこちらを見下ろしていた。片目が閉じている。


「……ようやく招待に応じたのかと思えば……そなたは一体誰だ?」


 顎を覆う長い髭のせいで一見老人かと思ったが、よくよく見れば皺は少なく、精悍なその顔の一つきりの眼は鋭い光を浮かべている。

「エル……です」

「真名か?」

「ええと、それならエルヴィラ、です」

「……素性の知れぬ相手に真名をあっさり漏らすのは感心できぬな」

 素直に答えた彼女に、馬上の男はその隻眼をわずかに見開いて、それから眉をしかめて幼子を叱るように厳しい声でそう言った。自分で訊いたくせに、と内心で呟いた言葉は、彼女の表情からそのまま伝わってしまったらしい。

「……その態度、そっくりだな。さてはあの者の縁者か」

「もしかして、ディルの知り合い?」

「名は知らぬ。我らにとっては真名を知ることは互いに危険を伴うからな。銀の髪と薔薇色の瞳の持ち主がそなたの言う者であれば、そうだ。息災か?」

「亡くなりました、随分前に」

 そう告げると、相手は黙り込み、その瞳が揺らいだように見えた。まるで、知己を失ったかのように。それから、ややして彼は何かを決意したかのように、エルに手を差し伸べてきた。


「ならばそなたを代わりに我が館へ招こう。古い約束を果たすために」


 向けられる眼差しは深い色を浮かべている。後から思えば、どうしてその手をとってしまったのか、あまりにも軽率だった自分の行動に頭を抱えることになるのだが、その鮮やかな青い瞳が彼女が慕う彼のものによく似ていたせいかも知れない。


「あなたは、誰?」

 その手を握りながらそう尋ねると、馬上の主は軽々とその奇妙な馬の上に引き上げた。彼女の手をしっかりと握る手は大きくごつごつとしていて、おそらくは武器を握ることに慣れた手だと知れた。まっすぐにその隻眼を見つめていると、ややして妙に人間臭い表情で面白そうに笑った。


「人は様々な名で私を呼ぶ。だが、そなたの縁者はこう呼んでいたな」


 ——災禍の主ベルヴェルクと。


 告げられたその呼び名に、どう考えても厄介事に首を突っ込んだ気がしてならなかったが、その男の腕はしっかりとエルを抱きしめており、逃げ出すのは難しそうだった。

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