アカネちゃん

 部活が終わる頃はもう辺りはすっかり薄暗かった。


 長距離専門の部員達に紛れてひたすらトラックを走り続けた僕は、疲労困憊だ。


 周りの部員達は走り込みを続ける僕を不思議そうな顔で見ていたので、誰かに余計なことを聞かれないように、一番最後まで一人で走り続けた。


 明日は筋肉痛だろうな。でも明日は水曜日だし、部活は休みだ。

 そう思うと、今日という日をやり切った爽快感すら覚えた。


 着替えを済まそうと部室に入ると、またしても多田野くんがいた。


 もう制服に着替え終わっているのに、部室の丸椅子に座って、右手を軽く挙げた。もしかして、僕を待ってたのだろうか。

 一緒に帰ろうとか言われたら嫌だな。多田野くんを嫌いな訳じゃないけど、何を話したら良いかまるで分からないから。


「お疲れ、大和。今日走り込み凄かったな。体調大丈夫か?」


 多田野くんが僕を心配している。本当に良い人だ。


「お疲れ。体調は、まぁ、大丈夫だよ」


 多田野くんは「そっか」と、強面に笑顔を浮かべた。


「あのさ、心配してくれてありがとう。部活の時もさ、先生にわざわざ言ってくれて。嬉しかったよ」


 僕はお礼を言わずにはいられなかった。本当に、多田野くんには感謝の気持ちで一杯だ。


 多田野くんはクックック、と笑いを噛み殺している様子で下を向いた。


「いや、やっぱり今日の大和、おかしいわ。そんな事言う奴だったっけ?」


「あれ? そうかな? いや、ほんとに嬉しかったからさ」


「いや。おかしい。俺には分かってるぜ?」


 多田野くんが急に少し真面目な顔になって僕を見た。


 分かってる、って……?


 もうバレた……?


「な、何が?」


 ついオドオドしてしまう。正体がバレるのも怖いし、真面目な顔の多田野くんも怖い。


「アカネちゃんと喧嘩でもしたんだろ?」


 思いもよらない返答が多田野くんの口から出た。


 アカネちゃん……?


 アレ? 誰だっけ? アカネちゃん? 確か梶原くんは一人っ子だった筈だし、妹とかじゃないよな。アカネちゃん……確か書いてあった筈だ、情報ノートに。


 考え込んでモジモジしている僕の様子を見て、多田野くんは図星だと思ったようだ。


「やっぱりそうかぁ〜! 何で喧嘩したんだよ? 今日部活始まる前にアカネちゃんに会ったら、大和から全然LINEの返信ない、って怒ってたからさぁ」


 アカネちゃん! 思い出した! 梶原くんの彼女だ。確か五組の、遠山茜さんだ!

 その子の顔も、どんな子なのかも知らないけど、ノートに確かに書いてあった。


 ──五組の遠山茜は彼女。喋るのは良いけど、触るなよ。──


 確かそんな風に書いてあった筈だ。


「いやいや、別に、アカネとは……喧嘩したわけじゃ……ないよ」


 多田野くんにバレない様に取り繕って言ってみたのは良いけど、梶原くんの彼女の名前を呼び捨てにしてしまった。仕方ないんだけど。


 なんだか恥ずかしさと申し訳なさで訳が分からない。初めての事があまりにも多過ぎる。


 「それならいいんだけどさ。あまりアカネちゃんを邪険にするなよ。フラれるぞ!」


 多田野くんはからかう様に笑うと、「じゃ、先に帰るわ! お疲れ!」と言って部室を出て行った。


 いやいや、フラれるのはマズイ。僕がフラれるのは構わないけど、それは結局梶原くんがフラれる事になる訳だし。


 LINEの返信? 


 僕は体育着のまま、ロッカーにしまってある梶原くんのリュックを漁った。


 最新式に見えるピカピカの黒いスマホがすぐに見付かった。


 駄目だ。



 さすがに駄目だ。


 他人のスマホを勝手に覗くのは駄目だ。


 そもそも暗証番号も分からないし、僕はLINEなんてやってないからよく分からない。


 ああ、スマホだけは梶原くんとちゃんと交換しておくべきだった。

 明日学校で相談してみよう。


 僕は梶原くんのスマホをリュックに戻してから、着替えを済ませた。


 部室の時計を見ると、もう18:30だ。


 梶原くん、バイト大丈夫かな……。


 少し不安になりながらも、情報ノートだけ手に持ち、リュックを背負って部室を出た。


 情報ノートには梶原くんの自宅の地図が丁寧に書かれてある。

 僕の家から結構近い。一軒家に住んでるみたいだ。これなら迷わずに行けそうだ。他人の家に帰るなんて、緊張する。

 ちゃんと「ただいま」って言わないと。


 緊張しながら学校の門を出ると、背後から「大和」と、呼び止められた。


 本当に今日は色んな人から声を掛けられる。今までは授業中以外誰とも一言も喋らずに帰宅する日がザラだったから、なかなか疲れる。


 振り返ると、そこには制服を着た、長い黒髪の顔の小さい美人が立っていた。


 アカネちゃんだな、と流石に僕もすぐにピンときた。

 右肩にテニスラケットのケースのような物をかけている。多分テニス部なんだろう。


「お、お疲れ」


 何を言えば良いのか分からないので、とりあえず無難な事を言ってみた。


「何でLINE返信してくれないの?」


 アカネちゃんが怒った様に言う。すごく綺麗な子だ。派手過ぎないで、清楚な美人だ。

 梶原くん、すごいな。


「いや、スマホ家に忘れちゃってさ。ハハハ」


「は? 午前中は返信くれたじゃん! くだらない嘘付かないでよ」


 アカネちゃんが意外とキツい口調で言う。


「あれ? そうだっけ? ごめんごめん。気をつけるよ」


「次無視したら許さないよ」


「うん。分かったよ、ごめんね」


「なんか変なの。素直に謝っちゃって。まぁいいや。部活終わったら一緒に帰ろうってLINEしたのに、無視するから、待ってたんだ」


 そう言うと、アカネちゃんは僕の隣に来て、歩き出した。長い黒髪がサラッと揺れている。緊張する。梶原くん、ごめん。女子と下校なんて、生まれて初めてだ。


「今日さー、すっごいムカつく事あってさー、聞いてくれる?」


 アカネちゃんは僕の顔を覗き込んで、早口で喋り始めた。

 何を言っているのかよく分からなかったけど、恐らく悪口だ。友達か誰かの悪口をずっと捲し立てている。


 なんか……意外だな。すごく清楚な感じの子に見えるのに、ずっと悪口言ってる。


 「アイツ死んじゃえばいいのに、って普通に思うんだけど」とか、綺麗な顔をしてビックリする程嫌な事を言っている。


 次第に緊張もなくなり、なんだか少し不快な気分になってきた。



 そんな風に言わない方がいいよ、と、アカネちゃんに注意したい気持ちにもなったけど、それで怒らせたりしたら、梶原くんに迷惑が掛かる。


 僕は我慢をしながら、うんうん、とアカネちゃんの話を聞き続けた。



 

 ただただ、苦痛な帰り道だった。

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