陸上部の梶原くん

 変な感じだ。


 突然十センチくらい背が伸びた訳だから、なんだか視界が広く感じる。


 高校に上がってから友達なんて一人も出来なかったのに、突然色んな人から話しかけられるし。


 ほとんど何を話したら良いのか分からないけど。


 僕は梶原くんみたいに社交性も話題もないし、得意な事なんて……何もないし。


 そのうちボロが出てバレちゃうんじゃないかな。梶原くんじゃなくて高橋だ、って。


 僕は先程受け取った梶原くんの情報ノートをまた確認した。


 ──放課後は水曜以外は部活。


 15:30〜18:00まで。ウォーミングアップ後、筋トレ、短距離の練習、走り込み等。──



 今日は火曜だから部活がある訳だ。


 参ったなぁ……僕は絶望的に足が遅いんだ。


 弟達の事も心配だ。梶原くんはちゃんとご飯食べさせてあげれるかなぁ。バイトだって、いきなり頼んじゃったけど……心配だなぁ。


 でも、梶原くんは僕よりずっと器用そうだし、上手くやってくれるよな。バイトも簡単な仕事だし。大丈夫だよね……。


 僕も部活、頑張ってみないと。


 もしかしたら外見だけじゃなくて、運動神経も梶原くんのままかもしれないしね。


 僕は覚悟を決めると、勇気を出して陸上部の部室の扉を開いた。


 「おぉ、大和! お疲れ!」


 目の前にクラスメートの多田野くんが突然現れたので、僕は一瞬後ずさってしまった。


 えーと、確か、情報ノートにも書いてあった筈だ。同じ陸上部の多田野くん……クラスも同じで、確か教室でも何度か話しかけられた……下の名前は確か……


「翔くん! お疲れ」


 素っ頓狂な声を出してしまってから、変に思われないように軽く右手を上げた。

そうだ、多田野翔くんだ。思い出せて良かった。


 一瞬間が空いてから、多田野くんがハハハハ! と腹を抱えて笑い出す。


「何だよ大和! 翔くん、って。くん、って何だよ!」


 しまった。梶原くんは友達をくん付けなんかで呼ばないのか。先が思いやられる。


「いや、ハハハ。面白いかと思ってさ」


「気持ち悪いわ! 何か今日の大和おかしくね? やたら大人しかったし、学食も来なかったし」


 マズイ。ボロが出るのが早すぎる。梶原くんも頑張って僕のフリをしてくれてるんだから、自分も頑張らないと。


 僕は誤魔化すように頭をポリポリと掻いてから、


「いやぁ、なんか今日ちょっと体調悪いんだよ〜。気持ち悪くてごめんな、翔!」


 思い切って翔、と呼び捨てにしてみた。心臓がバクバク鳴る。今まで話した事もない多田野くんの事を、名前で呼び捨てにするなんて、恥ずかしさで倒れそうだ。


 早く慣れなくては。僕と違って梶原くんは友達が多いんだから。


「そっか、あんま無理すんなよ!」


 多田野くんは強面に爽やかな笑顔を浮かべると、土で少し汚れた体育着姿で部室を出て行った。


 多田野くん、良い人なんだな……。今までは本当はちょっと怖い人かと思ってたけど。

 人は見掛けじゃないよな。僕だって見た目は梶原くんだけど、中身は高橋だし。


 部活、頑張ろう。


 部活なんて初めてだ。いつもなら今頃家で大慌てで晩飯の用意してる筈なのに。


 なんか変な感じだ。




 見様見真似で、ウォーミングアップから筋トレの流れはなんとか上手く取り繕えた。

 

 そこで気付いたが、やっぱり運動神経は梶原くんの能力を引き継いでいないらしい。

 何となく誤魔化せたけど、身体は上手く動かせない。自分には分かる。運動オンチの僕のままだ。


 こりゃあ短距離走させられたら一発でバレるぞ。


「次、梶原! タイム測るぞ!」


 顧問の原先生の大声が聞こえてきた。しかめっ面で大きな体に四角い顔。怖い。緊張する。


 落ち着け落ち着け。大丈夫だ、ただ百メートル走るだけだ。体育の授業で何度もやってる。クラウチングスタートだって問題ない。


 スウッと息を吸い込み、スタート地点でクラウチングスタートの態勢を取った。


 「どうした梶原! 右足! 尻! おかしいぞ! ふざけてるのか?」


 原先生が呆れたような顔をしてこっちを見ている。


 右足? 尻? 何がおかしいんだ? 全然分からない。


 とりあえず右足の位置を前にずらしてから尻を軽く上げてみた。


 「なんだそりゃ。スタートの態勢がいかに大事か分かってるだろ? 後で特訓するぞ。とりあえずタイム計測。よーい、」


 原先生が捲し立ててくる。頭が真っ白だ。


 ピッ、と先生が笛を鳴らした。



 行け! 走れ! 走れ! 頑張れ自分!


 勢いよくゴールを目指して走る。

 時折足がもつれそうになったが、両足を必死に前へ前へ、進め。両腕を必死に振れ。


 何の音も聞こえない。頭は真っ白、ゴールが何処かも分からない。

 とりあえず走り抜け。


 梶原くんに恥をかかせてはいけない。


 一秒でも早く。




 ピッ。


 また笛の音がした。ゴールしたのか。


 息が苦しい。倒れそうなくらいキツい。

 僕は思わずその場にしゃがみ込んだ。


「おい、どうした梶原ぁ。酷いタイムだぞ? スタートもめちゃくちゃだし、どうしたんだ?」


 ゼイゼイハァハァ息切れしている僕の目の前に、原先生がストップウォッチを突き付けた。


 15秒04……


 僕のタイムだ。僕のタイムだけど、これは梶原くんのタイムになる。


 原先生がフウー、と大きなため息をついた。

 「15秒台なんて、どうしちまったんだ? 朝練の時は調子良かっただろ?」


 ああ、参った。原先生が困っている。梶原くんに恥をかかせてしまった。僕は小さな声で、「すみません」とだけ呟く。まだ息切れが酷く、上手く頭も働かないし立ち上がれない。


「先生、大和今日、体調悪いみたいですよ」


 少し離れた場所でウォーミングアップをしていた多田野くんの声がした。


「なんだ、そうなのか。大丈夫か梶原? 少し休んどけ」


 大丈夫です、と言って立ち上がろうと思ったが、フラフラする。膝に力が入らず、立ち上がれない。


 そう言えば今日は昼飯抜きだったんだっけ。どうりでしんどい筈だ。


 腹減ったなぁ。


 梶原くんはもうバイト行ったかなぁ、匠と桃子のご飯用意してくれたかなぁ。


 こんな状況で、ふと弟達の顔を思い出してしまう。


 膝に渾身の力を入れて、僕は思い切り立ち上がった。


 「先生」


 他の部員の指導に移ろうとしていた原先生の背中に声を掛けた。原先生は振り返ると、「どうした? 少し休んどけ」と言ったが、僕は首を振った。


「もう大丈夫です。少し最近疲れていて

……。出来ればしばらくの間、走り込みをやらせて頂けますか? 体力を付けたいので」


 勇気のいる発言だった。このまま体調不良を言い訳にして部活をしばらく休んでもいいのかもしれないけど、それはやっぱり梶原くんに迷惑を掛けてしまうだろう。


 今の僕に出来る事は、部活に休まず参加しながら、運動オンチがバレない様に振る舞う事だ。


 短距離走はさすがに無理だ。いくら梶原くんの見た目になったからと言って、そんな急に足が速くなる訳がない。タイムを毎日測られたら、その内バレる。毎日体力作りという名目で、走り込みをさせてもらう。これが今の僕に出来る最良の選択だと信じたい。


 原先生は不思議そうな顔をして僕を見てから、


「なんだ? スランプか?」

 と、聞いてきた。


「はい、まぁ、そうです。スランプです! なので、しばらくは走り込みをずっとやらせて下さい!」


「そうか……」


 原先生はしばらく考え込むように腕を組んでから、ヨシ! と小さな声で言った。


「分かった。梶原はセンスと要領の良さで成功してしまってるタイプだからな。たまには泥臭く走り込みをするのも良いだろう! 飽きるまでやれ!」


 原先生がニヤッと笑う。


 やった、上手くいったぞ。

 僕は、「ありがとうございます!」と言ってから頭を下げ、そのままトラックに向かって走り出した。


 腹は鳴るし、多少しんどいけど、頑張ろう。頑張ってみよう。


 なんだか新鮮な気持ちだ。


 「梶原!」


 原先生の声がする。


「体調悪いなら、今日は無理するなよ。もう上がってもいいぞ!」


 原先生も僕の体調を気遣ってくれている。


「ありがとうございます! 大丈夫です!」


 そう答えてから、僕はそのまま走り続けた。


 大丈夫だ。大した事じゃない。


 僕は得意な事なんて一つもないと思ってたけど、今一つだけ思い出した。


 僕は我慢強いんだ。


 ちょっとくらい腹が減ってたって走れるし、ちょっとくらい疲れても堪える事が出来る筈だ。


 母ちゃんが死んだ日だって、涙も流さなかったんだぞ。

 


 

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