終えた平和のその先に
1
「ふ」
その暗闇には、一つの呼吸が存在していた。
いいや、呼吸の中に明確な笑みがある。まるで静寂の中に一滴の水が落ちるような、その不気味な笑い声の主は、深い闇でも何の不自由なく世界を歩き回っていた。
「ふ、ふふ、あははあ」
愉悦に浸るような、その笑顔。
輪郭や目鼻立ちの整ったその小柄な少女は、淑女の嗜みもテーブルマナーも知らない挙措で背を反らしてケタケタと笑い続ける。
まさに、笑いが止まらないといった具合で。
「ふっふ! ふっはははは‼ あっふふふふ、ふははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは‼」
その暗闇には、一つの呼吸が存在していた。
しかし、そこにあるものが一つであるとは限らない。
その背後。
まるで少女を支援する援軍か何かのように、地平線を埋め尽くす不気味な輪郭があった。その様相は、もはや軍隊。
『それら』を侍らせる彼女は、やはり笑みを刻んだままこう告げる。
積年の目標を、ついに指先の届く範囲に捉えたかのように。
「……さあ」
一言だけだった。
そう、そのたった一言は、世界を根本から揺るがす警告へと変貌する。
2
『ボスはやっぱりボスですね』
「……何のフォローにもなってないぞ、セレナ」
結城陸斗はテーブルに置いたスマートフォンを指で弾いていた。
夕食後、三澤花恋はバスルームに突入してしまった。何だか嫌な予感がする。ひょっとしたらこのまま今日はお泊まり会だとか言い出すのではないだろうか。
ちなみに、メアリー=ミレディアーナ=クラウド=ブロックバスターが作った料理は冷蔵庫の中である。美味しいパターンか、食べられないほどアレなパターンか。一体あのブツはどちらなのだろうか……と心の中でえらく失礼な事を考える理系高校生。
そして、当のメアリーはピンク色の瞳をジトーっと向けて、テーブルを挟んで陸斗の向かい合わせの椅子に座っていた。
「そう怒るなよメアリー。明日の朝にでもお前の料理は食べるって」
「ノー。怒っていません。私には人間らしいそのような機能はありません」
「明らかに唇を尖らせてるヤツが言う台詞じゃないぞ」
唇の形以外は全くの無表情であるが、この芸術品、意外と結構面倒臭いのかもしれない。
花恋の淹れてくれた食後のコーヒーをすすっていると、メアリーは退屈したようで、
「陸斗、テレビが見たいです」
「ご自由に。ただソファーに寝転がるならそのワンピースはやめておきなよ。スウェットか何か貸すからさ」
「流石にそこまで堕落するつもりはありません」
リモコンを手に取って、メアリーがテレビをつけた。
果たして、それは正解だったのか。
とにかく、その映像は飛び込んで来たのだ。
「政府は対応に追われており、住民は避難―――‼」
緊急ニュースのようだった。
そして、停電でも起きたかのように、ブツッ‼ とそれが一瞬だけ砂嵐の音を立てて千切れるように消えたのだ。
「……は?」
「何でしょう。リビングの照明が消えていないという事は停電ではないようですが」
緊急ニュースのお姉さんが慌てていた、という事実よりも身近なトラブルの方に強く疑問を抱くのが小市民というものなのだ。
そしてテーブルに置いたスマートフォンを手に取り、いつものように秘書を呼び出そうとした時であった。
ギシィ‼ と氷がひび割れるような轟音と共に、天井が大きく歪んだのだ。
「なっ、あ!?」
『
「何があった!? 天井が割れてるぞ!?」
『現在調査中……』
「花恋は無事か!?」
『ええボス。マンションの構造、それ自体が壊れている訳ではありませんので命に危険はありません。ただ、しばらくバスルームからは出られないでしょう』
「花恋は風呂の中にもスマホを持ち込んでいるはずだ」
『ボスもリビングからは出られませんね。わたくしから落ち着くように促しておきます』
「頼んだぞ。それより何が起きたのかまだ分からないのか?」
『現在調査中……』
舌打ちを一つ。
スマートフォンの画面を叩きそうになる陸斗に、テレビのリモコンを握ったままのメアリーが上空を見上げてボソリと呟く。その瞳は本当に拡縮していた。
「……陸斗、このマンションの上に何か大きなものが乗っています。構造の歪みはこれが原因だと思われます」
「なに?」
ちょっと待った、とスマホを握り締めた少年はひび割れた天井に目を向ける。
「オイ待て、ここが最上階って訳じゃないぞ……。上はどうなってる? 上の階は丸ごとペシャンコなんて事はないだろうな!?」
『ご安心くださいボス。マンション内の警備システムから情報の取得を完了。何とか耐えているようです。……しかし天井のアンテナや貯水タンクは破損してしまったようです』
「だからテレビが落ちたのか」
そして最も気になるもの。
メアリーが言っていた、『何か大きなもの』とは?
陸斗はベランダに乗り出そうとして、窓が開かない事に気づく。窓枠も歪んでいなければガラスも割れていないが、おそらく天井の重みが窓を締め付けているのだろう。
「くそっ!」
膝をガラスに叩き込み、窓ガラスを割る。
ベランダから屋上を見上げるために、窓に開いた穴から飛び出そうとした時だった。部屋の方に手を引っ張られて、そのまま抱きかかえられる。
「めっ、メアリー?」
「ガラスの破片が散乱しているベランダに出るのは危険です。出たいのでしたら私が運びます」
「だからってどうしてお姫様抱っこなんだよ! ちょっと恥ずかしい!」
「? 私は機械です。照れる理由が分かりませんが」
綺麗に三〇度、首を傾げるアンドロイド少女に抱えられて、陸斗姫はメアリー王子にベランダまで運んでもらう。
マンションの上を見上げる必要すらなかった。
陸斗の部屋の、隣の部屋。
一階から屋上まで、垂れ幕か何かのようにドロリとしたものが伝っている。
「……あれは」
ウロコまみれ。
どっぷりとしたダンゴムシのような体躯。
鋭い牙。
地下で目撃した、弱肉強食の世界の縮図の一つ。
昨夜見た時は、三メートルほどの大きさだったはずのそれは、しかしあまりにも大きさが異なる。軽く二〇〇~三〇〇メートルはあるそれが、昆虫の足のようにそびえる牙を建物に突き立てて、今にもマンションを崩壊させようとしていた。
「どうして、あれが、ここに……ッ!?」
彼は、知らない。
これが、歴史に名を残す戦争の始まりだという事を。
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