Ep.2 死体が誰だか分からない

 思ったより買い物に時間が掛かってしまった。雨は今も降りしきる。いや、先程よりも激しくなっている気がする。

 近所のおばさんと店で遭遇したのが本当に不運だった。それに耳を向けてしまった僕もだいぶ愚かだとは思うが。

 じゃぷん、じゃぷんとズボンに飛ぶ水が疎ましい。しかし、それを避けられる水溜まりのない場所など、今は存在しない。更には近くに車が通って、自分の服がずぶ濡れになる始末。泥水でなくて良かったと思うべきか。

 かなり冬に近いと言うのに何故、ここまで雨が降るのだろうか。まるで誰かが大泣きしているかのよう。

 非常に憂鬱な気分で家へと向かっていく。

 そこで、だ。謎の呻き声が聞こえ始めたのは。


「う……う……う……」


 奇妙な声である。たぶん他の人は空耳だと考えるだろう。僕は、違った。またもや嫌な予感しか生まれてこない。

 この方、とんでもない不運の星、いや死神の加護が自身に付いているのかもしれないのだ。こんなことがある時は大抵、死体を発見する。

 今日もまた?

 いや、待て。呻き声が聞こえるのだから、死にそうにはなっているけれども、今から死ぬとは限らない。

 助けなくては。


「だ、誰かいるんですか!?」


 もう返事はない。傘を振り回しながら、辺りを見回すもブロック塀ばかり。となると、一つ。ブロック塀の向こう側にいるものか。見る場所となれば、ブロック塀の一つに空いている穴みたいなところしかない。流石さすがにこの雨の中、ブロック塀をよじ登ることはできない。高過ぎるし、今だと滑って大怪我をする可能性だってあるのだから。

 穴を覗くのに傘は邪魔だから、その辺りに放り投げておいた。今は濡れることよりも人の安否を確認する方が先だ。

 じっと見つめると、そこに肝が冷えるような人の姿を発見した。


「あっ……ああああ……!」


 見慣れているのだから驚くべきではない。何処かの探偵ならば、そう言いそうなものではある。しかし、僕はただの人間だ。それに今は心が冷え切っている状態。嫌でも心の中から、腹の底から悲鳴のようなものが出てしまう。

 コートに上からナイフが突き刺さって、血塗れになって倒れている男の姿。男はコートからはみ出た手を動かし、何か助けを求めているのではないか。

 まずは救急車と警察だ。連絡をしながら、入口の場所を探さなくては。

 すぐ見つけられたはしたが、家の入口には鍵が掛かっている。門を壊そうかと思い切るも、そう簡単には動いてくれない。

 しかし、即座に門は開かれる。


「お、お前は……」


 開けたのは、たぶん犯人だ。

 自分より少し背の高い相手がマスクとサングラスとフードで顔を隠している。「ヤバい」と思って逃げようとした時にはもう遅い。奴の方が動きは早かった。片手に持った大きな岩を手にし、僕の方を殴りつけた。

 熱さと痛みに顔から血が出るのが理解できる。しかし、早く助けなければあの男がこいつに殺されてしまう。立ち上がろうと必死に動く。

 ただ相手はもう一発。


「もう警察も救急車も呼んだ……お前は逃げられないんだぞ……分かってるのか?」


 相手は答えない。こちらが必死の思いで喋っているのだから一言位返せよ、この野郎。そう叫びたいは力が残っていない。

 だから脅しでも使うか。


「早く諦めろ……ここには、知影探偵も来るだろ……そうすれば、アンタはすぐにお縄行きだ……早く自首をしろ……面倒臭いことになる前にな。僕をここで殺したとしても……」


 知影探偵の活躍はSNSでは少々有名になっている。だから相手が知っていることを願って、言ってみた。

 すると奴はどもりながらも、声を発した。酷く重い声。女性か男性かもこちらの頭がぼんやりしているせいか、分からない。


「あの娘の知り合いか……?」

「そうだ……けど?」

「なら……問題はないな」

「いや、あの探偵の推理力を舐めるなよ。あの人はだいぶたくさんの人を……」


 大半は僕の手柄もある。ただ、今はどうこう言っている場合でもない。相手を納得させるしか、ない。

 だけれども、相手は全く納得したような様子を見せない。それどころか、顔を大きく動かして、ニヤニヤしている。


「それは、好都合だ……いや、好都合と言うよりかは……」

「な、何だよ……」

「無理な話だ」


 何の意味が、と相手に問い詰めたくなったところで、意識は消えた。

 


「ねぇ、起きてる! ねぇ! 氷河くん!?」


 知影探偵の声、か?

 いや、違う。見慣れた天井と、赤眼鏡の刑事がいる。赤葉刑事だ。彼女が心配そうにこちらへ声を掛けている。だから、返さなければ。


「あ、赤葉刑事……」

「ああ、良かった! 何かぶつぶつ言い始めたと思ったら……」

「僕、寝言言ってたんですか……いててて……!」


 急に頭が痛くなる。たぶん殴られた場所だ。そこには適切な包帯での処置がされていた。そんな様子にまたもや眉を下げて、気に掛けてくれる赤葉刑事。


「だ、大丈夫? あっ、そうだ。先生を」

「ちょっと待ってください! 先生が来る前に一つ話を」


 ……よくよく考えると何故医者を呼ぶことより、刑事から話を聞くことを優先してしまったのだろうか。やはり、自分は事件が気になる質なのか。逃げられないのか、自分の性質からは。


「何?」

「あの男性、どうなりましたでしょうか……」

「それが……まぁ、君が呼んだ救急車は自身が乗ることになったって言えば、分かるかな」


 彼女は首を横に振る。


「ああ、亡くなったのですね」

「いえ、違うの。いや、まぁ、もうたぶん、そういう感じなんだけど」


 何だかハッキリしなくて、違う意味で頭が痛くなってくる。


「もっとちゃんとお願いします」


 興味を持った途端、予想外の答えが飛んできた。


「その庭には確かに血痕があったんだけど、その氷河くんが通報したって、男の人が見つからなかったらしいの……」

「えっ……」


 つまり、事件現場から遺体が消えた、と。分かるが、たぶん奴が持ち去ったのだ。僕を殴り殺そうとした、あの人物が。いや、僕を殴ったのは単に死体遺棄を邪魔されたくなかったからか。

 考えている最中に彼女から問いかけが来た。


「で、ねぇ、被害者の顔とか覚えてる……?」

「ダメです……被害者の顔なんて、覚えてないんですよ……あったとしても、見覚えがないんですよ……全く手掛かりが……全く全くと言って、手掛かりが今、ないみたいです……!」


 被害者が誰かすら分からない、とんでもない事件がこうして幕を開けてしまったのだ。




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