エピローグ
晴れ渡った空の下で富士山を見上げながら、再び富士沢に戻って来た喜びを実感した。
三週間ぶりの帰還だった。
富士沢にもキメラの発症者が出て、慶新大学病院に収容された。
だが私たちはもう恐れることはない。既にキメラの特効薬は我々の手中にある。
二人が死の淵から生還した後、私たちは横浜市立大学病院に直行した。ここには橋本先生の知り合いの教授が医者として勤めていた。
橋本先生はその教授に自分たちの発見を説明し、ビーツを患者に飲ませる許可をお願いした。もう死んでいくのを見ていくしか手立てがないので、その教授は喜んで応じてくれた。
最初ビーツを飲ませただけでは変化は起きなかったが、ディルを合わせて食べさせると、患者はすぐに回復した。二人のときと同じく劇的な効果だった。
橋本先生は持ち込んだビーツとディルの成分を分析し、同じ成分の化合物を生成した。これには横浜市立大学病院の薬剤スタッフも、総力を挙げて協力してくれた。
できあがった化合物を患者に投与すると、生のビーツとディルを飲ませるのと同じ効果を示した。
約二週間で百人以上の患者に投与したが、他に合併症を併発してない限り、約九五%回復を示した。
橋本先生はこの一連のデータを、インターネットで世界に向けて発信した。もしかしたら薬事法に抵触して、医師免許をはく奪されるかもしれなかったが、橋本先生は躊躇しなかった。医師としての責任感と、死の淵から生還した開き直りだと、笑っていた。
同時に橋本先生は慶新大学病院に連絡して、成分表を基に富士沢市民用の薬の製造を指示した。
「正直言って、富士沢を出るときはこうして戻って来れるとは思わなかったな」
慎二先生が運転しながら感慨深げに呟いた。
「おいおい、今頃そんなこと言うなよ」
橋本先生が後席で呆れたように非難した。
「いや申し訳ないが、九割がた死ぬだろうと思っていた。それでも治療の手がかりがつかめればと、自分を奮い立たせて旅立ったんだ」
「特攻精神だな」
橋本先生は今度は完全に呆れてしまった。
「今回治療の目途がついたのは、柊さんがいてくれたおかげだな」
「まったくだ。三上さんのおかげで再び富士山をこんな晴れ晴れした気持ちで見ることができる」
私は持ち上げられて複雑な気持ちだった。二人の不屈の精神に比べれば、私など未来から持ってきた財産に助けれているだけだ。
「柊さんには申し訳ないが、この世界に来てくれて本当に良かった」
慎二先生がしみじみとそう言うと、橋本先生が全くその通りだと言って頷く。
目が涙で滲んで前が見えなくなりそうだった。
「私はここに来て良かった。何の感動もなく生きて来たのに、ここでは生きるということを実感できます」
私の言葉に二人ともピンと来ない顔をしていた。
無理もない、機械によって生かされ、何の感動もなく不満もない毎日など、二人には想像もつかないだろう。今の私には困難さえも生きる喜びに感じるのだ。
「それにしてもキメラウィルスって何だったんだろうな」
慎二先生が独り言のように呟いた。
「世界の人口もかなり減ったな」
「命の危険が去ってしまえば、これは人間のおごりに対する警鐘だとか、いろいろ言い出す奴が出てくるんだろうな」
慎二先生がうんざりした表情でそう言うと、橋本先生が笑いながら答えた。
「そうなれば、それだけ人の心が平常に戻ったと言うことじゃないか。俺たちはもっと大きな気持ちで世の中の動きを感じた方がいいぞ。俺たちの頑張りが、世界を元に戻す一助になったのだから」
「完全に元に戻るわけじゃないと思います」
私は思わず二人の会話に口を挟んでしまった。
「柊さんはなんでそう思うのかな?」
慎二先生は嬉しそうに理由を訊いてきた。
「ここに来て思うことは、人々は常に成長してるということです」
「常に成長?」
「はい、身体だけじゃなく、この世に起きる全ての事象を経験して心も成長していきます」
「今回だったら具体的にはどんな成長をしたんだろう」
「そうですねぇ。うまく言えませんが、世界中の人が等しく命の価値を実感したんじゃないでしょうか」
「命の価値か……」
慎二先生は私の言葉を噛みしめるように繰り返した。
「はい、私はこれまで三度命が燃え尽きようとする瞬間に立ち会いました。一度目は島津昌代さんが亡くなったときです。慎二先生の患者さんだった島津壮介さんの奥さまです」
「ああ、覚えてるよ。旦那さんの後を追うように亡くなった」
「そうです。壮介さんの看病をしているときは、二人でいられる喜びを噛みしめるように明るく生きて、最後は満足して一緒に逝きました」
「二度目は?」
「下条先生の婚約者の佐川さんです」
「ああ、膵臓癌で亡くなった」
「彼は短い生涯でしたが、下条先生のために頑張って治療をして、満足感を得ながら亡くなりました」
「なるほど。最後は?」
「最後は岩根さんです。彼は助かりましたが、やはり自分の理想のために頑張った挙句、殺し屋によって生死の境をさまよいました。助かってから彼は私に言いました。理想だ正義だと言っても、生きていてこそ意味があると。生きてるから追うことができるのだと」
慎二先生と橋本先生は黙って私の話の続きを待っている。
「死って忌み嫌われるものですが、これを身近に感じるとき、人間は命の価値を実感するんだと思います。世界中の人々が自分の死を覚悟して、命の価値に気づいたんじゃないかと思います」
「三上さん分かる。凄いよく分かる。私も自分が死にかけて、もう名誉とかプライドとか考えなくなったよ。ただ、生きてる限り本当に意味のあることをしたいと思ったから」
「そうだな。でも俺は木乃美にはまだそんなことは思わないで欲しいけどな」
慎二先生はしみじみとそう言って窓の外を見た。きっと木乃美ちゃんのことを思い出してるのだろう。
車は市内を抜けて、病院に近づいて行く。短い日数だったがとてつもなく長く感じた旅も終わろうとしている。今でも鮮明に思い出す、二人の死へのカウントダウンを。
だがきっとそれもいつかは遠い記憶になるのだろう。なぜなら私もこの世界ではやがて死を迎える。それまでは命の価値をしっかりと感じて、毎日を懸命に生きていくからだ。
いよいよ病院の敷地に入った。駐車場に車が向かうと、そこには大勢の人が出迎えに来てくれていた。
東さん、慎蔵さん、満江さん、藤山さんと妙子さん、志津恵さんと木乃美ちゃんに、病院の先生方や看護師の皆さんもいた。
でも一番最初に目に入ったのは、両手を振って叫んでいる毬恵さんだった。
「おかえりなさい」と。
千年隔てて出会った君と ヨーイチロー @oldlinus
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