想いが通じる五分前――長野県、日本。九月三日 午後三時四十五分。

 彼は待っていた。

 午後から夕方にかけて、激しいにわか雨が降る確率は九十%。自転車置き場の屋根の向こうに見える空は、どんよりと重い。あいうええおあお。演劇部の発声練習が聞こえてくる。二限目の現国の授業、教科書を朗読する彼女の声がよみがえる。「駅長さあん」。彼も真似してつぶやく。「駅長さあん」。彼女ほど聴く人の心を惹きつける朗読をする人を、彼は知らない。決して大げさではなく、かといってよそよそしくもなく、適切な温度と距離感をもって、彼女は文章を読んだ。中学からずっと、彼は彼女の朗読を注意深く聴き続けてきた。彼女の声を思い出しながら、彼は何度も教科書を読み返した。空は、さっきよりもさらに暗さが濃くなっている。彼はイヤホンを耳に入れる。舌足らずな女の子のボーカルが歌う。――僕たちに無駄なことなんてなにひとつない。二次方程式だって、役に立つ。あの子と話すきっかけになるのさ――。昼休みの教室で、彼女は言った。「あ。どうしよ。傘忘れた」。彼は彼女と目が合った。たまたまそのとき、彼は折り畳み傘を手にしていた。「えらい。傘持ってきてる」。彼女の言葉に、彼はうなずいた。「帰り、降ってたら、入れてもらおっかな」。彼女の言葉に、彼は再び無言でうなずくことしかできなかった。

 ちょんちょん、と彼の肩がつつかれた。

 振り返ると、同じクラスの女子生徒が、彼のそばに立っていた。彼はイヤホンを外した。

「あんさ」女子生徒が言った。「あいつ、待ってんだろ」

 口を開こうとする彼を、女子生徒は、手で制した。

「いいから、いいから。あいつ、今日はこっちからは出てこんよ」

「え、でも――」

「だって、今日、部活ないじゃん」

「しまった」彼は、ひざに手を当てた。「もしかして、もう――」

「いんや」女子生徒は首を振った。「まだいた。でも、もうそろそろ――」

 女子生徒の言葉を、突然激しい雨音がさえぎった。

「あちゃー。やっぱ、きたかー」

 滝のような雨が、地面を叩く。自転車置き場のトタン屋根を打つ雨音に負けないように、女子生徒は一語一語区切りながら、大声を張り上げた。

「まだ! いると! 思うけど! 早くしないと! 帰っちゃう! 昇降口の! 方! 行って! みな!」

 彼は、こくこくと、うなずいた。

「がんばれよ。そんじゃな」女子生徒は、ぱん、と彼の背中をたたいた。「そんじゃな、あたしのお人よし」

 最後のひと言は、雨の音にかき消されて、彼の耳には届かなかった。女子生徒は鞄を頭上に掲げると、激しい雨の中、裏門の方へ駆けていった。

 彼も自転車を押して、昇降口の方へ向けてとび出した。 

 いや、待て。彼は立ち止まる。傘がひとつに自転車って。彼は自転車のかごの中のカバンから折り畳み傘を取り出すと、走り出した。ガシャン。自転車が倒れる音を背後に聞きながら、土砂降りの雨の中、彼は、昇降口に向かって全速力で走り出した。

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初恋フロントライン Han Lu @Han_Lu_Han

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